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九時三十分の正義は、雨の月曜日に報われる  作者: 久遠 睦


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逆転のスコアボード

第四部:逆転のスコアボード


1. 硝子の城の亀裂


六月。梅雨の湿った空気が、オフィスビルの人工的な冷気と混ざり合い、重苦しい空気を生み出していた。

しかし、真白の心は、あの日カフェで見た雨上がりの空のように澄み渡っていた。

真白は今、二つの「顔」を使い分けていた。

一つは、上司の罵倒を淡々と受け流し、過酷な業務を黙々とこなす「従順な若手社員」の顔。

そしてもう一つは、デスクの影で、あるいは深夜の自宅で、着実に「弾丸」を詰め込んでいく「告発者」の顔だ。

佐伯正三との契約以来、真白の行動には迷いがなかった。

「宮本! この資料、昨日の数字と違うじゃないか! 何度言わせればわかるんだ!」

課長の怒鳴り声がフロアに響き渡る。以前なら、真白の肩はびくついたはずだ。だが今は違う。

(……六月十四日、十四時二十二分。必要以上の大声での叱責。内容は私のミスではなく、課長自身の指示ミスによるもの。録音完了)

真白は静かに頭を下げる。

「申し訳ありません。すぐに修正いたします」

その声は驚くほど冷静だった。

「ちっ、可愛げのない女だ。最近、何を考えてるんだか……」

課長は舌打ちをして去っていく。彼は気づいていない。自分を「無能な歯車」と見下していたはずの部下が、今や自分の首を絞めるロープを編み上げていることに。

真白が最も心を痛めていたのは、共に戦う同期たちの姿だった。

ランチタイム。誰もいない非常階段の踊り場で、同期の里美が膝を抱えて泣いていた。

「真白……私、もう無理かも。昨日の夜、帰り道でどっちが車道かわからなくなっちゃって。……消えたい、って思っちゃった」

里美の指は、キーボードの叩きすぎで細かく震えている。

真白は里美の隣に座り、その震える手を握りしめた。

「里美、消えなくていい。消えるべきなのは、私たちじゃない」

「え……?」

「あと少しだけ、待ってて。私、やり返そうと思ってるの。あなたの分も、高橋くんの分も」

真白の瞳に宿る強い光に、里美は息を呑んだ。

「真白、何をするつもりなの……?」

「正義を、取り戻すだけ。九時三十分のあの時に、私たちが捨てさせられた誇りをね」


2. 仕掛けられた罠


真白の「変化」に、会社側も敏感に反応し始めていた。

特に、入社式で真白を断罪した人事部長の工藤は、彼女の冷徹なまでの落ち着きを不気味に感じていた。

「宮本くん。君に特命の仕事がある」

ある日の夕方、工藤に呼び出された。

手渡されたのは、大手取引先との重要な契約書一式と、プロジェクトの最終プレゼン資料だった。

「わが社が社運を賭けているプロジェクトだ。これを明日の朝までに最終確認し、先方の担当者に届けてほしい。……重大な仕事だ。ミスは許されないぞ」

真白は直感した。これは罠だ、と。

一平社員である自分に、これほど重要な書類を単独で任せるはずがない。もし何か不備があれば――あるいは、故意に不備が仕込まれていれば――すべての責任を自分に着せ、合法的にクビにするつもりだ。

デスクに戻り、真白は深夜まで資料を精査した。

果たして、罠は見つかった。

契約書の肝となる金額の桁が、一箇所だけ巧妙に書き換えられている。さらに、添付されている機密保持契約書には、真白の個人印が押された場合に彼女が全責任を負うという、不当な条項が紛れ込んでいた。

