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9話 エレオノーラ・ヴァッセル

私の名前はエレオノーラ・ヴァッセル。

ヴァッセル家は代々、王に仕える騎士を送り出してきた。その名は国内に広く知られている、誇り高い騎士の家系だ。私はそんなヴァッセル家に第一子として次期当主の継承権を持って生まれた。


剣を持ったのは三歳からだった。

木剣ですら女児の私の筋力では重く、辛く、毎日泣きながら練習させられたのを覚えている。


「男に生まれてくれていたら、良かったのだがな」


そう言われたことは、一度や二度ではない。

騎士は身体強化属性の魔法を土台に、主に戦闘の前衛を担っている。魔法の強弱は基本的に、男女平等に神様から才能をいただいているという考えが一般的で、こと魔法使い同士の戦闘において性別による不利を背負うことは少ない。そのため、家の継承は男女関係なく、たいてい第一子が継ぐのがこの国の常識だ。


ただし、身体強化魔法においてはわけが違う。もともとの筋力が低いとその分を魔力で補う必要があるため、魔力の消費が男よりも激しいし、魔力回路の負担を考えれば、出力にも限度があるためポテンシャルはどうしても低くなる。


だから父は肉体を作りやすい男の子を欲していたし、私はその言葉に痛みを覚えながらも、否定できない現実を知っていた。しかし、ヴァッセル家に生まれた以上、騎士になる以外の道はないし、何より、もう父の落胆した顔を見たくない一心で剣を振り続けた。


耳にタコができるほど聞かされた言葉がある。


「弱者は容赦なく切り捨てろ。誇りを持って生きろ。騎士として誰かに頼ることなく孤高であれ。対立する者には力で分からせろ」


父は強かった。未だに、父には勝ったことがない。

広い肩、硬い掌、短く刈った黒髪、無駄のない立ち姿。剣を握った父は、まさに英雄のようにカッコよくて憧れた。私も父のようになりたいと強く思った。私にとっての世界は父であり、父こそが正義だと本気で思った。だから、父に一歩でも近づけるようにと、その教えを疑うことなく自分なりに解釈して再現した。


戦闘は騎士が前衛で足止めをし、支援魔法使いが回復や補助、遠距離魔法使いが高火力の魔法で倒すのが基本として確立していた。しかし、父は前衛で命を張って戦っているのに、後ろから派手な魔法を使って、功績と栄誉をかっさらっていく遠距離魔法使いを嫌悪していた。


今になって考えると、その反感ゆえに過激な教えを幾度となく説いていたのだろう。パーティとしてのバランスなどは無視し、『前衛一人で敵を倒せ』という発想が根底にあった。魔法使いを守るディフェンシブな戦い方ではなく、攻撃力に特化した戦闘術を私に教えていたのも、たぶんそのためだ。


朝は冷たい井戸水で顔を洗い、庭の砂を何千回も踏みしだく。木剣は私の身長の三分の二、握りは太すぎる。掌に水ぶくれができ、潰れ、皮が固くなっていく。

「足幅が広い」「肘を固めるな」「致命傷となる攻撃を観察しろ」「呼吸を断つな」

私は従順だった。何も疑わず、ただ正解をなぞる。


父の教えに従っていると、確かに私は強くなっていった。

大人相手でも、稽古なら勝てることが増えた。

十五歳の年になり、魔法基礎教育学校に入っても、私は二年間ずっと首席だったし、成績表はいつも整った字で一番上に私の名前が書かれた。


学校でも友達は作らなかった。それが『孤高』というやつなのだと自分に言い聞かせた。確かに「才能だ」「さすがヴァッセル家だ」と噂されるのを耳にしたときは誇らしく思えて、快感だった。今思えば恥ずかしいことだが、もっと言われたいとわざと目立つような言動をしていたこともあったかもしれない。しかし、私にとってはこれこそが他者とのコミュニケーションだった。というより、同じクラスの人たちのように楽しそうにお話をするにはどうすれば良いか分からなかったのもある。例外なく皆、他者とふざけあうのが好きらしく、私も単純な興味は持つこともあったが、必要ないものだとすぐに自制した。


