7話 建前
剣術クラスの稽古を続けて、さらに二週間が過ぎた。
そして研究も進んだ。あの空き教室でつかんだ『魔力と情力を混ぜる』というやり方は、机上の偶然では終わらなかった。
情力だけでやっていたことを、魔力を混ぜた分だけ、高威力でできるようになった。
剣に込めれば切れ味が増すし、バリアはより強度に、以前よりも離れた位置にも展開できる。筋肉や骨に、情力と一緒に魔力を押し込むように流せば、情力単体の時と同じ理屈で身体能力が上がった。
問題は精度だ。いまの僕は、戦闘中に瞬時にそれができるほど慣れていない。多少はコツを掴んだが、まだまだ集中がいる。選択肢として入れられるだけでも無いよりはいいんだけどね。
授業が終わった午後、今日は調べ物がしたくて図書館へ向かった。高い天窓が、薄乳色の光を棚の背に落とし、羊皮紙の匂いが細く漂っている。
背の高い書架の陰を抜けたところで、見慣れた黒の外套が視界に入った。
「あ!クラシキ君!」
アッシュダウンと視線が合ったかと思うと彼女は僕の方に駆け寄ってきた。
「お久しぶりです、先生」
「そうよ!あなた全然顔を見せに来ないじゃない!ひどい生徒だわ、まったく」
怒っているような表情と口調だが、どこか目じりは愉快そうにゆるんでいる。
んーあざとい。これ素でやっているのかな。いや、天然系の女の子が二次元では一番タイプなんだけど。
「たまに会ってますよ、ただ話しかけないだけで」
「それ、会ってるって言わないのよ」
くすっと笑い合う。肩の力が抜ける。こういう軽口を交わせる相手が、学園に一人でもいるだけで楽しいものだ。
「先生は図書館に何を?」
「研究で使う本を探しに。あなたは?」
「強化魔法の知識をつけるために、『武器強化概論』を借りようと思って」
「ふふ、それなら棚の二段目、背表紙が赤のほうね。手が届かないでしょ?私が取ってくるわ」
そう、彼女の身長は百五十八センチほど。まだ彼女の方が背が高いのだ。この調子だと、これから抜けるかも怪しいが。
言うが早いか、先生は迷いなく通路の奥へ消え、すぐに探していた本を持って戻ってきた。
表紙を見た瞬間、彼女は小さく首を傾げる。
「この本、私内容を知っているわ。よければ教えてあげられるけど」
ありがたい申し出ではあるが、人間社会には『建前』というものがある。僕には『建前』と『本音』が上手く分からない。もしこれが建前なのに、僕がお願いしてしまえば、きっと気まずい空間が生まれるだろう。ここは、僕も建前を出しつつ、断るのが礼儀というもの。それに、彼女にとって僕を教えたとて何のメリットもないしね。
「いや、先生の時間を取らせるのも悪いですし、頑張れば理解はできると思うので大丈夫ですよ」
「そういうことなら教えてあげるわ。このあとちょうど暇になる予定だったから」
どうやら彼女は、別に僕と一緒にいることに嫌悪感はないらしい。もしかしたらとてもビッグな建前という線も否定できないが。
「そうなんですね。ではお願いします」
「ええ、任せて。それと、子どもなんだから気を遣おうとしなくていいのよ。厚意は素直に受け取るようにね」
「はい、気をつけます。ところで先生って、今おいくつなんですか?」
子ども。そこで少しだけ疑問が浮かんできた。別に子ども扱いされるのは嫌いじゃないけど、彼女は見た目がずいぶん若い。
「十七よ。今年で十八になるわ」
「十七……?学園には通わずにいきなり先生に?」
「いいえ。ちゃんと通ったわよ。十二でこの学園に入学して、そこから飛び級して十四で卒業。その後は、いろいろあって伯爵位を拝受して、今は先生兼研究者。大変なことも多いけど、こうやって生徒に囲まれながら魔法の研究ができるから楽しく過ごせているわ」
「疲れそうですね」
感想が口から漏れる。
「さ、場所を移動しましょう。ここでしゃべってると司書に怒られるから」
アッシュダウンに導かれて、彼女の研究室に来た。長いソファと長机があり、そこに二人で並んで座って勉強を始めた。分からない単語があれば概念から教えてくれるし、内容も先生が要点を丸めていく。僕はそれにうなずき、メモを取り、質問を挟む。
やがて、一段落ついて休憩に入ったとき、彼女が話しかけてきた。
