16話 蹂躙
私の名前はエレオノーラ・ヴァッセル。
突然の状況に、思考が追いつかない。
「ちょうどよかった。エル、彼女をよろしく」
ケーラはそう言い残すと、またしても私の声を無視し、盗賊団のアジトがあると見られる方角へ駆け出してしまった。
「はぁ?あなた剣も持ってないのに、何をする気?」
私の声は、もう彼の背中に届いていない。
制服の影が暗闇に消えていく。
私はその場に立ち尽くす。
リスと呼ばれた女性は、地面に座り込んだまま震えていた。涙と土で顔はぐしゃぐしゃになり、呼吸も浅い。
どうする?
彼女を安全なところまで連れていくべきか。それとも、ここに置いてケーラの加勢に行くべきか。
剣も持たずに盗賊団のアジトへ単身で乗り込むなんて正気の沙汰ではない。いくらケーラが強いとはいえ、相手は騎士団でも手に負えないと言われている盗賊団だ。
かといって、リスをひとりにするわけにもいかない。
そのとき、リスが顔を上げた。
涙で濡れた目が、私を捉える。
「お願い……します……私を……ケーラさんのところへ……連れていってください」
「え?」
リスは震える手で地面を押し、立ち上がろうとする。膝が笑っていて、すぐに崩れそうだ。
「この恨みを……晴らすために……自分の目で見届けたいんです」
「危険よ。あなたはもう十分すぎるほど傷ついているわここで待っていた方が……」
「お願いします!」
リスの声が、森に響く。
「私は……ただ逃げてきただけなんです。必死に逃げて……クラシキさんに助けてもらって……せめて……せめて最後まで見届けたいんです。私たちを傷つけた盗賊たちが、どうなるのか……」
私は、彼女の目をまっすぐ見た。
そこにあるのは、ただの恐怖ではない。踏みにじられた尊厳を取り戻そうとする、必死の意志。
「……分かったわ。でも、絶対に私から離れないで。何があっても、私が守るから」
リスの目から、また涙がこぼれる。
「ありがとう……ございます」
私たちは、ケーラが消えた方角へ歩き出した。
リスの足取りはおぼつかない。それでも、彼女は必死についてくる。
……ああは言ったものの、私が行ったところで盗賊に勝てるのだろうか。
そもそもケーラに、大勢の盗賊を相手取れる力があるのかどうかも分からない。
暗い森を進むうち、遠くから音が聞こえてきた。
ドン、ドン、という鈍い音。爆発音。
私は足を速める。リスも唇を噛みしめながら、必死に走った。
やがて木々の向こうに明かりが見えてくる。
「今の……魔法の音?」
リスが震える声で言う。
私は頷く。たしかに、魔法の爆発音だ。
不安が胸を締め付ける。ケーラは、大丈夫なのか?
私たちは慎重に近づいていく。
粗い木組みの塀が見えた。塀が壊れているところがあり、隙間から中の様子が見える。
私は塀に大きな穴が空いている部分に近づき、そっと中を覗き込んだ。
リスも私の後ろから顔を出す。
私たちは、息を呑んだ。
中央に、ケーラが立っていた。
そして、彼を取り囲むように、複数の盗賊が魔法を放っている。
火の玉、雷撃、風の刃、氷の槍。
それらが、次々とケーラに襲い掛かる。
爆発。閃光。衝撃波。
土煙が舞い上がり、地面が抉れる。
私の体が、硬直する。
あんな攻撃を受けて、無事でいられるはずがない。
リスの手が、私の腕を強く掴む。
ケーラが……死んだ?
そんなはずはない。
そう思いたいのに、あの攻撃を受けて無事でいられるとは到底思えなかった。
ただの盗賊ではない。
騎士団でも手に負えないと言われていた理由が、今、目の前にある。
土煙が、ゆっくりと晴れていく。
私は、目を凝らす。
「……え?」
リスも、同じように声を漏らした。
ケーラが、立っていた。しかも無傷で。
制服には焦げ跡ひとつなく、髪すら乱れていない。
「嘘……」
私の口から、言葉が漏れる。
何をしたの? どうやって?