領地を巡る父の用で、馬車に同乗したある日のことを思い出す。窓の外を、色のない服を着た人々が歩いていた。畑、荷馬車、子ども。日差しは強く、土は白く乾いていた。私は窓に額を寄せて、ぽつりと言った。


「どうして、あの人たちと違って、父や私は偉いの?」


御者台に座る父の横顔は、影になって見えなかった。少しの沈黙ののち、低い声が返ってくる。


「彼らは力も権力も持てぬ弱者だからだ。彼らは私たちが守ってやらねば生きていけない。頼ることを当たり前と考えている惨めな彼らと私たちを、同じ人間だと思うな。エレオノーラも誇り高きヴァッセル家に生まれたのなら常に強者として、上に立て」


私はうなずいた。窓の外の子どもがこちらを見上げる。目が合った気がした。馬車の車輪が石に乗り上げ、車体が小さく跳ねた。揺れのたびに、胸の中の何かも跳ねる。私はそれを強くなることの決意だと解釈した。


そして、十七歳の年になり、国一番の教育機関『王立ルミナリア学園』に進むことが決まった。

寮入りの前日、夕食の席で父が言う。


「ヴァッセルの子なら当然だ。私も祖父も、さらに先代のヴァッセルも皆ルミナリア学園を出て騎士として活躍した」


いつもの調子だったが、その後、父は珍しく言葉を選ぶように私の目を見た。


「お前には筋力が付きにくい分、魔法と戦闘の才能がある。学園でトップを走れ。その力は十分にあるだろう」


才能があるなんて父から言われたことなど無かった。胸の内側が、火を灯されたみたいに熱くなる。初めて褒められたとはっきり分かった瞬間だった。私はその熱のまま寝床に入り、眠った。夢の中でも足は床を打ち、剣は振られていた。






けれど、学園は私の想像とは違っていた。


クラシキ・ケーラ。誇り高き学び舎に、弱者の平民が紛れていたのだ。最初は、何かの例外だと思った。生まれがどうであれ、国が喉から手が出るほどの才があるのなら入学できるのも納得できた。そう思って、試しに一度手合わせしてみた。


しかし結果は、私の圧勝。


剣の腕は平凡、私の攻撃に守ることしかできていなかった。たしかに一度、予想外の一撃もあったが、私に届かせるには圧倒的に力が足りていない。


私は理解した。父の教えに背く存在。弱者が、私の聖域に入り込んでいる。許せなかった。


私は学園でも父の言葉どおり、孤高を貫いた。訓練、勉強、睡眠、食事。必要なものだけで一日を組み立てる。笑い声からは距離を取り、群れから離れる。


けれど、ある日の夕刻。空き教室で、日が落ちるまで参考書を睨んでいると、扉の音がした。

入ってきたのは、千年に一度の才女と名高いアッシュダウン先生だった。黒い外套、落ち着いた眼差し。私よりわずか一つしか年が違わないのに、立ち居振る舞いは成熟している。


「ここ、使っていてもいいかしら?」


「ええ。どうぞ」


そうして数十分が過ぎた頃、あまりに私が頭を抱えて悩んでいたので、先生は机の隅に資料を置いて、私の開いていたページをちらりと見てきた。


「そこ、引っかかるよね」


「はい。この術式がなぜ魔力を断つことなく式として成り立つのかが分かりません」


先生は椅子を引き寄せて、私の隣に腰を下ろした。細い指でページの端を押さえ、白紙にさらさらと図を描いていく。


「まず、ここで氷属性の回路を持っていることの判定を行っているのは分かるわよね?氷属性を持っていなかったらこっちの枝に。流した魔力は何かの魔法に変換しないと、行き場を失って、溜まりすぎたら逆流や、最悪は爆発したりするから、回路があるかないかは置いておいて必ず何かの簡単な魔法で出力しないと…」


先生の説明は一つ一つ正解までの道筋を辿っていくようで分かりやすかった。最終的にどこを間違えていたのかも理解することができ、出力結果と想定されている答えが合致した。


