王宮の朝と、熊の外套
世話係の執事は、ちらりと懐中時計に目を落とした。
秒針が、刻む。
――カチ。
――カチ。
――カチ。
普段なら意識にも上らぬ小さな音だが、今日に限ってはやけに主張が激しい。まるで秒針自身が、王宮内の全員に向かって囁いているかのようだった。
「来るぞ」
「来るぞ」
「来るぞ」
「……そろそろ、国王陛下がお見えになります」
その一言で、控えの間の空気がぴしりと整列した。
メイド長が背筋を伸ばす。
侍女たちが一斉に持ち手を握り直す。
――外套用の。
王冠ではない。
王笏でもない。
外套である。
しかも熊。
「準備はよろしいですか?」
「はい。ただ……」
メイド長は、ほんのわずかに遠い目をした。
「メイド五人がかりで“外套”を担ぐ王宮というのは、
歴史的に見ても珍しいのではないかと」
「それは致し方ありません」
執事は淡々と答える。
「――“王”ですからな」
「王がですか?」
「外套がです」
「どちらですか」
「……両方でございます」
その瞬間。
ゴォォォン……。
城の鐘が鳴り響く。
王都の朝を告げる荘厳な音。
だが侍女の一人が小声で言った。
「今日は牙の艶が三割増しですね……」
「聞こえていますよ」
「ひっ」
扉が開かれる。
「国王様、万歳!」
「万歳! 万歳!」
揃った声。揃った動作。完璧な儀礼。
そして。
「――もう、そういうのはいいから」
場違いなほど気の抜けた声が、その中心から響いた。
「国王陛下が、そのような振る舞いでは困ります」
執事の声音は、怒りを上質な布で包んだ丁寧さ。
「えー、朝だよ? 朝一番だよ?
テンションは昼から上げたい派なんだけど」
熊の頭がぐらりと揺れる。
正確には、国王が被っている熊の頭付き毛皮外套が揺れた。
牙が、かちり。
朝日を反射して、無駄に威圧感が増幅する。
侍女の一人がうっかり目を合わせ、固まった。
「……目が合いました」
「ガラス目です」
「でも意思を感じました」
「感じません」
国王は熊の顎を持ち上げる。
「なぁ? こいつもそう思うよな?」
熊の口が、カパァ、と開く。
絶妙に怖い角度で。
控えの間に、静寂。
いや違う。
緊張である。
「……陛下」
執事が深く息を吸う。
「せめて謁見が終わるまでは、その腹話術はお控えください」
「腹話術って言うなよ。相棒だよ?」
「毛皮です」
「相棒」
「毛皮」
「相棒」
「毛皮」
「……毛皮相棒」
「新種が生まれました」
国王は肩をすくめ、玉座へ歩き出す。
ずしん。
熊が揺れるたび、周囲が一歩下がる。
王冠より目立つ。
正装より目立つ。
どう見ても熊が主役。
だが誰も何も言わない。
なぜなら――
ふざけている時の国王ほど、仕事が爆速で終わるからである。
恐怖である。
玉座へ向かう足取りは、やけに軽い。
熊の頭が左右に揺れるたび、牙がきらりと光り、
侍女たちの背筋が反射的に伸びる。
もはや王冠は飾りだ。
正装も添え物だ。
熊が王である。
玉座に、どすん、と腰を下ろす。
その瞬間、熊の顎が前に傾き、
まるで広間を見下ろした。
――威圧感だけは歴代最高。
「いやー俺なんてさ」
国王は気軽に言う。
「くじ引きで決まったようなもんだろ?」
「そのようなことは決してございません!」
執事の声量が二割増しになる。
「辺境へ修行と称して飛び出し!
盗賊団を壊滅させ!
山賊を改心させ!
隣国の侵攻を鉄槌で止め!」
「鉄槌って言うなよ。ちょっと当たっただけだろ」
「城壁が半分消えました」
「古かったんだよ」
「相手国のです!」
国王は熊の耳をぴこぴこと揺らす。
「いやー、あの時はさ。
ちょっと振りかぶりすぎたんだよね」
「“ちょっと”の基準が破壊的でございます」
玉座に落ち着いた熊が、なぜか堂々と胸を張っているように見える。
気のせいである。
たぶん。
「……いつも申しておりますが」
執事が咳払いを一つ。
「その熊の毛皮は、いかがなものかと」
待ってましたと言わんばかりに、メイド長が前へ。
「あのですね陛下」
笑顔。だが目は真剣。
「メイド五人で担いでおりますが、
今朝ついに“肩が鳴りました”」
「鳴った?」
「ええ。“ゴリッ”と」
「それはまずいな」
国王は顎に手を当てる。
「六人にする?」
「根本解決を!!」
「熊だけ歩かせる?」
「動きません!!」
「動いてほしいなぁ」
侍女の一人が震えながら言う。
「昨日、夜の廊下で目が光った気が……」
「気のせいです」
「牙が増えていた気が……」
「気のせいです」
「うなり声が……」
「風です!」
執事の圧がすごい。
「だからさ」
国王はひらひらと手を振る。
「その辺に転がして置いていいって」
「歴代国王が持った象徴を転がせますか!」
「重いでしょ?」
「重いですね」
即答。
「ですから早く取ってください。この鉄槌を」
五人がかりで支えられている巨大鉄槌。
もはや武器ではない。
建造物である。
侍女の一人が、ぐらりとよろめく。
「きゃっ――!」
その瞬間。
国王の腕がすっと伸びる。
「ほら、無理しないで」
ひょい。
鉄槌が片手で持ち上がる。
