交渉術
宰相代理は、視線を感じていた。
見られている。
玉座の前。
熊の頭付き毛皮外套を纏った国王。
その胸元――熊の顔が、じっとこちらを見ている。
目が合う。
逸らす。
また合う。
(これは交渉だ。野生ではない。交渉だ)
宰相代理は明るく切り出すように努めてみた。
「本日の本題。
そう、今日は交渉に参りました次第でして」
「鉄鉱石」
即、国王は短く言った。
宰相代理は目をパチパチさせた後、
気を取り直した様子で身を乗り出しかける。
「いかほどを?」
国王は、両手を広げた。
ぐっと。
かなり広い。
「これくらい」
「はぁ?」
宰相代理の目が点になる。
曖昧。
それは非常に曖昧過ぎた。
「……それは、いかほどなので?」
「これくらい」
今度は少し狭い。
「さっきと違いますよね?」
「ああ、誤差だ」
「誤差の幅が広すぎます」
熊が、こくりと頷く。
「熊まで頷いて。
納得しないでください」
宰相代理は、紙を取り出した。
「しょうがない。
では、具体的に」
国王は再び手を広げる。
さきほどよりも、やや控えめ。
「これ」
「縮みましたね?」
「いや」
さらに両手を近づける。
「これくらいでもいい」
「値切ってます?幅が揺れています」
「感覚だ」
「国家間取引ですよね」
「感覚は大事だ」
熊が、また頷く。
宰相代理は思う。
――このままでは、紙に何も書けない。
そして思いついた様に口を開く。
「重さで」
「重い感じ」
「量で」
「多い感じ。
でも、ちょっと少なめで」
国王はこめかみに手を当てて。
「うーん、どうかな?」
国王は熊を見る。
熊は宰相代理を見る。
こくり。
「何が“こくり”なんですか」
「オッケーありがとう。
ちょうどいいらしい」
「何がですか!」
「今のを表すと、これくらいだね」
また両手が広がる。
今度は、さきほどより大きい。
「戻りましたね?」
「戻ってない」
両手はさらに広がる。
「ゆっくり増えています!」
「いや」
両手が一気に縮む。
「これくらい」
「今度は減りました!」
「感覚だよ」
交渉は一歩も進んでいない。
数量未定。
単位未定。
価格未定。
だが手振りだけが増えていく。
「では」
宰相代理は、覚悟を決めた。
「今の幅で確定ということで」
「どれ?」
「今の」
「さっきの?」
「直前の」
「どっち?」
「どっちって、私に聞きますか?」
沈黙。
国王はゆっくり両手を広げる。
「これだよね?」
「……先ほどより広いです」
国王は首を振りながら、
頭を抱える。
「熊はどう思う?」
熊が、ゆっくり頷いた。
「だから何の合図なんですかそれは!」
時間だけが過ぎていく。
交渉は、まだ始まってすらいない。
「そうだ、……では価格を。
単価ってやつですな」
宰相代理は、
何も書かれていない紙を見つめながら言った。
「いくらで買い取りいただけますか」
国王は考える。
そして、ゆっくりと手を広げた。
「これくらい」
「それは量ですよね」
「いや、値段」
「値段まで幅で示さないでください」
国王は手をさらに広げる。
「これくらい」
「増えていますよね?
嬉しい事ではありますが。」
「このくらいの価値だ」
「感覚で上下しないでください」
熊が紙を覗き込む。
こくり。
「何が合図なんですかそれは!」
「適正らしい」
「何がですか!」
国王は両手を胸の前で少し狭める。
「これくらいでもいい」
「下げましたね?」
「いや」
今度は両手をさらに縮める。
「これくらい」
「安すぎます!」
「高いか?」
また広げる。
「これ」
「極端すぎます!」
交渉は振り子のように揺れている。
だが、何も確定していない。
というか交渉になっているかわからない。
交渉ごっこが正しいかもしれない。
「……では」
宰相代理は深呼吸した。
「先ほどの量で、今の幅で」
「どの幅?」
「直前の」
「その前?」
「今のです!」
国王は両手をゆっくり広げる。
止まる。
ほんのわずかに縮める。
止まる。
「ここだ!これ」
静寂。
執事が静かに言った。
「陛下、今の幅でよろしいですか」
「うん」
熊が、こくり。
「だから頷くなと言っている!」
宰相代理は悟る。
今の瞬間を逃せば、また広がる。
また縮む。
また振り出しに戻る。
「……では、今の“これくらい”で成立ということで」
国王は腕を組む。
「まあいいか、成立で」
あっさりと言った。
宰相代理はしばらく動けなかった。
紙には何も書かれていない。
数量も。
単位も。
価格も。
そもそも、書けるはずは無かった。
理由は手振りでしか、
量も価格も表現されていない。
確認は熊の頷き。
最終判断は熊。
それでも契約は成立した……らしい。
宰相代理は静かに理解する。
この国で最も恐ろしいのは熊ではない。
数字を使わずに交渉を成立させ、
しかもどこかで辻褄を合わせてしまう国王である。
交渉は、一歩も前に進まなかった。
だが気づけば、終わっていた。
そして何より恐ろしいのは――
誰も、どれくらいの量と値段で合意したのか、
正確には分かっていないことだった。
それでも成立している気満々の国王。
やり切った感を出す、熊の外套。
それが、この国のやり方だった。




