宰相代理
それは、数日前のことだった。
東の国の謁見室。
北の国との重要交渉を翌日に控え、
東の国王は玉座に座っていた。
……座ってはいた。
そう、正確に“座って”はいたのだ。
姿勢は良い。
威厳もある。
王冠も完璧な角度。
ただし。
瞼が、九割八分閉じていた。
宰相は深々と頭を下げ、静かに報告を続けている。
「――以上が、北の国との交渉日程でございます。
私が直接出向く予定となっておりますが、その間――」
その横で、宰相代理は控えていた。
宰相代理と言えば聞こえはいい。
『聞こえは』だけだ。
両手で書類の束を持ち。
時には鳩よりは届く確率が高い伝令役。
護衛役……なんてものはムリムリ。
力も技もからっきし。
よく言えば盾役、
悪く言えば捨て駒。
時間稼ぎ位はギリこなせる……ハズ。
普段は名前すら呼ばれない立場。
今日も存在感は控えめ。
控えめすぎて、隣の柱と同じ扱いを受けている。
「問題は、西の国への対応を、
どうするかでございます」
西の国と言えば、鍛冶の国。
技術はあるが、野心は薄い。
東にとっては目の上のたんこぶですら無い。
瞼程度か?
いや、それも違う。
眉毛だ。
あって当然。
なくても困らない。
ただ、たまに邪魔。
その程度。
そして、玉座の国王はジッと一点を見つめていた。
いや、見つめている“ように見えた”。
――コク。
頭が、わずかに前に揺れる。
宰相はそれを見て、言葉を続けた。
「お分かりいただけてなにより。
私が北へ向かう以上、
西の国には代理を立てるのが妥当かと」
国王は完全に白目を向いていた。
が。
角度のせいで上手い事、
“深く考えている顔”に見えていた。
――コク。
再び、頭が揺れる。
宰相は一瞬だけ視線を向ける。
(まさか……寝ている?)
いや。
寝ている。
だが確認はしない。
確認したら終わる。
王国的に。
「では、代理を一名、選定いたします」
宰相は淡々と続ける。
「西の国は、
こちらの本気度を測るような
狡猾な相手ではありません。
多少の失礼があっても問題はないでしょう」
――コク。
その拍子に、国王の顎がわずかに落ちる。
「もう食べられないよ……」
口が、ほんの少し開く。
……寝言が聞こえた気がした。
宰相はそれを聞かなかったことにした。
そして、隣に立っていた人物に目を向ける。
「……宰相代理」
宰相に呼ばれた。
人生で数えるほどしかない“名前を呼ばれる瞬間”である。
「は、はいっ!」
背筋が、必要以上に跳ね上がる。
「お前が行け」
あまりにも、あっさりとした決定だった。
宰相代理は目を見開く。
「わ、私が……ですか?」
宰相は静かに頷く。
「代々王家に仕える、
我が一族の血筋である以上、
格としても形式上も問題はない」
(眉毛程度の、西の国なら……よかろう)
そして、玉座をちらりと見る。
国王は――
目を閉じたまま、
ゆっくりと三回頷いていた。
――コク、コク、コクン。
最後だけ大きい。
宰相代理は、息を呑んだ。
(国王陛下が……
こんなにも認めてくださった……!
特に最後の頷き……
あの力強さ……!)
とても都合の良い解釈だった。
だが、国王は完全にうなずいただけである。
そこに国王の意思はない。
この件について国王は、
・西の国のことも
・代理の人選も
・今が何の話かも
何ひとつ認識していない。
ただ、前夜から続く政務で疲れ切り、
宰相の声を子守歌に、
安らかに眠っていただけである。
「粉骨砕身努力する所存でございます!
……ありがたき幸せ!」
宰相代理は深く頭を下げる。
隣の柱より存在感が増した。
わずかに。
宰相は内心で小さく息を吐く。
(まぁ……西なら問題は起きまい)
玉座の頭が、もう一度揺れる。
――コク。
それを見て、宰相代理は胸を張った。
(これが、私の出番だ。
そして、私の時代が始まる序章……!)
その時、国王の口から
「……ん……甘すぎるよ……」
という音が漏れた。
だが、もう誰も触れなかった。
王国の平和のために。
辞令――という名の、
ほぼ勢いだけで決まった任務を受け、
宰相代理は謁見室を下がろうとした。
その背中は、今や柱ではない。
柱より少し偉い何かだ。
たぶん装飾柱くらい。
その時だった。
「……ああ、そうだ」
宰相が、ふと足を止める。
何気ない口調。
だが視線は、しっかりと宰相代理を捕らえていた。
「西の国へ向かう道中だがな」
宰相代理の背筋が、ぴしりと固まる。
「まぁ、気をつけろよ」
「は、はい?」
宰相は、あくまで淡々と続ける。
「西の国へ行くにはな、
深い山林地帯を抜けることになる。
あの辺りはな……」
一拍、わざと意味深な間を置く。
謁見室の空気が、ほんの少しだけ冷える。
「『人喰い熊』が出没するらしい」
「……っ」
宰相代理の喉から、変な音が出た。
たぶん言語の類ではない。
「何せ、奴らは凶暴だ」
宰相は声を落とす。
「生きていれば言うまでもないが、
例え――」
ちらりと、壁に掛けられた熊の毛皮を見る。
「頭付きの毛皮になっても、
人を襲うことがあるらしい」
その瞬間。
「ひぇぇぇぇぇーーーっ!?」
宰相代理の声が裏返った。
両肩をすくめ、身体を震わせ、
思わず二歩、三歩と後ずさる。
「そ、そ、そんな……!