五人、固まる。
「……え?」
「……今、軽くなりました?」
「物理法則が裏切りました」
国王は肩に担ぐ。
「だからさ、ここを持てば安定するんだって」
「構造的な問題ではありません!!」
侍女の頬が赤くなる。
「国王陛下様ったら……ぽっ」
執事の声が氷点下へ。
「何を口説いているのですか」
「助けただけだよ?」
「距離が近い」
「支えたんだよ」
「視線が甘い」
「それは生まれつき」
「笑顔が余計」
「笑うなって?」
「笑うなとは申しませんが!」
国王は首をかしげる。
「メガネ変えたら?」
「失礼な!」
執事は胸を張り眼鏡を掲げる。
「この眼鏡は代々我が家に伝わる――」
国王、興味を失う。
「あーこれね」
鉄槌をくるりと回す。
「ここを持つと安定――」
「今その話では――」
ゴン。
乾いた音。
世界が止まる。
執事の眼鏡が、鉄槌の下で完璧な平面になっていた。
職人泣かせの見事な圧縮。
「……」
執事、ゆっくり持ち上げる。
ぺら。
「ああああああぁぁぁーーー!!!」
「ぺっしゃんこだねー」
国王は感心する。
「煎餅みたい」
「家宝ですぞ!?」
「直せばいいじゃん」
「直る次元ではございません!」
「俺が打つよ」
にっと笑う。
熊の牙が光る。
なぜか説得力がある。
「責任持って、最高のメガネフレームを」
沈黙。
空気が変わる。
執事、膝をつく。
「……それは」
国王をキリッと見上げて。
「家宝に、いたします」
「今度は潰さないでね」
「潰したのは陛下です!!」
広間の全員が悟った。
この国の王は――
威厳も。
家宝も。
外套も。
眼鏡も。
全部まとめて鍛え直す男なのだと。
熊の牙が、静かに朝日に光った。
そして誰もが思う。
この国は――
妙な方向に、とても強い。
広間に、奇妙な静寂が戻る。
ぺらぺらになった眼鏡を両手で抱え、
執事は震えていた。
「……ご先祖様……」
その目は潤んでいる。
熊の頭が、ゆっくりとそちらを向いた。
牙が、朝日に光る。
侍女たちが一斉に息を止めた。
「……今、動きませんでした?」
「動いていません」
「視線が合いました」
「ガラス目です」
「でも責められている気が……」
「気のせいです」
執事は立ち上がる。
震える声。
「この眼鏡は、我が家の誇り……
先々代が仕えた王の時代から受け継がれ……
幾多の政変を見届け……」
「うん」
「国の危機を共に乗り越え……」
「うん」
「その全てが……今、煎餅に……」
「美味しそうだよね」
「美味しくありません!!」
熊の口が、かぱ、と開いた。
その角度が絶妙に怖い。
侍女の一人が震えながら言う。
「昨日……夜番の者が言っていました……」
「何をです」
「熊が……廊下を見ていたと……」
「毛皮です」
「でも、背中を向けた瞬間、気配が……」
「毛皮です!」
国王はぽりぽりと頭をかく。
「いやー、でもさ」
熊の頭をぽんぽん叩く。
「こいつ、ちょっと存在感あるよな」
「否定してください!」
「愛嬌だよ愛嬌」
「牙が鋭利です!」
その時だった。
玉座の間の窓から、朝の光が差し込む。
熊のガラス目に反射。
きらり。
侍女たちが一斉に背筋を伸ばす。
「ほら、やっぱり威厳あるだろ?」
「威圧の間違いでございます」
国王は玉座の肘掛けに頬杖をつく。
「でさ、今日の公務って何だっけ?」
「三件の謁見、二件の裁定、四件の決裁でございます」
「多くない?」
「通常運転です」
「熊にやらせる?」
「できません!」
国王は熊の顎を動かす。
「ぐぅ……(低音)」
「喋らせないでください!」
「いやーでもさ」
国王はにやりと笑う。
「威厳って、こういう“見た目”も大事だろ?」
「熊で威厳を出す王は前例がございません」
「じゃあ初代だな」
「前例にならないでください!」
侍女の一人が、そっと隣に囁く。
「でも……かっこよくない?」
「え」
「ちょっとだけ」
「……ちょっとだけ」
執事の耳がぴくりと動く。
「何か言いましたか」
「いえ何も」
国王は満足そうに頷く。
「ほら、人気あるじゃん」
「恐怖でございます」
「人気だよ」
「恐怖です」
「人気」
「恐怖」
十秒後。
「……人気恐怖でございます」
「新ジャンル生まれた」
国王は立ち上がる。
熊が揺れる。
牙が光る。
鉄槌が肩に担がれる。
もはや王というより――
移動式災害指定熊王。
「さて」
国王は笑う。
「今日もさっさと終わらせるか」
その瞬間。
空気が変わった。
ふざけている時ほど、この王は速い。
決裁書類が、信じられない速度で片付く。
判子が、疾風の如く押される。
判断が、一瞬で下る。
「……早い」
執事が呟く。
「だから言っただろ?」
国王は軽く笑う。
「熊が乗ってる時は本気なんだよ」
「理屈が理解できません」
「気分だよ」
熊の牙が、再び光る。
侍女たちは思う。
この国は大丈夫なのか、と。
そして同時に思う。
この王がいる限り、妙な方向に――
絶対に強いと。
熊は、静かに玉座の横で光を反射していた。
まるで言っているかのように。
――この国は、面白い。




