名前を取り戻すための契約
第三部:名前を取り戻すための契約
1. 珈琲の熱と、凍てついた告白
雨音が窓を叩く音だけが、カフェの静寂を際立たせていた。
真白の前に置かれたのは、湯気を立てる温かいカフェ・オ・レ。老婦人――佐伯芳江が、震える真白の肩に自分のカーディガンをそっと掛けた。
「……すみません。私、会社に行かなきゃいけないのに、こんなところで」
真白は涙を拭いながら、消え入りそうな声で言った。スマホはポケットの中で、上司からの怒声のようなバイブ音を執拗に繰り返している。
「いいんですよ、お嬢さん。今は、その魔法の箱のことは忘れなさい」
夫の佐伯正三が、穏やかながらも威厳のある声で言った。
「あの日、あなたが命を懸けて救ってくれたのは、私の妻だけではありません。私の人生そのものでした。……だが、あなたのその様子を見るに、あの九時三十分という時間は、あなたにとって幸福な時間ではなかったようだ」
正三の言葉に、真白の胸が疼いた。
「……あの日、遅刻したんです。入社式に、三十分。人助けをしたと言っても、人事部長には『わがままな行動だ』と言われました。組織の規律を乱した、責任感がないって……」
一度溢れ出した言葉は、もう止まらなかった。
誰にも言えなかった一ヶ月分の苦しみが、泥水のように流れ出す。
サービス残業、パワハラ、同期の離脱。そして、あの日救った「命」よりも、会社の「時間」の方が重いと言い切られた絶望。
「私は……ただ、正しいと思ったことをしたかっただけなんです。でも、この会社にいると、何が正しいのか分からなくなって。自分がただの、壊れかけの歯車になったみたいで」
真白が話し終えるまで、二人は一言も遮らずに聞いてくれた。
芳江は真白の手を握り続け、正三は厳しい表情で、しかし慈しむような眼差しを彼女に向けていた。
2. 賢者の正体
「……宮本真白さん。とおっしゃるんですね」
正三が、真白の胸元にある名札(今朝、外すのを忘れていたものだ)を見て、静かに言った。
「あなたの勤めている『東和ソリューション』という会社。……実は、私はよく知っています」
真白は顔を上げた。
「え……?」
「私は以前、あの一帯の再開発に関わっていた者でね。今は隠居の身だが、東和の現社長とは、彼がまだ平社員だった頃からの腐れ縁でね。最近のあそこの噂は、私の耳にも入っていた。利益至上主義に走り、社員を使い捨てにする……まさか、命の恩人がその犠牲になっていようとは」
正三が懐から取り出した名刺には、誰もが知る大手不動産グループの「名誉顧問」という肩書きが刻まれていた。
真白は言葉を失った。目の前にいるのは、ただの老夫婦ではなかった。かつてこの街の礎を築いた、経済界の重鎮だったのだ。
「真白さん。あの日、あなたが取った行動は、ビジネスの言葉で言えば『最大の英断』です。誰もがリスクを恐れて逃げる中、あなたは一秒の迷いもなく、守るべき価値(命)を選択した。それは、どんなマニュアルにも書けない、最高級の資質だ」
正三の瞳に、鋭い光が宿る。
「規律は、人を幸せにするためにある。人を壊すための規律など、ただの暴力だ。……あの日、あなたが救った命の重さを、その会社は理解できなかった。ならば、こちらから教えてやる必要がある」
「教えてやる……って、どうやってですか?」
真白の問いに、正三は不敵な笑みを浮かべた。
「真白さん、あなたに『仕事』を依頼したい。東和ソリューションの社員としてではなく、私個人の、特別なアドバイザーとしてだ」
3. 秘密のプロジェクト
正三の提案は、驚くべきものだった。
「私は現在、若手の起業家を支援する財団を運営している。そこでは、数字や効率だけでなく、『誠実さ』を最大の評価基準にしているんだ。真白さん、あなたは今の会社で耐え忍びながら、内側から彼らの実態を記録してほしい。いつ、誰が、どんな理不尽な命令を下したか。サービス残業の証拠、パワハラの記録……すべてだ」