「先生のおかげでやっと理解することができました。私一人ではあと何日かかっていたことか」


「いえいえ、どういたしまして。そういえば名前を聞いてもいいかしら」


「これは失礼しました。私の名前はエレオノーラ・ヴァッセル。剣術クラスの一年です」


「ヴァッセルさんの子だったのね!前に一度挨拶をしたことがあるわ。エレオノーラさんて呼んでもいいかしら」


「構いません」


「うふふ、ありがとう。私の名前はテレサ・アッシュダウンよ。これからよろしくね」


「存じております。先生のご活躍を知らぬ者はおりません。何卒よろしくお願い申し上げます」


「ちょっとそんな、固くならないでよ。私は大した人間ではないわ」


先生がこの国でたくさんの人々に敬意を持たれている理由が分かったかもしれない。先生は類まれなる魔法の才と頭脳の前に人格者なのだ。かくいう私も年はほとんど変わらないのに、気づけば敬意を抱いていた。


「普通、箱の概念として捉える考え方をこんな短時間で理解できる人は少ないわ。エレオノーラさんも今まで頑張ってたくさん勉強してきたのね。学園生活は楽しく過ごせているかしら?」


「私は成長するためにこの学園に入りましたので…。楽しさなど必要ありません」


「さすが誇り高きヴァッセル家ね。あなたにも明確な目標があるのでしょう。良ければあなたのこと、聞かせて貰えないかしら」


先生はいろいろ質問してきた。

どんな練習をしているのか、父はどんな人だったのか、それから好きな男の子はできたかなんてくだらない話も振ってきた。

先生は何を言っても「うんうん」と相槌を打ってくれるし、華麗な微笑みで反応をくれた。


そして何より、先生は優しかった。

ただ答えるだけでなく、私の気持ちに共感するように、私まるごと見ようと会話をしてくれた。

気がつけば、時間を忘れて話し込んでいた。楽しかった。こんなに長く人と話したのは、初めてだった。今の私を見て「楽しさなど必要ありません」とはよく言えたものだ。


それからというもの、私は先生の暇な時間があれば分からないことを聞きに行くようになった。研究室の扉をノックすると、先生は大抵笑って迎えてくれた。






そんなある日、廊下で呼び止められた。


「エレオノーラさん、少しいいかな?」


声の主は同じ剣術クラスのリュカ・ベラフォールという男だ。整った顔に浅い笑み。


「何かしら」


「少し相談があって……クラシキ・ケーラっているだろ?あいつをなんとか退学させてほしいんだ」


「理由を聞こうかしら」


「体調が悪い日に、たまたま負けただけなんだ。なのに、あいつは勝ったことを自慢してるみたいな態度を取ってくる。そのことが悔しくて、練習に集中できないんだ。おかげで剣も上達しない。……ヴァッセル家なら、できるんじゃないかと思って…」


そのとき、胸のどこかがふっと温かくなった。頼られている、と分かった。ヴァッセル家の誇り、私にしかできないこと。


「善処するわ」


「ありがとう。頼んだよ」


それからも、何人かに似たような相談をされた。私は同じように答えた。

学園生活は、どんどん楽しくなっていった。

学園に来る前の父との暮らしではありえないことだった。誰かの役に立っていると思えるだけで、人間はこんなにも軽くなるのだと初めて知った。


そして、決定的な瞬間が起きた。

クラシキ・ケーラ、平民の彼が、アッシュダウン先生と楽しそうに話していたのだ。

胸の奥で、何かが焦げつく。

平民ごときが、あのお方の優しさを享受している。許せない。

先生の善性に付け入っているに違いない。そう断じた。


もちろん、私以外に優しくしていることへの、幼い苛立ちもあったことは否めない。だが私は怒りに任せ、決闘を申し込んだ。


前に一度、私は彼に完勝している。負けるはずがなかった。

むしろ、全てがうまくいくと確信めいた昂まりすらあった。






……結果、私は負けた。

彼は以前とは別人のように、何倍も強くなっていた。私の戦術が、次々と空を切る。

短い詠唱の魔法での先手攻撃。本来ならこれで終わると思っていた。しかし、ろくに魔法を発動できていないはずなのに全ての攻撃が防がれた。


剣以外の攻撃は致命にならないと、意識から外していたことも敗因だった。彼は、そこに付け込むようにふくらはぎへ、二度も蹴りを入れてきた。足が痺れ、鋭い痛みが脊髄を走る。


