春の嵐と、冷たい硝子
第一部:春の嵐と、冷たい硝子
1. 桜のあとの、青い朝
その朝、鏡の中にいたのは、自分であって自分でないような、見知らぬ「社会人」だった。
紺色のリクルートスーツは、まだ生地が硬く、肩をすくめるたびにわずかな摩擦音を立てる。糊のきいた白いブラウスの襟が、緊張で強張った首筋に冷たく触れた。
「よし。大丈夫」
真白は、自分自身に言い聞かせるように小さく呟いた。二十二歳の春。今日から私は、この街を支える歯車の一つになる。不安はあったが、それ以上に、ようやく社会という大きな海に漕ぎ出せる期待が、胸の奥で小さな熱を帯びていた。
九時半からの入社式。遅刻など万が一にもあってはならない。真白は一時間以上前にオフィス街の最寄り駅に降り立った。
駅前は、通勤を急ぐ波のような人々で溢れている。誰もが同じような顔をして、スマホを見つめるか、あるいは虚空を睨みながら、一定の速度で目的地へと吸い込まれていく。
その流れに飲み込まれないよう、真白は一歩脇に逸れた。
会社のビルを確認すると、すぐ近くに落ち着いた佇まいのカフェを見つけた。
『Cafe de l'Aube』――夜明けのカフェ。
その名前に背中を押されるようにして、真白は重い木製の扉を開けた。
店内は、出社前の最後の一時を楽しむビジネスマンや、朝の読書に耽る老人たちが数人いるだけで、穏やかな時間が流れていた。真白は窓際のカウンター席を選び、アイスコーヒーを注文した。
窓の外には、都会の無機質なアスファルトが広がっている。街路樹のハナミズキが、春の風に揺れていた。
(頑張らなきゃな……)
パンフレットに書かれていた「社会貢献」や「やりがい」という言葉を思い出す。私は、誰かの役に立ちたくてこの会社を選んだのだ。誇りを持って働ける大人になりたい。
そんな青い希望を、一口のコーヒーと一緒に飲み込んだ。
その時だった。
視界の端で、何かが崩れるような動きがあった。
歩道の真ん中。一組の老夫婦が歩いていた。仲睦まじく腕を組んでいたように見えたが、突然、奥さんの方が糸の切れた人形のように、その場に膝を突いた。
「……っ!」
真白は息を呑んだ。
隣を歩いていた旦那さんが、慌てて彼女を支えようとするが、自身の足取りも覚束ない。奥さんはそのまま、アスファルトの上に力なく横たわってしまった。
異変は明らかだった。
しかし、街の風景は止まらない。
足早に歩くサラリーマンは、一瞬だけ視線を向けたものの、すぐに歩行速度を上げた。イヤホンをした大学生らしき若者は、スマホを見たまま、彼女の横をすり抜けていく。
まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
「嘘でしょ……」
真白の手が震えた。
誰も助けない。誰も止まらない。
都会の冷たさが、鋭利な刃物となって真白の胸を刺した。
次の瞬間、真白は椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。
「お客様!?」
店員の制止も聞かず、真白はカフェを飛び出した。
2. 生と死の境界線
外の空気は、走る真白の頬を鋭く叩いた。
倒れた老婦人のもとに駆け寄ると、旦那さんが震える声で「母さん、母さん」と呼びかけていた。
「大丈夫ですか!」
真白は叫びながら、彼女の顔を覗き込んだ。
顔色は、土気色を通り越して白に近い。唇は紫に染まっている。
「もしもし! わかりまか!」
肩を叩くが、反応はない。呼吸を確認するために顔を近づけるが、胸が動いている気配も、吐息を感じることもできなかった。
(息をしていない……!)