魔法を使った様子はない。
ケーラは、ゆっくりと息を吐いた。
そして、全身で深呼吸する。
胸が大きく上下し、肩がわずかに動く。
その動きは、まるで何か大きなものを体に取り込むように、ゆっくりと、深く、静かだった。
そして……
彼は、直立不動になった。
両足を肩幅に開き、握った拳を体の脇へ下ろし、顔を正面へ向ける。
その佇まいは、どこか荘厳ですらあった。
先ほどまでとは何かが違う。
その場にいた盗賊たちも、動きを止めた。
誰もが、その異常に気づいている。
私も、それを感じた。
ケーラの姿が……ぼやけている。
いや、違う。ピントが合わないのだ。
視線を彼へ向けているのに、焦点が定まらない。
まるで、そこに何も存在しないかのように、視界が素通りしてしまう。
これは……魔法?
だとすれば何の魔法?
そんな魔法、私は見たことも聞いたこともない。
それに、直感ではあるけど、彼から魔法が発せられたようには見えない。
そこに人がいる。たしかに、ケーラがいる。
でも、脳が認識できない。
まるで、背景そのものへ沈んでしまったかのように。
そこに立っているはずなのに、認識だけが彼を素通りしていく。
魔法でないとしたら、これが彼の技術だというの?私の知る限り、そんな技術を持つ者は聞いたことがない。
盗賊たちも、戸惑っている。剣を構え直し、詠唱を始める者もいるが、視線が定まらない。
そのとき、ケーラがわずかに前傾した。
ほんの少し、膝を曲げる。
次の瞬間。彼の姿が、消えた。
いや、消えたのではない。移動したのだ。
だが、その移動が異常だった。
まるで地面と平行に滑っているように、上下動が一切ない。
体が空間に固定されているかのように、ただ一直線に盗賊へ向かって進んでいく。
そして次の瞬間、ひとりの盗賊が鈍い音とともに右肩を砕かれ倒れた。
間を置かず、別の盗賊の左膝が粉砕される。
ケーラの動きは、流れるように美しい。
拳と膝で、正確に関節を破壊していく。
無駄な動きが一切ない。
移動しているのに、上下にも左右にも、体がほとんどぶれない。
足は動いているはずなのに、それすら集中しなければ見えないほどだ。
それ以外の部位は、本当に空間へ固定されているかのように静止していた。
人間は、歩く相手の上下動や左右の揺れで距離感を測る。
けれどケーラには、それがない。
だから、距離感が狂う。
近いのか、遠いのか、脳が正確な距離感を判断できない。
盗賊たちが魔法を放つ。火球が飛ぶ。雷が走る。
でも全部、空を切っている。ケーラの姿が捉えられていないのだ。
剣を振るう盗賊もいた。
しかし刃は、何もない空間を薙ぐだけ。
そしてまた一人、肘を砕かれて倒れる。
ひとりの盗賊が詠唱を始めた。
火属性の上級魔法だ。
だが、詠唱の途中でケーラの貫手が喉に刺さる。
盗賊は声も出せずに喉を押さえ、その場に崩れ落ちた。呼吸ができないのだ。苦しげに体をよじる。
関節を砕かれて倒れていた盗賊が、なお詠唱しようとした瞬間には、ケーラの拳がその顎を打ち抜いた。首が不自然な角度に曲がり、盗賊はそのまま崩れ落ちる。頸椎が砕けたのだ。即死だった。
「ひっ……」
リスが小さく悲鳴を上げる。
初めて、ケーラが人を殺した瞬間だった。
でも、それだけではなかった。
膝が逆に折れ曲がる。
肩関節が外れる音が響く。
次々と盗賊が倒れ、悲鳴と阿鼻叫喚がアジトに満ちていく。
私は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
これは……何?