私は堪らず奥の手を出すことに決めた。剣に冷気を纏わせ、前方広範囲を凍らせる一撃。あれは、真正面から食らえば人間が耐えられる冷たさではない。死んだっておかしくないものだ。私は至近距離で当てることができた時点で勝ちを確信していた。


けれど……白い霧が薄れたとき、彼は平然と立っていた。


「……いい一撃だ。死ぬかと思った。でも、ちょっとだけ……相手が悪かったなぁ」


寒気ではない震えが、背骨を登る。私は初めて彼に『恐怖』した。ありえるはずがない、と脳が拒絶する。


彼の動きは、そこからさらに速くなった。剣は凍らないし、彼の体温は異常なほど高い。

何が起きているか理解することができなかった。


私は蹴りを警戒し、足を切り落とす準備をした。右足が動く瞬間をとらえ、右足を切り落とす……はずだった。蹴りはさっきより速く、重く、痛みが意識を白く塗りつぶす。

痛みに耐えられず剣速が鈍る。剣が(くう)を切ったと同時、彼の横斬りが迫ってきた。反応が遅れた!振り終わりで受けもバックステップも間に合わない!


私は危機が迫る中、瞬時に活路を見出した。しゃがみからのカウンターならいける。望みを賭けた一手。


しかし、しゃがんだと同時、読まれていたように彼の膝が跳ね上がり、私の顔面をもろに捉えた。

耳鳴りはひどく、視界はぼやけ、呼吸は苦しい。

それでも剣を握り続けた。誇りを背負って立っている、という強迫観念だけが背骨を支える。


もはやこの体では機動力を生かした戦いはできないし、もう魔力切れも近い。私は最後の勝負に出た。

『短時間、動体視力を大幅に上昇させる魔法』『次の一刀の速度を大幅に上昇させる魔法』を重ねる。彼は詠唱中何もしてこなかった。

舐められている、と思った。間合いに入れば必ず叩き斬る、そう決めた。


彼の踏み込みに対して完璧なタイミングで剣を入れられたと思った。


だが、私の剣は、彼に届くことはなかった。

何もないところで、刃が止まった。

固いものに当たった感覚ではない。そもそも彼は剣をガードとして入れていない。

ただ、動きが死んだ。まるで見えない沼の縁に踏み込んで、速度だけがするりと抜け落ちるように。


思考が停止した。目の前の理解し難い光景に脳の処理速度が追いつかない。

次の瞬間、こめかみに衝撃を受けて私は意識を失った。





クラシキ・ケーラに負けた次の日からの学園は、地獄そのものだった。

廊下を歩けば、陰口が耳の膜をかすめる。


「あれが平民に負ける騎士だって」

「決闘見たけど、大した魔法じゃなかった」

「平民に負けた分際でよく学園に来れたわね。私なら恥ずかしくて死んじゃうわ」


私への悪口だけでなく、ヴァッセル家を貶す言葉まで聞こえてくる。父の誇りに傷をつけてしまった罪悪感が神経をざわざわと這いまわる。

お手洗いに行っている間に教科書がごみ箱に捨てられていることもあった。おかげで私は自分の荷物をどこへ行くにも、できるだけ肌身離さず持たざるを得なくなった。


クラシキ・ケーラの退学を頼みに来た者たちが、ことごとく陰口に加わっていたことには殺意すら覚えた。ただ、どうやってコミュニケーションを取ればいいのか分からない。そもそも私に怒る権利があるのかも分からず、全てが絶望の感情に塗り替わった。


何より辛かったのは、アッシュダウン先生に合わせる顔がなくなったことだ。先生の前では、強くいたかった。美しく、正しく、いつもみたいに褒めて欲しかった。

私は学園でのオアシスを失った。


この生活がいつまで続くだろうか。学園を卒業して父に会ったとき、どんな顔をするだろうか。トップを走れと言っていた父だ。今の私を知れば、もしかしたら私を捨てるかもしれない。だめだ、考えるだけで吐き気がする。もはや死んでしまった方が楽なんじゃないかと思えるくらいだ。