「それは……内部告発、ということですか?」
「いや。もっと前向きな、脱出計画だ。あなたが集めたデータをもとに、私は東和の社長と直接交渉する。改善されないのであれば、我々のグループは東和とのすべての取引を白紙に戻すとね」
真白は息を呑んだ。一平社員の自分には想像もつかないような、大きな力の動き。
「でも、そんなことをしたら、私は会社にいられなくなります」
「当然だ。あんな場所には、一刻も長くいてはいけない」
芳江が、真白の手を力強く握りしめた。
「真白さん。その後のことは、私たちが責任を持つわ。私たちの財団で、あなたのその『正義感』を存分に発揮できる場所を用意させて。あなたは、歯車なんかじゃない。誰かの人生を動かす、大切な太陽なのよ」
窓の外では、雨が小降りになっていた。
雲の切れ間から、わずかな光が差し込み、アスファルトの上の水たまりを反射させている。
真白の心の中に、今まで感じたことのない感情が芽生えていた。
それは、恐怖ではなく、高揚感だった。
自分を否定し続けた会社に、自分の価値を突きつけてやる。
奪われた「九時三十分」の誇りを取り戻すための、これは戦いなのだ。
「……やらせてください」
真白は真っ直ぐに正三を見つめた。
「私、あの会社で、もう一度ちゃんと働きます。でも、それは会社のためじゃありません。自分の正義が間違っていなかったことを、証明するためです」
「いい目だ」
正三は満足げに頷いた。
「では、契約成立だ。……さあ、冷めないうちにカフェ・オ・レを飲みなさい。明日からのあなたは、もう昨日のあなたではない」
4. 偽りの仮面、真実の眼差し
翌火曜日。真白は定刻の十五分前に出社した。
「おはようございます」
明るく、はっきりとした声。
デスクに座っていた佐藤先輩が、幽霊でも見るかのような目で真白を見た。
「……あんた、昨日無断欠勤したじゃない。課長、激怒してるわよ。今すぐ謝りに行きなさい」
「はい、ありがとうございます」
真白は微笑んで答えた。その余裕のある態度に、佐藤は毒気を抜かれたように黙り込んだ。
課長室に入ると、案の定、怒号が飛んできた。
「宮本! 昨日は何のつもりだ! 社会人の自覚が……」
「申し訳ありません。体調を崩しておりました。以後はこのようなことがないよう、徹底して『業務』に邁進いたします」
真白は深く頭を下げながら、デスクの下でスマホの録音ボタンを静かに押した。
課長が吐き出す罵詈雑言。
「お前みたいな使えない奴は、死ぬ気で働いてようやく人並みなんだよ」
「嫌なら辞めろ。代わりはいくらでもいる」
「今月の残業代? 人助けした日の遅刻分を考えれば、マイナスなくらいだろ」
(……言ったわね、全部。記録したわよ)
以前なら、これらの言葉は鋭い刃となって真白の心を切り裂いていただろう。
だが、今の真白には、心の盾があった。
この言葉の一つ一つが、自分の自由へのチケットになる。そう思うと、課長の歪んだ顔さえ、滑稽な役者の演技のように見えた。
席に戻った真白は、猛然と仕事をこなした。
これまでのように「怒られないため」ではなく、「最短で証拠を揃えるため」に。
周囲の同期たちが死んだような顔で働く中、真白だけが、静かな情熱を宿した瞳で画面を見つめていた。
その日の夜、二十二時。
誰もいなくなったオフィスで、真白は一通のメールを自分宛てのプライベートアドレスに送った。
今日一日で行われた不当な業務命令のリストと、サービス残業の記録。
(あと少し。九時三十分の私が、今の私を支えてくれてる)
オフィスビルを出ると、夜風は心地よく、街の灯りはあの日よりもずっと美しく見えた。
真白の反撃は、まだ始まったばかりだ。