父でも、こんなことはできない。
ヴァッセル家は代々、騎士として王に仕えてきた。父はこの国でも指折りの剣士だ。
それでも、あんな動きは見たことがない。
ケーラは、いったい何者なのか。
あんなことができる者などまるで、世界最強の……
盗賊たちの数が、目に見えて減っていく。
立っている者は、もう数人しかいない。
関節や喉を破壊された者たちは、もはや戦えない。
そして、その中の何人かは二度と動かない。
喉を潰され、首を折られ、命を奪われた者たち。
地面には、痛みに悶える者と、すでに動かなくなった者たちが折り重なるように転がっていた。
ケーラはなおも、戦おうとする者、魔法を使おうとする者を容赦なく殺していた。
恐怖が、その場を完全に支配している。
盗賊たちの目には、はっきりと恐怖の色が浮かんでいた。
そのとき
「うおおお!」
一人の盗賊が、こちらに向かって走ってきた。私たちに、気づいたのだ。
彼は剣を振りかぶり、リス目掛けて突進してくる。
「リス、下がって!」
盗賊の剣が振り下ろされる。
私はそれを受け止め、弾き、そのまま流れるように喉を斬り裂いた。
血が噴き出す。
盗賊は喉を押さえながら倒れた。
「大丈夫?」
リスに向き直る。彼女は、無事だ。
でもリスの顔を見て、私は言葉を失った。
たった今、命を狙われたばかりだというのに彼女の顔には、恐怖がなかった。
その代わりにあるのは…興奮。
そう、彼女は興奮していた。
目は爛々と輝き、頬は紅潮し、呼吸は荒い。
その視線は、ケーラに釘付けになっている。
盗賊たちを蹂躙していくその姿を、恍惚としたように見つめていた。
「ふふ…ふふ…」
小さく、何度も笑い声を漏らす。復讐の快楽。それが、彼女の顔に浮かんでいた。
私は何も言えなかった。
彼女を責めることなど、できない。
彼女が受けた苦痛を思えば、この感情は当然なのだろう。
しかし、私にはそれが不気味に見えた。
そのとき。
最後のひとりが倒れた。
アジトの中で立っているのは、もうケーラだけだった。
地面には、関節を破壊された盗賊たちと、動かなくなった者たちが転がっている。
悲鳴、呻き声、泣き声。
まさに阿鼻叫喚の光景だった。
ケーラは中央で立ち止まる。
そして、動かない。
リスが口を開いた。
「なぜ……全員殺していないんですか?」
その声には、不満が混じっていた。
私も、はっとする。
そうだ。ケーラは全員を殺したわけではない。
なぜ?
私は、ケーラに声をかけようとした。
「ケーラ……」
その瞬間だった。
ケーラの背後に、巨大な影が現れた。
建物の陰から、音もなく。
身長は二メートル半を越える巨体。手には、金棒のようなものを握っている。
その男が、金棒を振り上げる。
それをケーラ目掛けて、振り下ろした。
「危ない!」
私の叫びが、間に合わない。
しかしケーラは、振り向きもせず。ノールックで避けた。わずかに体を傾けるだけで、金棒が空を切る。
そして反撃に移る。ケーラの拳が、大男の脇腹に叩き込まれる。
しかし男は、びくともしなかった。
むしろ、ニヤリと笑う。
「ほう……なかなかやるじゃねえか、坊主」
大男が、金棒を横に薙ぐがケーラは、それも避けて見せた。
そこから、打ち合いが始まる。
金棒が空気を切り裂き、ケーラはそれを避け、いなし、反撃する。
けれど、大男が異様だった。
その巨体からは想像もできないほど俊敏で、動きにも無駄がない。
ただの力任せではなく、上手く魔法を制御している。
ケーラの拳が、顔面、脇腹、膝へと何度も入る。
しかし大男には、効いている様子すらない。
体格差が、あまりにも大きすぎるのだ。
ケーラは、距離を取った。大男が、金棒を肩に担ぐ。
「おい、坊主。人様の家の壁ぶち破って暴れるなんざどんな教育受けてんだ。親の顔が見てみたいぜ」
私の胸が、不安で押しつぶされそうになる。
いくら技術があるといっても、この体格差で勝てるのか?
実際、ここまでの攻防ではケーラの攻撃はほとんど通っていない。
それに対して、男の攻撃は一撃でもまともに受ければ致命傷になるだろう。
リスも、固唾を呑んで見守っている。
暗闇の中、二つの影が対峙する。一方は小さく、もう一方は巨大。
そして両者構えを取り、再び戦いが始まろうとしていた。