そうして決闘から一週間が過ぎた。

私は人目が多い学食を避け、校舎裏のベンチに座ってパンを(かじ)る。

乾いたパンは、砂のように口の中で崩れ、舌に貼り付く。味がしない。喉が細くなって通らない。

ちょっとずつ、ちょっとずつ口を付ける。食べ終わるにはどれくらいの時間がかかるだろうか。


空を見上げる。雲一つない。青いだけの空が恐ろしく遠い。どうしてこうなってしまったのか。こんなはずじゃなかった。思考は同じところを巡って戻ってくる。考えれば考えるほど、胸の奥の空洞が広がった。


「学園生活はどうだい?」


突然、横から声がした。気配がなかった。私は反射的に顔を向ける。

そこにはクラシキ・ケーラがすぐ横のベンチに座り、足を組んで肘を乗せて頬杖をついていた。


視界の端が熱くなる。

どうしてこうなったかって?そうだ。決まっている。こいつがいたからこんなことになってしまったのだ。全て、全て、全て!


「最悪だ。あれもこれも、全部!お前のせいでおかしくなったんだ!」


自分でも驚くほど大きな声が出た。


「へぇ僕のせい?……いいや、違う。全て君が選んだことだ」


「うるさい黙れ!お前がいなければ、こんなことにはならなかった!私の誇りと学園生活を返せ!」


彼は私の怒号など気にも留めていない様子で、何かあるわけでもない正面を見続けている。その澄ました顔が気に食わない。


「そ、じゃあ最初に僕を訓練に誘ったのは誰?クラスの人の相談を聞いたのは誰?アッシュダウン先生の忠告を聞かなかったのは?決闘を仕掛けたのは?そしてその決闘に負けたのは?……そう、全部、君だ。君がどれか一つしないだけで、こんなことにはならなかったんじゃない?」


「もういい!お前の話など聞きたくない!」


私は立ち上がり、速足でベンチを離れた。校舎裏の通路を抜け、角を曲がる。


「君は嬉しかったのだろう。強いと、カッコいいと、皆から持て(はや)されて、孤高を演出することに快感を覚えていた」


角を曲がった先、壁に両足をつけ、横向きに立つ彼がいた。重力を無視した姿勢。何の魔法だ。いやどうでもいい。とにかくこいつと関わりたくない。


私は彼の横を無言で通り過ぎる。

そして校舎の中に入る。しかし、そこには先ほど置いてきたはずのあいつが下駄箱の上に、寝そべっていた。


「そんなだから君、ろくに人と話したこともないんだろう。アッシュダウン先生は優しくて、面倒見がいい。初めての話し相手にするには、脳が千切れるほど楽しかったか?」


私は無視を決め込み、廊下を曲がる。


だが、そこにもあいつはいた。天井に足をつき、逆さまに立っている。

身の毛がよだつ。まるで悪夢の中を歩いている気分だ。


「だが、彼女の優しさは君だけの特別じゃない。平民の僕なんかにでも親身になってくれるんだ。それなのに嫉妬して、癇癪をおこすなんて彼女にとっては迷惑極まりなかっただろうね」


今度はそのまま天井を歩いてついてくる。また、言葉が上から降ってくる。


「当ててあげよう。君は僕を退学させてほしいと頼まれたとき、高揚感で満たされた。君の人生では誰も自分を見てくれなかったから。初めて『自分にしかできないこと』を頼まれて、調子に乗ったんだ」


「ついてこないでよ!変態!」


叫んで、意味もなく廊下を曲がり、階段を駆け上がった。足音が石に跳ねる。

階段の最上段、あいつはまた、足を組んで肘を膝に置いて頬杖をついて座っている。


「その結果、君は僕に決闘を申し込んだ。きっと、負けるなんて微塵も思ってなかったんだろうなぁ」


「気持ち悪い!ストーカー!」


私はそう吐き捨て、座っているあいつを横切り左へ曲がろうとしたが、今度は廊下の先にあいつの姿が見えた。私は反対に向き直り、歩き出そうとしたが、さっきまで向こうにいたはずのあいつがなぜか二メートルほど先に立っていた。


「でも負けた。平民ごときに負けた今の君は、どうなった?」


私はさらに振り返り、逃げるように廊下を走りだす。

開いている窓の外から乗り出すようにして、彼が並走してくる。何度も、何度も顔が窓から現れる。


「陰口を言われ」


「家を貶され」


「相談してきた連中にも手のひらを返されて」


「先生にも合わせる顔がない」


もうやめて。それ以上言うのはやめて!


