1話 土下座
主人公の一人称は「僕」にしています。
僕は、うつ伏せのまま呼吸をつないでいた。片頬に貼り付いた血が、じわりと冷える。
足音が近づく。雨が降っているにも関わらず、まるで濡れていない人物を前に、僕は地面を這いながら呼吸するしかなかった。
「年齢不相応の強さと聞いていたが、所詮ガキはガキか……神崎啓等」
僕、神崎 啓等はたった今、この篝という男に負けた。
「いいや、そんなものじゃないだろう!こんな軟弱者に俺の娘が殺されるかああああー!」
怨嗟が彼の拳に宿り、大気が低く唸る。握り締められた手に感情が凝り、硬く、強くなっていくのがわかる。
その拳が振り下ろされ、僕の背中を貫く。
そう、彼の娘……そして僕の元恋人を、この手で殺した。理由は単純だ。組織のトップの命令があったからだ。
僕たちにはまだ物理法則には認知されていない、未知の力を持っていた。
『感情の力』略して『情力』。それをどのように形容するかは様々だ。「やろうと思えば何でもできるようになる力」「主人公補正」「自己中の極み」など
感情とはエネルギーの塊である。感情が一定量を越えると、エネルギーが体内や体外に作用し、未知の力を引き出す。ただの拳がダイヤモンドのように硬くなったり、自身の周りにバリアを張ったり、など…。
その力で世界の裏側の仕事をこなす。それが僕たちの組織だった。
喉に鉄の味。耳の奥で血が鳴る。視界の端で街灯が滲む。『情力』使いに後悔は許されない。己の正しさを疑わない者ほど、意志は太く、感情は膨らむ。
僕は彼女を殺したくはなかった。だが、殺した。命令だったから。
深夜のコンビニ前、彼女は温い缶コーヒーを両手で包みながら笑った。「あなたの優しいところが好き」。そう言ってくれた彼女を、僕も好きになりたかった。彼女を殺した夜から、僕は情力をうまく使えなくなっていた。信念がぐらつき、正解を見つけられないまま戦いに出て、いま地に這う。
篝が一歩、近づく。
「娘はねぇ。君の話を毎晩、それはそれは楽しそうに話してくれたよ。君に裏切られた娘の気持ちを考えただけで、俺は死にそうなほど胸が痛くなる!!!」
復讐が指先を走り、空気の刃が拳に形を取る。僕は視線だけを上げ、篝の瞳を見た。怒りは硬く凍り、波立たない。
一発、二発、三発。僕の体に穴が空く。
「まだ意識があるか。若いのに強い情力を持っているのは本当のようだね。でもな、君みたいな半端者が生きていることを俺は許せねえんだわ。君も情力を使えるなら分かるだろ? もう終わりだ。何か最後に言いたいことはあるか」
僕は膝を折り、手を前に置く。額が地面に触れる。砂の粒が皮膚に噛む。骨が形を覚えていた。理屈の前に、からだが低くなる。
「死んで……お詫びいたします」
それを口にした瞬間、胸の中の騒ぎが不意に静まった。僕は息を吐き、目を閉じる。篝の影が真上に立つ気配。
「許せるか、ボケがああああああ!」
それは、血を吐くような魂の咆哮。
振り上げられた拳の行き先は、僕の心臓だった。
痛みは遠く、白い。熱が遅れて追いかけてくる。止血ができず、血が噴水のように溢れ出る。倒れ込む頬に、地面の冷たさ。視界の端の篝は、涙を流しているように見えた。
暗くなりかける世界の底で、僕は小さく息を吸った。
自分はどうしようもない人間だった。今でさえ死ぬしかないとわかっていても、生存本能か、情力で意識を保とうとしている自分が気持ち悪くて仕方がない。
しかし、目の前に落ちている僕の使っていた日本刀を見て思う。僕はまだ僕が好きだ。僕はこの生き方で幸せになりたかった。お母さんのような優しい人になりたかった!
悔しい!やり直したい!もう一度チャンスが欲しい!僕はまだこの信念を手離したくない!今度はもう間違えないから!
僕に新しい世界を!
そこで、不意に、何かがほどけて、開いた。色が静かに薄れていき、雨の匂いが遠のく。意識の底で、見えない扉が軋む。閉じるためではない。別のどこかへ繋ぐために。
篝は何も言わない。言葉は、もう要らないのだろう。僕の呼吸が波のように引き、音が消える。生が終わる。
そして、僕は…