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熊と交渉

 王宮の大広間に足を踏み入れた瞬間、東の宰相代理は反射的に叫んだ。


「――熊がいる!!」


 声は裏返り、天井の装飾にぶつかって跳ね返り、三倍の恥となって戻ってきた。


 空気が凍りつく。

 視線の先。


 玉座の前、本来ならば誰も立たぬ位置に、巨大な毛皮の塊があった。


 四肢の判別すら曖昧なほど分厚い外套。

 盛り上がった肩。

 低く安定した重心。


 どう見ても――熊だ。

 しかも、ただの熊ではない。


 「森で会ったら人生が終わるタイプ」の熊である。


「誰か! 近衛兵を――!」


 叫び切る前に、周囲の兵が一斉に動いた。

 槍が構えられ、弓が引かれ、剣が半分抜かれる。


 だが。


「待て」


 低く、くぐもった声が響いた。

 ――熊が、喋った。


 宰相代理の喉がひくりと鳴る。

 胃が一瞬で冷える。


「私だ」


 熊の頭部――であろう位置から、

確かに人語が発せられていた。


「……?」


 理解が追いつかない沈黙。

 その横で、執事が一歩前に出る。

 この国で唯一、状況に動じない存在である。


「ご安心ください。

 国王陛下でございます」


「……は?」


 宰相代理の口から、

人生で最も情けない音が漏れた。


「……熊、ですよね?」


「熊の外套でございます」


 即答だった。

 間髪入れない。


「外套……?」


「はい。

 中身は、国王陛下でございます」


 宰相代理は、再び“熊”を見る。

 どう贔屓目に見ても、

外套が主役で中身が従属している。

 王より熊が強い構図である。


「……なるほど」


 そう答えたが、

理解は一切追いついていない。


 椅子に座る。

 椅子が妙に硬い。

 いや、自分が硬い。


 心が。

 視線が合う。

 熊と。


 いや王と。

 いや熊と。

 どちらだ。


 動悸が止まらない。


「落ち着いてください」


 執事が静かに言う。


「こちら、噛みません」


「“こちら”とおっしゃいましたか今」


「外套でございます」


「……本当に?」


「たぶん」


「たぶん!?」


 東の国では、“たぶん”は軽い言葉だった。

 ここでは命並みに重い。


「例のものを」


 宰相代理が合図を送ると、従者が一歩前に出た。

 両手で捧げるように抱えているのは、

一本の剣。


 派手な装飾はない。

 宝石も、紋章もない。

 あるのは、過不足のない形状と、

妙な静けさだけ。


 従者が卓上へ置く。

 ――とん。


 音は軽い。

 だが空気が変わる。


 熊の外套を纏った国王が、

ぴたりと止まった。

 それまで、

どこか気怠げだった空気が消える。


 視線が、剣へ吸い寄せられる。

 瞬きが減る。

 呼吸が浅くなる。


 宰相代理は無意識に背筋を正していた。


(これは、ふざけていない)


 直感する。


 熊だが。

 熊だが、本気だ。


「……面白い」


 低い声。

 それは評価か、独り言か。

 国王は手を伸ばさない。

 触れない。


 ただ目でなぞる。

 反り。

 鍔。

 柄。

 重心。


 宰相代理は喉を鳴らした。

 逃げることはできる。

 形式的な説明で終わらせることもできる。

 だが――それは最も危険だと理解していた。


「……この剣は」


 慎重に口を開く。


「装飾を削ぎ落としました」


 視線を落とす。


「宝石も紋章もございません」


 そして決めてきたセリフ。


「飾りでは、人は切れません」


 広間が、わずかに張り詰める。


 熊が、動かない。

 動かないのが怖い。


「これは振るうための剣です」


 言葉を選ぶ。


「一振りでドラゴンを斃したと聞いております」

「サラマンダーの灼熱にも鈍らず」

「イエティの極寒にも欠けず」


 言いながら思う。


(熊より怖い話をしている気がする)


「これは――敵を選ぶ剣ではありません」


 宰相代理は、ゆっくりと息を整えた。


「環境も、相手も、状況も問わず」

「斬るべきものを、斬るためだけに作られた剣です」


 広間の空気が、わずかに張り詰める。


 熊の外套は、微動だにしない。

 だが視線は確実に、剣の奥を見ている。


「一振りでドラゴンを仕留めたと聞いております」

「そしてサラマンダーの灼熱にも鈍らず」

「イエティの極寒にも刃が欠けることはない」


用意した言葉が少なく、

結果、似たような言葉を繰り返し言いながら、

宰相代理は思う。


(なぜ私は熊の前でドラゴンの話をしているのだ)