「この学園の生活はどうかしら」
「おかげさまで楽しいですよ。問題なく生活できています」
僕は笑って答えた。嘘ではない。研究が爆発的に前進して楽しいことは確かに多い。積み上げたい課題も、読みたい本も、やってみたい稽古も山ほどある。
しかし、その返答の後、彼女の言葉が途切れた。
どうしたのかと思い、彼女の方に顔向けると寂しそうな、悲しそうな表情で僕をずっと見ていた。
僕は目線が合うと、できるだけ自然になるよう意識して視線を前に戻す。
「どうしたんですか、先生」
すると彼女は席を立ったかと思うと僕の目の前で屈み、そっと僕の手を取って、ぎゅっと握った。その手は驚くほど温かい。
彼女の表情は優しそうに、しかしどこかまだ悲しそうに微笑んでいた。見ていられない。
「優しい嘘、つかなくてもいいのよ?我慢しなくてもいい。迷惑かけてくれてもいい。あなたひとりで抱え込む必要はどこにもないわ。ひとりで苦しまないで。あなたも同じ人間なんだから」
『意図』は分かる。
僕の名前は少なくとも学年中には広まっている。陰口も盗難も暴力も日常茶飯事だった。僕がいじめられているのは誰から見ても明らかだし、アッシュダウンは惨めに思えて心配しようとしてくれているのだろう。
しかし、そんなことで絶望するほど僕の精神は弱くはない。害にすらならない悪意は見過ごすようにしてるんだ。確かに悪意は許せないが、悪いのは彼らではなく、そういう思想を作ったこの環境だというのが今の僕の考え方だ。かといって、これは僕が特殊な環境で育ったからであって、もし別の人を同じようにいじめて、精神を追い詰めているのならブチギレもんではある。
ただ、ここで彼女が僕に情けをかける『意味』は何だろう。
彼女は別に僕のことが好きなわけでもないだろうし、何か僕への恩を作ったわけでもない。
僕が弱みを打ち明けて彼女は何を得るのだろうか。
……考えたところで意味はないか。彼女は僕に対しての偏見はなさそうだし、瞬間の同情というのはよくある話だ。そして、いざ話しても何もしてくれないというのもよくある話。
「先生のように僕を思ってくれる人がいることが、ただただ嬉しいです。でも、学園での生活は本当に楽しいですよ。どうしても困ったときは、また相談させてください」
「そう……」
彼女は煮え切らない顔をしつつも、作り笑いを浮かべて手を離した。
「新しいお茶、淹れてあげるわね。まったく、あなた本当に子どもなのかしら」
ギ、ギクッ!
前世も合わせたら今年で三十五歳です…
「ふふ、友達の一人でも作ってくれたら、私も安心できるんだけどね!」
「はは、それはちょっと難しいかもしれないですね」
いつもの空気が戻ってきたところで、扉がノックされた。
「あら、誰かしら。どうぞ」
扉が開き、そこにいたのは銀色の髪、冷たいアクアマリン。エレオノーラ・ヴァッセルだ。視線が僕と先生を順に刺し、怒りの色を見せる。
「失礼します。アッシュダウン先生、この魔法書で分からないとこがあったので忙しくなければ教えていただきたかったのですが……」
彼女の目が、僕の手元にあった本と、先生の近さを一瞬だけ測る。
「あなた、こんなところでアッシュダウン先生と何をしていた」
「何って、ヴァッセルさんの目的と同じで、僕も先生に教えを乞うていたんです。ちょうど区切りがついたところなので、僕は失礼しますね」
彼女はかかとを鳴らし、一歩近づく。
「お前などが口を利いていいお方ではない。立場を弁えろ」
謝ったところで終わるような雰囲気ではないので、今回は話し合いをしようと思う。
「なぜあなたは良くて、僕は話してはだめなんですか?どんな理屈があってそんなことを言えるんですか?」
彼女は言い返すわけでもなく、怒りあらわにして、また一歩近づいてきた。
「前に私は、平民が来ていいところではないから退学しろと忠告したはずだ。それに、お前がいるとクラスでの訓練に集中ができず、剣が上達しないと何人かから相談を受けている。お前はこの学園の害虫だ」
「いい加減にしなさい!それ以上言うなら、私が怒るわ、ヴァッセルさん」
アッシュダウンのその発言にヴァッセルは目を丸くし固まる。
