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14話 逃亡

私の名前はリス。王都の北側で小さな屋台を出している、二十歳になったばかりのアイスクリーム屋だ。


家族は母しかおらず、その母も病に罹ってしまってほとんどベッドの上で暮らしている。平民だし特別、裕福であったわけでもないから貯金もほとんどない。このままでは飢え死ぬことを悟り、私は生活費を稼ぐために氷魔法だけを頼りに、朝から夕方にかけて屋台を押して通りに立つ。


アイスクリーム屋を出すことにしたきっかけは王都の北側でとても人気が急上昇していると聞いて、私でもできるのではないかという半ば突飛な発想からだった。


まだそこまで名の通っていない、王都東側、家の近くの露店街に店をだした。最初の数日は、ほとんど客は来なかった。私は笑って、氷の上に匙を立てて見せたり、魔法で器の縁に花の意匠を霜で描いたりして、続けていくうちに足を止めてくれる人は徐々に増えていった。私の魔力回路はあまり丈夫にできていないが魔力自体は人より多かったので、常に温度管理が必要なアイスクリーム屋経営には適していた。それでも毎日魔力不足一歩手前までいき、帰れば気絶するように眠った。


客足は、ほんの少しずつ増えて、やっと「絶対、良くなるよ」とベッドに座る母の手を取って言えるくらいにはなってきた。しかし、母は「ごめんなさい。もう見捨ててもいいのよ」というばかりだった。その痛々しい姿に私は涙を浮かべて「やめてよ。私にはお母さんがいないと生きていけないよ」というしかなかった。


常連客となりつつある人の顔も覚えた。猫背の職人、口数の少ない衛兵、子どもに弱いパン屋の兄ちゃん。

そのなかで、ひときわ、記憶に残っている人がいる。ルミナリア学園の制服を着た黒髪の少年。名前は、クラシキ・ケーラと言った。突出した魔法の才能を持った貴族しか入れないという、王国一の雲の上の学園。その学生だというのに、彼からは貴族特有の平民を見下す態度を見せる素振りも見せない。私に敬意を払ってくれるような言葉遣いで、目線は対等。他の貴族とは違う特別な存在であると思って彼について気になった。


今日の彼は仕入れをどのようにしているかを聞いてきた。


「このミルクは王都でとれるんですか?」


「いえ、南東の森を抜けたところにある小さな村に行って直接仕入れているんです」


「へえ、わざわざ、大変ですね」


「仲介を入れると利益も減りますから」


「あまり無理はしないようにしてくださいね。また明後日にでも来ます」


「ありがとうございます。また来てください!」


贅沢品を、こんな頻度で買えることを羨ましく思わないと言えば嘘になる。私に貴族ほどのお金があれば母にもっと栄養のあるものを買ってあげられるし、もっと良く効く薬を買ってあげられた。そんなドス黒い感情がたまに無意識に出て、彼の同情を誘ってしまうようなことを言ってしまうことがある。彼はそんな私を見て顔には出さないから何を思っているのか分からないが、こうしてアイスを買ってくれているから効いているのだろうか。少し心苦しいけど、仕方ないよね?貴族なんだし、弱者の私たちを少しくらい助けてくれてもいいはず。そう思うようにして僅かな良心を保った。


ある晩、片付けをしていて、ミルク缶を持ち上げた手が止まった。底の音が軽い。蓋を開けると、白の面が浅い。在庫がもうなくなった。それはたくさん売れているという証明でもある。


「仕入れに行かなきゃ」


私は帳面をめくって、銅貨と銀貨の並びを数えた。今月の薬代、薪代、屋台の修繕費。足りる、ぎりぎり足りる。ここで一度多めに仕入れができれば、もう少し楽になる。もしかしたら、先送りにしていた高い薬も…そう、あの高い薬も…買ってあげられるかもしれない。


