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九時三十分の正義は、雨の月曜日に報われる  作者: 久遠 睦


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磨り減る歯車、五月の雨音

第二部:磨り減る歯車、五月の雨音


1. 夢の残骸と22時のオフィス


入社して二週間が経つ頃には、真白の瞳から輝きは消え失せていた。

就職活動中、何度も読み返した会社のパンフレットには、美しい言葉が並んでいた。『風通しの良い職場』『若手の挑戦を後押しする文化』『ワークライフバランスの充実』。

しかし、現実はそのどれとも正反対だった。

「宮本さん、これ。明日の朝一番の会議までにまとめておいて」

夜の二十一時を過ぎた頃、教育係の先輩・佐藤が、ドサリと分厚い資料をデスクに置いた。彼女の顔もまた、酷くやつれている。

「あの、佐藤さん。これ、昨日の分の集計もまだ終わっていないのですが……」

「私に言わないでよ。課長が『今日中にやらせろ』って言ってるんだから。文句があるなら課長に言って」

佐藤は吐き捨てるように言うと、自分のバッグを掴んで足早に立ち去った。彼女もまた、限界なのだ。この会社には、誰かを育てる余裕など、一滴も残っていない。

真白は、青白い液晶画面に向かい直した。

オフィスを見渡せば、キーボードを叩く乾いた音だけが響いている。誰も会話をせず、ただ機械的に指を動かす。

入社式の日、工藤人事部長が言った「規律」という言葉の意味を、真白は痛いほど理解し始めていた。それは「個人の事情を殺し、会社の家畜として機能せよ」という宣言だったのだ。

サービス残業は当たり前。タイムカードは十九時に切らされ、そこからが本当の仕事の始まりだ。

「社会貢献」という美名の下で行われるのは、競合他社を蹴落とすための姑息な書類作成や、実態の伴わない宣伝活動ばかり。

(私、何のためにあの日、あの人を助けたんだろう……)

ふと、自分の手のひらを見つめる。

あの時、心臓の鼓動を感じた手のひら。

一人の命を救ったはずの自分の手が、今は誰の役にも立たない無機質な数字を打ち込むためだけに使われている。そのギャップが、真白の心をじわじわと侵食していった。


2. 消えていく背中


四月の終わり。

同期入社の仲間たちとの「親睦会」という名目の飲み会が開かれた。

しかし、そこに集まった十数名の顔に、新社会人の初々しさはない。

「……僕、もう無理かもしれない」

同じ部署に配属された高橋が、ジョッキを握りしめたまま俯いた。

「毎日終電だし、休みの日も課長からLINEが来る。人助けの宮本さんは、まだ頑張れてるの?」

「……頑張ってるっていうか、ただ、辞めるって言う勇気がないだけだよ」

真白は力なく答えた。

真白は「正義感」が強い。それは裏を返せば「無責任なことはできない」という呪縛でもあった。

自分が今ここで辞めれば、残された佐藤先輩や他の同期に迷惑がかかる。自分が抜けた穴を誰が埋めるのか。そう考えると、喉まで出かかった「辞めます」という言葉を飲み込まざるを得なかった。

だが、現実は非情だ。

大型連休――ゴールデンウィークを前に、高橋が会社に来なくなった。

机の上には、彼が大切にしていたペン立てと、読みかけのビジネス書だけが残されていた。

「最近の若いのは根性がないな」

課長のその一言で、一人の人間がこの場所から抹消された。まるで、最初から存在しなかったかのように。

ゴールデンウィーク。

世間が「リフレッシュ」という言葉に踊る中、真白は泥のように眠り続けた。

どこかへ出かける気力も、友達と会う気力もない。ただ、休みが終わる恐怖だけが、心臓を規則正しく締め付ける。

最終日の夜、真白はベッドの中で震えていた。

明日が来なければいい。世界が止まってしまえばいい。

そんな暗い願いを抱きながら、彼女は重い眠りに落ちた。


3. 五月十日、雨の月曜日


ゴールデンウィーク明けの月曜日。

予報通りの冷たい雨が、街を灰色に染めていた。

真白は駅のホームで、電車を待っていた。

スーツを着た大人たちが、傘をすぼめて列に並んでいる。その光景が、屠殺場へ向かう羊の群れのように見えてしまった。

(行きたくない)