「……なるほど。これを私に『確認済み』として提出させ、後で背任行為として訴えるつもりね」

真白は静かに笑った。

彼女は、そのすべての証拠をスキャナーで読み取り、佐伯正三から指定された秘匿アドレスへと送信した。

同時に、本来あるべき正しい資料を「個人的に」作成し、バックアップを取った。

その時、スマホが震えた。正三からの短いメッセージだった。

『準備は整った。明日の朝、九時三十分。決着をつけよう』


3. 嵐の九時三十分


翌朝。雨は、あの日と同じように激しく降り続いていた。

真白は、傷のついたパンプスを磨き上げ、最も凛とした表情で会社へ向かった。

九時十五分。

「宮本! 資料はできたのか!」

課長が血走った目で真白に詰め寄る。

「はい。こちらに。……ただし、人事部長に直接お渡しするよう指示を受けておりますので」

「なんだと? 偉そうに……まあいい、工藤部長がお待ちだ。さっさと行け」

役員会議室の前には、工藤人事部長と、数人の役員が待ち構えていた。

「宮本くん、資料は?」

工藤の口角が、勝ち誇ったようにわずかに上がっている。

「こちらです。ただし、部長。この資料を先方に届ける前に、確認していただきたいゲストが到着しております」

「ゲスト? 何を言っている。ここは部外者立ち入り禁止だぞ」

工藤が不快そうに顔を歪めた、その時だった。

重厚な廊下の向こうから、一人の老紳士が歩いてきた。

杖を突きながらも、その背筋は鋼のように真っ直ぐで、周囲の空気を一変させる圧倒的な威厳を放っている。

「……さ、佐伯顧問!?」

工藤の顔から血の気が引いた。役員たちが一斉に立ち上がり、椅子が床を擦る不快な音が響く。

東和ソリューションの親会社を含め、この地域の経済界を牛耳る「生ける伝説」。

「どうして、先生がここに……」

「工藤くん。久しぶりだね」

正三は工藤を一瞥もせず、真白の隣に立った。

「私の大切な『友人』が、君たちにずいぶんと可愛がられていると聞いてね。少し様子を見に来たのだよ」

「友人……? 宮本が、ですか?」

工藤の額から脂汗が滲み出す。

「彼女は、私の妻の命の恩人だ。そして、類稀なる正義感と実務能力を持った、未来のリーダーだ。……だが、この会社では『規律を乱すわがままな社員』という扱いらしいな」

正三が合図をすると、彼が連れてきた弁護士たちが、一斉にタブレット端末を起動させた。

そこには、真白がこの二ヶ月間、血を吐く思いで集めてきた「真実」が映し出されていた。

深夜二時を回る退勤記録。

課長による執拗な暴言の数々。

そして、昨夜、工藤が真白に渡した「細工された契約書」の比較データ。

「これは……! 先生、これは何かの間違いで……!」

「間違い? ほう、ではこの音声は何だね?」

正三が再生したスピーカーからは、入社式の日の工藤の声が流れた。

『人助けも結構だが、場所と時間を考えなさい。君一人のわがままな行動で、式の進行は乱れた。この損失をどう考えている?』

会議室は、墓場のような静寂に包まれた。


4. 歯車の叛逆


正三はゆっくりと、真白の前に置かれた資料を手に取った。

「工藤くん。君は九時三十分の遅刻を理由に、彼女の尊厳を奪った。だが、その九時三十分のおかげで、私の妻は今も生きている」

正三の目が、鋭いナイフのように工藤を射抜く。

「命よりも規律を重んじ、さらに自分たちのミスや不正を新人に押し付けようとする。これが君たちの言う『信頼』かね? 私はね、こういう不誠実な組織を、私の街に残しておくつもりはないんだよ」

「そ、そんな……取引を停止されると、うちは……!」

「停止だけではない。法的な責任も追求させてもらう。……さて、真白さん」

正三が、優しく真白を振り返った。

「君はどうしたい? この腐った城を壊して、私と一緒に来るか。それとも、ここで彼らが平伏すのを見てから決めるか」

真白は、震える手で自分の社員証を掴んだ。

入社式の日に、誇りを持って首にかけた青いストラップ。

彼女はそれをゆっくりと外し、テーブルの上に置いた。

「私は、あの日助けた方の命に、恥じない生き方をしたいです」

真白は工藤を、そして課長を、真っ直ぐに見据えた。

「部長。私はあの日、九時三十分の自分を後悔したことは一度もありません。後悔しているのは、あなたのような人に認めてもらおうと、必死に自分を殺そうとした、この二ヶ月間の私です」

真白の言葉は、会議室の壁を突き抜け、フロアで息を潜めていた同期たちの耳にも届いていた。

ドアの隙間から、里美が、そして他の同期たちが、真白の姿を見守っていた。彼らの瞳にも、消えかけていた火が灯り始めていた。

「私は今日、この会社を辞めます。でも、逃げるのではありません。自分の名前を取り戻すために、ここを出るんです」

真白は深く、一度だけ一礼した。

それは会社に対してではない。自分の中に残っていた、最後の「未練」に対する別れの挨拶だった。

正三が真白の肩に手を置いた。

「行こう、真白さん。雨はもう、上がっている」

会議室を出る真白の背中に、工藤の情けない叫び声が追いすがったが、彼女は一度も振り返らなかった。

廊下では、里美が泣きながら笑って、真白を見送っていた。

真白は里美に小さく頷き、唇の動きだけで伝えた。

(次は、あなたの番だよ)

エレベーターを降り、エントランスを出ると、正三の言葉通り、雲の間から強烈な太陽の光が差し込んでいた。

濡れたアスファルトが宝石のように輝いている。

真白の、本当の「九時三十分」が、今ここから始まろうとしていた。


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