翌朝、私は馬車を一台借り、身の丈に合う護衛を一人雇った。護衛といっても、熟練の冒険者ではなく、若い冒険者の男の人だ。王都に出入りするための通行証明書を発行するためには護衛の同行が義務づけられているからだ。森には盗賊が出ることがあるらしいが、私はまだ会ったことはないし、これからも会わないだろうという希望的観測からできるだけ安くいけるようにした。


その日も無事に森を抜けて村に着くと、馴染みの酪農家のおばさんが、私の顔を見るなり笑った。


「あら、早いわね」


「はい。ありがたいことにもう全部売れたんですよ。今日はいつもより多めに買ってもいいですか?」


そうしてミルクを買うことができた。

荷台に並ぶミルク缶の列が白く眩しい。私は頬を叩いて、村の共同宿に泊まることにした。夜道を馬車で戻るのは危ないし、護衛の男も「夜はやめましょう」と首を振った。


その夜。

私は浅い眠りから引き剥がされるようにして目を開けた。鼻腔を刺す焦げの匂い。外から、ざわざわとした叫び声。火だ。

宿の扉を開けると、夜空は火の粉で星のように光っていた。


村は運悪く盗賊に襲われた。

騎士団でも手に負えないと噂されている、名のある盗賊団だと、あとで知った。私は何も知らず、ただ、火の中で走って、つまずいて、倒れた。

子どもが泣き、女の人の腕が引きちぎられるみたいに強く引っ張られ、男の人が立ち上がろうとして、立ち上がれないまま足を斬られた。

護衛の冒険者は、剣を抜いて応戦しようとしたがすぐに、腹を貫かれて殺されてしまった。

私は腕を掴まれ、抵抗して、氷魔法を発動しようとしたけど、手首に何か冷たくて重いものを嵌められた。魔力封じの鎖だ。詠唱を始めた声は、鎖の冷たさに吸い込まれて消えた。


村は、地獄になった。

女と子どもは縛られ、口を布で塞がれ、荷に乗せられた。男は全員殺されたようだった。


アジトと呼ぶには汚い、木の塀に囲まれた場所に連れて来られた。昼は労働だった。水を運び、薪を割り、壊れた柵を修繕させられた。夜は、女は別の小屋に連れていかれ、汚された……。

私は抵抗した。何度も、何度も。蹴り、噛み、爪を立てた。氷の魔法を使おうとして、鎖の冷たさに指の先が痺れた。

痛みと屈辱の連続で、これ以上ない絶望だった。私はそれを、ひと晩ずつ、息をするようにやり過ごした。すぐに感情を切り、必死に耐えようとした。絶対に騎士団が助けに来てくれると信じて。


一番心配していることは母についてだ。母はきちんと食べているだろうか。優しい母のことだからそのまま何も食べずに死んでしまうのではないかと不安がよぎる。

病気の母を一人残したままにするわけには行かない。早く帰りたい。


盗賊の話の端々から、私たちは奴隷として売られる予定だと知った。買い手がつくまで、働かされ、傷つけられ、減らないようにだけ大事にされる。

そんな未来の長さを数えるのをやめた夜、私は、壊れる手前で、逃げる決心をする。騎士団なんて待っていられない。というか、たかが平民のために助けに来ようとしているのかも怪しい。


囚われて十日目の夜。

母への心配が限界に達した。というより、もう既に母は死んでしまったのではないかと思うほどだった。


私はいつものように牢屋から出され男の部屋に連れられた。男は酔っているようで少し足元がよろけている。今日がチャンスだと確信した。部屋に入るやいなや私はベッドの上に投げられた。男が私に迫ってくるが私はおもちゃのように無抵抗になる。無抵抗だからか男は特に抑えつけてきたりはしなかった。男の顔が私の顔に迫ってくる。そうして男の視界が狭くなったであろうタイミングで持っていた石で男のこめかみを力強くたたきつけた。男はベッドから落ち、すぐさま詠唱をしようとする。