「せ、先生!どうしたのですか!こいつは平民ですよ?なぜ私が…」
「平民がどうしたっていうの?何も関係ないわ。今の発言を…クラシキ君に謝りなさい」
更なる追撃に彼女は下を向いて動かなくなってしまった。
こう見ると、彼女もまだまだ子どもなんだなって感じる。
そんな彼女を見て、アッシュダウンも痛ましそうに目線を落としている。
僕は座ったまま足を組んでそこに肘を乗せて頬杖をつく。
「はあ。第一、ヴァッセルさんの退学勧告に応じる義務はそもそもありません。第二、剣の上達は当人の問題であり、僕を言い訳にされても困ります。それに、僕に負けて悔しいなら、排除しようとするのではなく僕を超える努力をするべきだ…。だから、僕はこの学園を去るつもりはないです」
これで本人が納得してくれれば良いんだけど…
「……そうか分かった」
お、意外と物分かりがいいじゃん、と思ったのも束の間、彼女は顔を上げ、訓練用の剣を抜いてこちらに振ってくる。ただ間合い的に剣がこちらに当たることは無さそうなので、そのまま僕は動かない。
案の定、剣は僕の顔の横で止まった。
「クラシキ・ケーラ!負けた方は退学を条件に私と『決闘』をしろ!」
この学園では生徒同士の揉め事を解決するために、実技の訓練もかねて『決闘制度』がある。戦う前に条件を決め、それを学園が承認すれば決闘は行われる。学園の承認が必要な理由は、大抵は大きな怪我が伴うので医療班の手配が必要なのと、学生同士の枠を超えた過剰な条件の決闘を阻止するためだ。
「何を馬鹿なことを言ってるの!」
「この平民は先生の優しさに付け込んで、先生を騙しているんです!安心してください!必ず私が先生を救ってみせますから!」
「私は何も騙されてなんかいないわ!クラシキ君!こんな決闘、受ける必要ない!」
「そうですね。別にヴァッセルさんが退学したところで僕には何のメリットもありません」
僕の言葉を聞いてアッシュダウンは少し安堵したように見えた。
「なに…お前逃げる気か!騎士としての誇りはないのか!」
「別に受けてもいいですが、何もメリットがないと言ってるんです。そうですね…『負けた方は勝った方の言うことを何でも一つ聞く』というのはどうでしょう。もちろん僕が負けて退学しろと言われれば退学します」
「良いだろう。その条件で決闘しよう」
彼女は即答だった。万が一にも自分が負けるとは思ってないのだろう。
「クラシキ君も何を言ってるの!今すぐ取り消しなさい」
先生が僕を睨む。
「決闘は明日の放課後、闘技場で」
そうして彼女は滑らかに踵を返し、扉に手を掛けて振り向く。
「ただ退学するだけで済むとは思わないことね。先生…必ず勝ちます!待っていてください」
「別にあなたを応援してはいないのだけど…」
もはや彼女にアッシュダウンの声は届いておらず、そのまま部屋を出ていってしまった。
「ちょっと、どうするのよ!」
アッシュダウンがこちらに駆け寄ってくる。
「私いま、本気で怒ってるから!彼女、成績も良くて、とても強いのよ!」
「知ってますよ。僕、一度負けましたから」
「だったらどうして受けたのよぉー!」
彼女は苛立ちを表現するかのように、その場で小さく足踏みをした。
「ねえどうやって勝つの?今から訓練したって魔法の使えないあなたじゃあ間に合いっこないわ」
「大丈夫ですって。安心してください。必ず勝ちますよ。それに……これは僕にとっての機会でもあるんですから…」
そう、僕はこういう機会を待っていた。
これは彼女に痛みを分からせるチャンスだ。これで彼女が思いやりを覚えてくれるようになるのが楽しみでならない。まぁ、もしあのまま変わらないとするならば……どうしようかな。
いや、きっと大丈夫だろう。彼女の精神は特段発達しているわけではないから、必死に伝えれば分かってくれるはずだ。
アッシュダウンは困惑したように固まっている。
さて、僕もそろそろ帰ろうかな。
「本、ありがとうございました。教えていただいたところ、復習しておきます。先生も、どうかお体には気をつけてくださいね」
「え、ええ。あなたも…」
深く頭を下げると、僕は本を胸に抱えて研究室を出た。
廊下は夕方の色で満ち、床石の目地が一段くっきりして見えた。