一歩、足を前に出そうとした瞬間、強烈な吐き気が真白を襲った。

冷や汗が吹き出し、視界がぐにゃりと歪む。

電車がホームに入ってくる。凄まじい風圧と、金属の擦れる音。

その音に背中を押されるように、真白は反射的にホームのベンチへ逃げ込んだ。

電車が、大勢の人間を飲み込んで走り去っていく。

真白は動けなかった。指先ひとつ動かすのが、山を動かすほどに重く感じられた。

スマホの画面には、会社からの着信通知が並び始める。

「今どこだ」「会議が始まるぞ」「社会人としての自覚を持て」。

無機質な文字の羅列が、鋭い針となって真白の精神を突き刺す。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

誰に対しての謝罪なのかもわからず、真白は雨の中を歩き出した。

会社とは反対の方向へ。

雨に打たれ、スーツの裾が重くなっていく。

どこへ行けばいいのかわからない。でも、あそこ(会社)にだけは行けない。

気づけば、彼女はあの場所へ辿り着いていた。

一ヶ月前。

希望に満ちていた自分が、一人の命を救った場所。

そして、その誇りを無残に踏みにじられた場所。

『Cafe de l'Aubeカフェ・ド・ローブ』。

雨に煙る看板が、手招きしているように見えた。

真白は震える手で扉を開けた。カランコロン、と乾いた鈴の音が、彼女の逃避を祝福するように響いた。


4. 湯気の向こうの再会


店内は、あの時と同じように静かだった。

雨のせいか客足はまばらで、珈琲の香りが心地よく鼻腔をくすぐる。

真白は、あの時と同じ窓際の席に座った。

濡れたスーツのまま、魂が抜けたような顔で外の雨を眺める。

(もう、終わりだ)

無断欠勤。このまま私は、あの中途半端に消えていった同期たちと同じように、社会のゴミとして捨てられるのだ。

二十二歳。私の人生は、こんなに早く詰んでしまった。

頬を伝ったのは、雨水か、それとも涙だったのか。

「……あ。やっぱり、あなただ」

穏やかで、しかし確かな響きを持った声が、真白の耳に届いた。

顔を上げると、そこには一組の老夫婦が立っていた。

上品なグレーのコートを着た初老の男性と、その腕をしっかりと掴み、穏やかに微笑む女性。

真白は、息を止めた。

「……あの時の」

そう、一ヶ月前、アスファルトの上で死の淵を彷徨っていた、あの女性だった。

彼女の顔色は、あの日の土気色とは打って変わって、春の陽だまりのような温かい血色を取り戻していた。

「ずっと、探していたんですよ。このお店の店員さんに聞いても、お名前までは分からないとおっしゃるし……。でも、今日なら会えるような気がして、主人と来てみたんです」

老婦人が、真白の前に一歩踏み出した。

真白は椅子から立ち上がろうとしたが、足が震えて上手く力が入らない。

「座ったままでいいのよ。ねえ、あなた」

「ああ。本当に、お会いできてよかった。あの日は、家内を救ってくださって、本当にありがとうございました」

旦那さんが、深く、深く頭を下げた。

その姿を見て、真白の胸の奥に溜まっていた「何か」が、一気に決壊した。

「私……私、あの……」

言葉にならない。

会社で罵倒され、存在を否定され、ゴミのように扱われてきたこの一ヶ月。

「規律を乱した」「わがままな行動だ」と責められ続け、自分でも自分のしたことが間違いだったのではないかと疑い始めていた。

「あの時、あなたが手を離さないでいてくれたから、私は今、こうして主人の淹れてくれるお茶を美味しいと感じられるの」

老婦人は、真白の濡れた冷たい手を、そっと両手で包み込んだ。

「あなたの手は、とても温かかった。あの時、心臓に触れていたあなたの手の温かさで、私は目が覚めたのよ」

温かい。

その体温が、真白の凍りついた心に染み込んでいく。

私は、間違っていなかった。

九時三十分のあの選択は、この人の「今」に繋がっていた。

「……よかった。本当に、よかった……」

真白の目から、大粒の涙が溢れ出した。

二十二歳の新社会人。

理不尽な組織の歯車になりかけていた彼女は、その雨の月曜日、ようやく自分という人間を取り戻した。

「お嬢さん。もしよかったら、私たちとお茶を飲んでくれませんか?」

旦那さんが、優しく椅子を引いた。

「あなたの正義が、どれほど私たちを救ったか。それをゆっくりお話ししたいんです」

窓の外では、まだ雨が降り続いていた。

しかし、真白の目に映る景色は、もう先ほどまでの灰色ではなかった。


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