毛皮になっても……ですか!?」
「らしいな」
宰相は肩をすくめる。
「知り合いの猟師が言っていた。
毛皮にしても油断するな、と」
完全に盛っている。
だが宰相代理には十分だった。
「ひぃ……」
顔色が青い。
というより、
やや緑がかかってこの星の人間かも怪しい。
「ま、よかろう」
宰相はあっさり締める。
「西は平和な国だ。
運が良ければ、無事に着くさ」
――運が良ければ。
その言葉が、宰相代理の心を貫いた。
彼の頭の中で、
森。
暗闇。
巨大な熊。
毛皮が勝手に動く。
牙が光る。
想像が止まらない。
「だ、大丈夫です……!」
震えながら胸を張る。
「わ、私は……宰相代理ですから!」
声が裏返っている。
威厳は、ない。
「護衛を! 精鋭を集めろ!
宰相代理様の映えある任務であるぞ!」
本人が叫ぶ。
「あと、鈴だ!
なるべく大きい音が鳴るやつ!
森に入る前から鳴らし続ける!」
「それは熊を呼び寄せるのでは」
「ならもっと大きいのを!」
謁見室の兵士たちは困惑していた。
鈴。
熊避け。
だが鈴の音で熊が来るかもしれない。
理屈は迷子である。
宰相は内心でため息を吐く。
(……西なら問題は起きまい。
西だろう?東の逆だぞ)
宰相もちょっと変だった。
玉座を見る。
国王は、完全に眠っている。
しかも。
最後の大きな頷きの勢いで、
王冠が少し傾いている。
誰も直さない。
誰も触れない。
そう、王国の平和のために。
宰相代理は拳を握る。
(人喰い熊……毛皮でも襲う……)
頭の中に浮かぶのは、
巨大な熊の毛皮が、
ふわりと立ち上がり、
牙を剥く光景。
しかも目が光る。
「なっ……」
無意識に震える。
(大丈夫だ……西は平和……平和……)
だが。
彼はまだ知らない。
西の国には。
熊の頭付き毛皮を、
当たり前のように被る王がいることを。
そして翌朝。
東の城門前は、妙な騒ぎに包まれていた。
「もっと大きい鈴はないのか!?」
「それ以上は鐘でございます!」
「鐘でもよい!」
城門の前には、馬車が一台。
……いや。
正確には、鈴が一台。
馬車はその下にただ、
ぶら下がっているように見えた。
車輪の横に鈴。
屋根の縁に鈴。
馬の首に鈴。
御者の帽子にも鈴。
風が吹く。
チリン。
チリンチリン。
ガランゴロン。
ジャラン。
音の洪水である。
森に入る前から、森が逃げ出しそうだ。
「これで熊は近寄らぬはずだ……!」
宰相代理は胸を張る。
震えているが。
「……逆では?」
兵士が小声で言う。
「なに?」
「いえ、なんでもございません!」
護衛兵は十数名。
全員が微妙な表情をしている。
理由は簡単だ。
“熊が出るから”という理由で、
宰相代理が
・槍二本
・短剣三本
・予備の短剣
・小型の盾
・予備の盾
を持たせようとしたからである。
「多くないですか?」
「万全を期すのだ!」
宰相代理は言う。
「毛皮でも襲うのだぞ!?」
「毛皮は襲いません」
「宰相が言っていた!」
それはほぼ冗談である。
だが宰相代理の中では、
既に伝説になっている。
出発の合図が鳴る。
ジャラン。
いや、鳴りすぎている。
常に鳴っている。
強いて言えばうるさい。
「いざ、西へ!」
馬車が進み出す。
ガラガラ。
ジャラジャラ。
チリンチリンチリン。
城門の上にいた鳩が、一斉に飛び立った。
音害である。
世が世なら訴えられる、確実に。
道中。
最初の森に入る。
木々が生い茂る。
薄暗い。
風が吹く。
葉が揺れる。
つられて葉擦れの音が鳴る。
「カサ」
「ひぃっ!」
宰相代理が跳ねる。
「な、なにかいる!」
「風でございます」
チリンチリンチリン。
鈴が鳴り続ける。
兵士の一人がぼそり。
「これだけ鳴らせば、
熊どころか森の精霊も逃げますな」
「精霊!?」
「いえ例えでございます!」
木陰に黒い影が見える。
「で、出た!?」
「倒木です」
「そ、そうか……」
だが。
宰相代理の脳裏には、例の話が浮かぶ。
――毛皮になっても襲う。
想像が暴走する。
道端に干された毛皮が、
むくりと起き上がる光景。
「……っ」
震える。
鈴が鳴る。
ジャランジャラン。
護衛兵の一人が言う。
「これ、逆に熊を怒らせませんか」
「怒るのか!?」
「いえ知りません」
しばらく進む。
森は静かだ。
静かすぎる。
鈴はうるさすぎる。
「……」
宰相代理は、そっと呟く。
「西は平和……西は平和……」
だが。
遠くで。
ゴォォ……と、低い音が響いた気がした。
「い、今のは!?」
「風でございます」
「風か……」
だが護衛兵の一人は、小さく呟いた。
「……風にしては、低い」
「何か言ったか!?」
「いえ何も!」
馬車は進む。
鈴は鳴る。
宰相代理は震える。
そして彼はまだ知らない。
西の国の王宮で。
熊の頭付き毛皮を被った王が、
今まさに、
果物ナイフを五十本並べていることを。
森の熊より、
そちらの方がよほど怖いことを。