頭の中が真っ白になりかけた。だが、大学時代の救急救命講習で教わった手順が、泥沼の中から手を伸ばすようにして蘇ってきた。
頸動脈に指を当てる。……拍動がない。
「救急車を! 誰か、救急車を呼んでください!」
周囲に叫ぶが、立ち止まる人は数人しかいない。それも、遠巻きにスマホのカメラを向けるだけで、誰も近寄ってこようとはしなかった。
「あなた! 救急車を! 早く!」
真白は、すぐ側に立ち尽くしていた若い男の目を真っ直ぐに見据えて叫んだ。男は怯えたように頷き、震える手でスマホを取り出した。
真白は、躊躇なく膝を突き、老婦人の胸に手を置いた。
新品のスーツの膝が、硬いアスファルトに擦れて嫌な音を立てる。汚れなんて、今はどうでもよかった。
「一、二、三、四……」
必死に胸骨圧迫を開始する。
思った以上に、人間の胸は硬い。全力で押さなければ沈み込まない。
一分間に百回から百二十回のテンポ。手のひらを通じて、彼女の命の重さが直接伝わってくる。
「カフェにAEDがあった……!」
真白は一度、全力でカフェへと走った。
「AEDを貸してください! 急病人です!」
カウンターを叩くようにして叫ぶと、先ほどの店員が慌てて奥からケースを持ってきた。それを受け取り、再び現場へ。
ケースを開け、パッドを貼る。
機械の音声ガイダンスが、静まり返った歩道に響く。
『離れてください。心電図を解析中です』
指示に従い、手を離す。
『ショックが必要です。充電しています』
心臓が口から飛び出しそうだった。
オレンジ色のボタンが点滅する。
「……ショック、します!」
スイッチを押すと、老婦人の体がビクンと大きく跳ねた。
『直ちに胸骨圧迫を開始してください』
再び、圧迫を始める。
腕の筋肉が悲鳴を上げ、額から汗が滴り落ちてアスファルトを濡らす。
「頑張って、戻ってきて……!」
どれくらいの時間が経っただろうか。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。
隊員たちが駆けつけ、真白と交代した。
「……自発呼吸、確認。脈も戻りました!」
その言葉を聞いた瞬間、真白の膝から力が抜けた。
老婦人がストレッチャーに乗せられ、救急車に運び込まれる。旦那さんが真白の方を向き、何度も、何度も頭を下げながら、救急車に乗り込んでいった。
赤色の灯火が遠ざかっていくのを、真白は呆然と見送った。
ふと、自分の手を見る。
泥と、微かな汗の跡。
そして、ようやく自分の状況を思い出した。
「……あ」
時計を見る。
デジタル数字が無慈悲に表示していたのは、九時三十分。
入社式が、始まる時間だった。
3. 九時三十分の罰
真白が会社の入社式会場――大会議室の扉の前に辿り着いたのは、九時四十五分を過ぎた頃だった。
息を切らし、乱れた髪を必死に手で整える。
ストッキングは伝線し、スーツの膝は黒く汚れ、右足のパンプスはどこかで擦ったのか大きな傷がついていた。
震える手で重い扉を押し開けると、そこには整然と並んだ同期たちの背中と、壇上で祝辞を述べている社長の姿があった。
すべての視線が、一斉に真白に突き刺さる。
軽蔑、困惑、嘲笑。
その冷たさに、真白は立ち竦んだ。
式が終わった直後、真白は別室に呼び出された。
待っていたのは、人事部長の工藤だった。縁の細い眼鏡の奥にある瞳は、爬虫類のように無機質で、冷徹だった。
「……事情は聞きました」
工藤は、デスクに置かれた真白の履歴書に目を落としながら、抑揚のない声で言った。
「人助けをした。それ自体は、道徳的には素晴らしいことでしょう。カフェの店員からも、当時の状況を確認しました」
真白は少しだけ、胸を撫で下ろそうとした。わかってくれるんだ、と。
だが、次の言葉が、彼女の淡い期待を粉砕した。
「しかしね、宮本さん。今日はあなたにとって、一生に一度の、社会人としての第一歩を記す大事な日ではなかったのかね?」
工藤がゆっくりと顔を上げる。
「会社という組織において、最も重要なものは何か。それは『信頼』だ。そして信頼は『規律』によって守られる。入社初日から遅刻する人間を、我々はどう信頼すればいいのか」
「……ですが、あの方は息をしていなかったんです。放っておけませんでした」
「放っておけとは言っていない。周りに誰かいたはずだ。警察や救急に任せればよかった。なぜ、入社式という公的な義務を投げ打ってまで、君がやる必要があった?」
真白は言葉を失った。
あの場にいた人々は、みんな見て見ぬふりをした。私がやらなければ、あの人は死んでいた。
それは正論ではないのか。
「人助けも結構だが、場所と時間を考えなさい。君一人のわがままな行動で、式の進行は乱れた。この損失をどう考えている?」
冷たく、淡々と紡がれる言葉。
そこには、真白が救った「命」に対する敬意も、彼女の勇気に対する労いも、ひとかけらも存在しなかった。
あるのは、組織の歯車が噛み合わなかったことへの不快感だけ。
「……申し訳、ございませんでした」
真白は、絞り出すようにそう言った。
言わなければ、この場が終わらないことを察したからだ。
「わかればいい。明日からは、学生気分を捨ててもらいたい。……仕事に戻りなさい。配属先が待っている」
部屋を出た真白の背中に、冷房の風が吹き付けた。
あんなに輝いて見えた会社のロゴが、今は冷たい鉄の塊に見える。
私のしたことは、「わがまま」だったのか。
九時三十分。
あの方の心臓が動き出したその時間は、私にとって「正義」が死んだ時間になってしまったのだろうか。
配属先の部署に向かうと、そこにはすでに山積みの書類と、死んだような目でパソコンに向かう先輩たちの姿があった。
「あー、遅刻の子ね。とりあえずこれ、今日中にデータ化しといて。あ、サービス残業とか気にしないタイプだよね? 人助け好きなんだから」
先輩の一人が、嫌味ったらしく笑いながら分厚いファイルを置いた。
パンフレットにあった「アットホームな職場」「若手の裁量権」という言葉が、虚空に溶けていく。
真白の、社会人生活一日目が始まった。
窓の外には、朝と同じ、無関心な都会の景色が広がっていた。
だが、その景色はもう、朝とは違って見えていた




