熱い剣
最初に異変に気づいたのは、宰相代理ではなかった。
その背後に控えていた従者だった。
従者は長年、外交の場に立ってきた男である。
声色、呼吸、指先の震え。
相手が優位に立った瞬間を察知する嗅覚を持っている。
「……宰相代理様」
声は低い。だが、ほんのわずかに焦りが混じっていた。
「少々……分が悪いように見えます」
宰相代理はぴくりと眉を動かす。
「ここは一度、帰国なさって、宰相閣下にご相談を――」
「なにっ!?」
反応は速かった。宰相代理は勢いよく振り向く。
「俺はな!」
声が広間に響く。
「全権を与えられて、ここに居るのだ!」
空気がわずかに震える。従者はそれ以上言わなかった。言えば逆効果だと知っている。
なにせ今、宰相代理の指先は赤い。
理由は明白だ。
数分前。
卓上の剣を、勢いよく掴んだ。
「あっちぃ!!」
悲鳴。
反射的に手を引き、赤くなった指を振り回す姿は、外交官というより台所で失敗した料理人だった。
「やけどした! 外交問題だぞ、これは!!」
「勝手に触ったんじゃん」
熊の外套を纏った国王が、心底不思議そうに言った。
悪意ゼロ。悪びれゼロ。ただの事実確認。
従者はその瞬間、悟った。
(あ、これ怒ったな)
宰相代理の耳が赤い。指も赤い。誇りも赤い。すべてが燃えている。
「まぁまぁ」
国王は軽く手を振る。
「気を沈めてください」
火に油。
見事なまでに宰相代理の肩が震える。
熊が、もぞりと動く。なぜか熊だけ冷静なのだ。
「国王陛下」
従者が一歩前に出る。深く、深く頭を下げる。
「この者が戯言を申しまして、誠に申し訳ございません」
“この者”。
宰相代理のこめかみがぴくりと動く。
だが今は従者の判断が正しい。
これ以上燃え広がれば、本当に外交問題だ。
「いいよ」
国王は肩をすくめる。
「よくあることだし」
よくある。
従者はその言葉を心の中で反芻し、そっと棚の奥に仕舞い込んだ。触れない方がいい。
宰相代理は赤くなった指先をじっと見つめていた。
じんじんと痛む。
だがそれ以上に痛むのは――面目だ。
「うぅぅ……戦争だ!!」
唐突だった。
広間の空気が止まる。
「戦争を吹っかけてやるからなー!!」
語尾が少し伸びた。怒りと勢いで伸びた。
だが伸びた分だけ、ほんの少しだけ軽い。
兵が固まる。
執事が一瞬だけ眉を上げる。
熊が、ぴたりと動きを止める。
国王だけが、少し考え込む。
「……戦争かぁ」
ぽつり。
まるで夕飯の候補を「魚かぁ」と吟味するような声音。
熊の胸元が、もぞりと動く。
「うん、ダメだな」
即決だった。
早い。あまりにも早い。
「……え?」
宰相代理の怒りが、行き場を失う。
「な、なぜだ!」
国王は卓上の剣を見る。
まだ熱を持つ刃。金属の匂い。火の記憶。
そして、子供のように“にっ”と笑う。
「今、試したら――勿体ないじゃん!」
屈託がない。本気でそう思っている顔だ。
まるで新しい包丁を手に入れた料理人が、「最初は良い魚で使いたいよね」と
言っているような軽さ。
だが内容は戦争だ。
軽いのに重い。重いのに軽い。
従者の背筋が冷える。
(これは……)
(戦争を避けているのではない)
(“選んでいる”だけだ)
国王の視線は剣を越え、その先を見ている。
未来か。敵か。
それともただの鍛冶場か。
熊が、ゆっくりと頷いた。
その頷きは、まるで言っているようだった。
――今じゃない。
宰相代理の喉が鳴る。
この国は戦争を望んでいない。
だが。
いつでも始められる準備は、遊びの延長のように整えている。
それが一番怖い。
広間には妙な静寂が落ちていた。
戦争を口にした者がいる。
それを即座に却下した王がいる。
そして却下の理由が――
“勿体ない”。
宰相代理は、ゆっくりと国王を見る。
「……つまり」
声が少し掠れている。
「我が国を、試し斬りの相手にする気だった、と?」
「いや?」
国王は首を傾げる。
熊も同時に傾く。
「まだ決めてない」
「まだ、ですと?」
「うん」
国王は剣を軽く持ち上げる。
ひゅ、と空気が鳴る。
「せっかく良い出来なんだ」