させるわけにはいかない。私はすぐに男の上にまたがり、詠唱を阻止するように石で男の口目掛けて何度もたたきつける。無心で叩いているうちにいつの間にか男は動かなくなってしまった。どうやら私は初めて人を殺したらしい。急に体に緊張が走り、胸のなかで何かが爆発を繰り返しているように、鼓動の音が大きい。


だめだ。今はそんなことを考えている場合ではない。

私は男が持っていた魔力封じの首輪の鍵を取って外す。


私は立ち上がり、部屋を出て走った。小屋の裏の暗がりを辿り、見張りを避け続けているうちに木でできている塀に手を触れた。

私は氷魔法の詠唱を始める。地面から氷の足場を作り塀を登る。できるだけ大きな音が出ないように。

そうして塀を乗り越えて、森のなかへ走り出す。しかし、そこでアジトの方から大きな鐘のような音が鳴り響いた。どうやら脱走がばれてしまったらしい。


思っていたよりもばれるのが早い。見つかれば逃げるのはむずかしくなる。


必死に走った。

枝が頬を打ち、足元の根が足首を絡めようとする。私は転び、起き、また転び、地面に手をついて、泥の湿りで滑り、立ち上がって、走った。


「見つけたぞ!」


まずい!見つかってしまった。森を抜けるまでもまだまだ全然遠い。

暗い森の中でいくつかの明かりが追ってくる。

振り返らなくても、近づいているのが分かった。


そして突然盗賊の蹴りが横から飛んできた。

私は地面を滑って倒れる。


四人くらいの盗賊に囲まれる。

その内の一人に髪を掴まれた。頭皮が剥がれるような痛み。私は叫び、両手を伸ばして、掴まれた腕を引き剥がそうとした。


「ごみが逃げてんじゃねえ!」


「やめろ!くそ野郎!絶対に許さない!」


「そんなに死にてえなら今ここで殺してやるよ」


地面に押し倒され、腹に膝の重さが乗る。刃の光が、視界の中心で夜目に白く反射する。

死が目の前に映る。死ぬのは怖い、お母さんに会いたい。


「ごめんなさい!私が悪かったです!やめてください!」


私は涙を浮かべて必死に懇願した。しかし盗賊は腕を振り上げる。


ここまでなの?

私がなにをしたっていうのよ。

貧しい家庭に生まれて、お母さんは病床に伏せて、必死に働いたっていうのに。その仕打ちがこれなら神様さえも恨めしい。


許せない。


私は死を前に万物への憎悪を抱え、死ぬ覚悟をした。


刃が振り下ろされる瞬間目を見開いて盗賊の顔を見る。この恨みを深く魂に刻み込むためだ。


……しかし、刃が目の先に映った瞬間、全てが目の前から消えた。

腹を押し潰していたものが、空気の抜ける音とともにどこかへ消え、頭皮に絡みついていた痛みも、ふっと軽くなる。


何が起きたのか、分からなかった。

私に抑えていた男は、二本の樹の間まで吹き飛ばされて、幹にぶつかってずるずると倒れた。周囲にいた他の盗賊も、ばらばらと四方へ跳ねて夜の森に消えていった。

私の耳は心臓の音でいっぱいだった。


呆然としていると、奥の暗がりから、声がした。


「大丈夫ですか、アイスクリーム屋さん」


この声……。

どこかで何度も聞いた、落ち着いていて、少しだけ乾いている声。


足音が近づいてくる。落ち葉を踏む音が、まっすぐこちらへ伸びてくる。

私は膝を抱えるようにして座りなおし、涙でぐちゃぐちゃになっているはずの顔を腕で拭った。

闇のなかから、ルミナリア学園の制服の影が現れる。黒い髪、夜目に白い顔。


「…クラシキ・ケーラ、さん…?」


そう呼んだ自分の声が自分のものとは思えないくらい細かった。


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