瞬きした瞬間、彼が目の前に現れる。私は走っている足に急ブレーキを掛けて停止する。


「今の君は孤高なんかじゃない。ただの孤独で、可哀想な人だ。もはや誇りなんて微塵も残ってない。『平民の僕と同じ』だ」


「いやああああ!」


喉が裂けるほど叫んだ。

咄嗟に脇の空き教室に滑り込み、扉を閉める。壁の術式板に掌を押し当て、魔力を流し込むと扉に鍵が掛かる。


教室は狭く、薄暗い。教室を一瞬見渡すがあいつの姿はなかった。


私はその場に崩れ落ちた。呼吸が浅くなっていき、涙が勝手に溢れ出してくる。

もう何も考えたくない。これ以上責められたくない。苦しい。助けて。どうにかして……!


「僕も、苦しかったよ」


誰もいなかったはずの教室。しかし、目の前にはまたクラシキ・ケーラがいた。

彼は立ったまま腰を曲げて私の顔を覗き込む。


「皆にいじめられてさ。ねえ、僕たち何か間違ったことしたかな」


私は首を振ったのか、うなずいたのか、自分でも分からない。言葉が先に溢れた。


「ごめん…な…さい。私が、悪かった。もう……許して」


嗚咽で言葉がちぎれる。涙が止まらない。この悪夢が早く終わってほしいと切に思った。


「へぇ。これが間違ってるって思えるんだ」


彼は腰を伸ばして私から視線を逸らす。


「そうだよ、こんなの間違ってる。平民がなんだ。一回、戦いに負けたからってなんだ。それのどこが悪い? ……いいや何も悪くない。悪いのは、同じ人間なのに、こんな苦しい思いを一方的に平気でさせてくる人たちだ」


抵抗できる言葉が、何一つ浮かばなかった。

なぜ、平民だから弱者だ、という結論に私は疑問を抱かなかったのだろう。

なぜ、それを理由に無下に扱っても良いと思ったのだろう。


いざ、同じことをされたら、こんなにも苦しいのに…。


私は罪を自覚する。こんなことは間違っていたんだ。人としてあるべきものではない。


「人は誰しも間違える。だけど、それを自覚して行動を改められる人は、許されるべきだと僕は思う。大切なのは自覚だ」


彼は少し笑ってハンカチを差し出してきた。私はそれを受け取り、涙と鼻水を拭く。胸が重いのと温かいので張り裂けそうだった。


しばらくして、泣き疲れて、胸の上下がやっと落ち着いてきた。

彼は何も言わず、壁にもたれかかって座っていた。

私の様子を見て彼が、立ち上がりながら話しかけてくる。


「ふぅ。それでね、唐突だけど僕と友達になってくれないかな」


耳がおかしくなったのかと思った。

友達…?どういうこと?


「誰が、あんたなんかと」


まだ声は少し震えているものの顔を逸らして答える。

引け目がある。今さら態度を変えるなんて…という粉々に散っていったはずの私のプライドが邪魔をする。


「そっか…。でも、これはお願いじゃない」


彼は肩をすくめ、少しだけ困ったように笑った。


「決闘の条件は『負けた方は勝った方の言うことを何でも一つ聞く』だったよね。だからこれは命令」


「……そう。分かった」


命令というならば仕方ない。私はこれ以上の生き恥は晒さないためにも諦めて承諾する。


きっと、友達なんて(てい)のいい言葉を使っておいて、私に復讐する気なのだろう。私のことが憎くないはずがない。いったいどのような扱いを受けるのだろうか。奴隷、いや犬畜生以下の扱いを受けるのかもしれない。


でも……もうそれでいいと思った。もう、どうなろうと、どうでもいい。

私には諦めにも似たその覚悟ができている。


私は力が抜けたように壁にもたれかかる。


「やったー。初めての友達ができたー」


彼は大げさに両手を上げ、笑ってみせた。


「これからよろしくね、エレオノーラ・ヴァッセルさん」


名前を呼ばれて、胸の奥がちくりとする。

私はハンカチを握りしめたまま、目を閉じた。

どうでもいいかもしれませんが、まさか10話もいかずにブックマークを一件もらえたようで感激しています。

ここまで読んでくれた方にまずは感謝。

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