刃を光にかざす。刃文が淡く揺らぐ。
「“雑に使う”のは嫌だろ?」
その言葉が、妙に具体的だ。
「戦争は雑なのですか」
「うん」
即答。
「疲れるし」
「……」
「兵も減るし」
「……」
「資源も減るし」
国王は肩をすくめる。
「だから、ちゃんとした理由でやりたい」
ちゃんとした理由。
その基準が、恐ろしく曖昧だ。
熊が、ぽん、と胸を叩く。
「な?」
「うん」
熊――の外套が頷いた。
誰も口には出さないが、全員が思っている。
(頷くな)
宰相代理は、深く息を吸った。
怒りは、もうない。
代わりにあるのは、理解しきれない種類の恐怖だ。
この男は戦争を軽視しているのではない。
重く扱いすぎている。
試す相手を選ぶ。
使いどころを選ぶ。
それは冷静さではなく、選別だ。
「……では」
宰相代理は声を整える。
「我が国は、試す価値がないと?」
「うん」
あっさり。
「今は」
今は。
その二文字が、やけに重い。
熊がじっと宰相代理を見る。
さきほどとは違う目だ。
獲物を見る目ではない。
値踏みする目だ。
従者が、静かに一歩前に出る。
「宰相代理様」
小声で。
「ここは……」
宰相代理は手で制した。
理解している。
これ以上は損だ。
怒りは相手を利する。
今は退くべきだ。
「……撤回する」
低く言う。
「戦争の件は失言だ」
広間の空気が、わずかに緩む。
「そう?」
国王は首を傾げる。
「残念」
「残念!?」
「いや、冗談」
冗談に聞こえない。
熊が、こくり。
冗談なのか、違うのか、誰にも分からない。
宰相代理は、ゆっくりと卓上の剣を見る。
先ほど掴んだ箇所には触れない。
まだ、ほんのりと温もりが残っている。
その温度が、やけに生々しい。
国王は剣の峰を指で軽く弾いた。
きん、と澄んだ音が広間に響く。
「ほら」
「……ほら、とは」
「良い音だろ」
確かに。
嫌になるほど澄んでいる。
その音は、書類の文字よりも雄弁だった。
執事が静かに言う。
「今回の条件は、双方にとって利益のある内容です」
「その通り」
国王は頷く。
「鉄は良い」
それだけで十分らしい。
宰相代理は、ふと気づく。
この国の判断基準は、意外と単純だ。
鉄が良い。
条件が悪くない。
戦う理由がない。
だから戦わない。
だが。
理由が揃えば、迷わない。
それが、何より恐ろしい。
「……承知した」
宰相代理は、深く頭を下げた。
「本件、持ち帰り、正式に報告する」
「うん」
国王はあっさり。
「よろしく」
熊も、こくり。
その頷きは妙に満足げだ。
まるで「今回は見逃してやる」とでも言いたげな顔で。
(見逃されているのは、こちらか)
宰相代理は、静かに理解する。
戦争は回避された。
だが回避されたのは慈悲ではない。
選ばれなかっただけだ。
剣は、まだ熱い。
それは脅しではない。
準備だ。
従者がそっと囁く。
「宰相代理様……」
「分かっている」
短く返す。
帰国後の報告書を思い浮かべる。
――戦争寸前。
――だが回避。
――理由は“勿体ない”。
書けるか、そんなもの。
国王は剣を再び担ぐ。
「じゃ、これ冷ましとく」
「ここで!?」
「冷ますのも仕事」
軽い。本当に軽い。
だがその背中は揺るがない。
熊の外套が静かに揺れる。
宰相代理は最後にもう一度振り返る。
広間。
剣。
熊。
そして、笑う王。
(この国は)
(戦争をしない国ではない)
(戦争を“選ぶ”国だ)
だからこそ、恐ろしい。
それでも今は。
刃は鞘に収まっていない。
だが、使われなかった。
それが救いか。
それとも猶予か。
誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――
次にその剣が使われる時、
それは“勿体なくない理由”が揃った時だということだ。
熊が最後に一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。
まるで時間を数えるように。
宰相代理は、無意識に背筋を正した。
戦争は起きなかった。
だが平和とも違う。
それはただの――
保留だった。