 だが止まらない。


「これは――敵を選ぶ剣ではない」

「斬る覚悟を選ぶ剣です」


 ふぅ……と溜息。

 かっこいいセリフを言って満足し。


「……我が国の精魂込めた剣を肴に、

酒でもいかがかと――」


 言った。

 言ってしまった。


 空気が止まる。

 執事が、ほんのわずかに目を閉じる。

 熊の外套が、ぴくりと動いた。


「我が国が精魂込めている剣を肴に……」


 そこに、低く、重い声が割り込む。


「眺めるための剣と?」


 優しい口調だ。

 だが刃のように鋭い。


 宰相代理の背筋が凍る。


「い、いえ! 飾りという意味ではございません!」


「では?」


 熊の頭が傾く。

 牙が光を拾う。


「酒席においても威圧となる剣、

という意味でございます!」


 一気に言い切る。


 沈黙。


 執事が横から補足する。


「東の国では、酒宴に武威を示す慣習があるとか」


「あるのか?」


「今、生まれました」


「生まれたのだな」


 文化の即席醸造である。


 宰相代理の額に汗が浮かぶ。

 国王は、剣を持ち上げる。


 静かに。

 重さを感じさせない動き。

 刃を光にかざす。

 熊の目が、刃に映る。


「酒の肴、ねぇ」


 一拍置いて。


「酒は、味わうものだ」


 さらに一拍。


「剣は、試すものだ」


 広間が静まる。

 宰相代理の正気が、少し削れる。


「酒を持て」


「は?」


「酒だ。アルコールの方だぞ」


「はい、アルコールでございます」


 執事が合図し、侍従が酒を運ぶ。

 卓に置かれる。

 「とん」と軽い音。


 国王は剣を卓に寝かせる。


「肴にするなら」


 刃を指で弾く。


 「キン」


 澄んだ音。

 もう一度。


 「キィン」


 余韻が広間を満たす。


「音で飲め」


「……音で?」


「刃は鳴く」


 宰相代理は杯を持つ。

 耳に残る余韻と共に、酒を口に含む。

 確かに、澄んでいる気がする。


「悪くない剣だ」


 その一言で、緊張がわずかに緩む。


 だが。


「だが」


 やはり来た。


「精魂込めたと言うなら」


 杯を置く。


「飾るな」


 一拍の重さ。


「振るう覚悟を、酒より先に示せ」


 沈黙。


 これは嘲笑ではない。

 試されている。


 沈黙。


 広間にいる誰もが、次の言葉を待っている。

 宰相代理の喉が鳴る。


 逃げ道はない。

 誤魔化せば、終わる。

 怯めば、測られる。


「……我が国は」


 ゆっくりと、しかしはっきりと口を開く。


「飾るために削ぎ落としたのではございません」


 真似して一拍溜めてみる。


「振るう覚悟があるからこそ、

削ぎ落としました」


 広間の空気がわずかに震える。

 熊の外套が、ぴくりと動く。

 ゴロ。


 誰も触れない。

 触れてはいけない。


「覚悟、か」


 国王の声は低い。

 剣を持ち上げ、軽く振る。

 空気を裂く音。


 ひゅん。

 軽い。

 だが鋭い。


「東の国は、何を切るつもりだ?」


 その問いは静かだが、重い。


 宰相代理は息を吸う。

 熊。

 王。

 剣。

 この国では、それらは同列。


 理解する。

 これは交渉ではない。

 値踏みだ。


「無駄を切る覚悟でございます」


 言い切る。


「怠慢を」

「虚飾を」

「無意味な威を」


 一歩、踏み込む。


「そして――無用な戦を」


 静寂。


 熊の外套が、ほんのわずかに揺れる。

 国王の目が細まる。


「ほう」


 短い声。

 だが、重い。


「無用な戦を切る、と?」


「はい」


 宰相代理は感じる。

 今、震えていない。

 その震えていないことに、自分で驚く。


「それは、我が国を含めてか?」


 鋭い。

 逃げ場はない。

 宰相代理は、一瞬だけ目を伏せ――

 上げる。


「必要とあらば」


 広間の空気が止まる。

 兵士の指先がわずかに動く。


 執事の目が細くなる。

 熊の外套が、静かに鳴く。

 ゴロ。


 国王は、ふっと笑った。


「面白い」


 剣を卓に戻す。


 とん。


「無駄を切る覚悟があるなら」


 圧が増す一拍。


「その覚悟、交渉で示せ」


 杯を持ち上げる。


「酒は、その後だ」


 宰相代理は、深く息を吐く。

 まだ終わっていない。

 だが、立っている。


 熊の外套が、また小さく鳴く。

 ゴロ。


「……今の音は?」


 思わず漏れる。


「外套でございます」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶん!?」


 やはり重い。


 国王は椅子に深く座る。

 熊の頭が、ゆっくりと正面を向く。


「さて」


 低い声。


「条約の条文を見せてもらおう」


 本当の交渉が、始まる。

 宰相代理は理解する。

 熊より怖いのは、この王だ。


 だが。

 この王と交渉できたなら。

 自分は、代理ではなくなる。

 ほんのわずかに、口元が上がる。


 熊の外套が、

じっとこちらを見ている気がした。

 値踏みをしている様な目で。


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