第二部 第一章 3 ―― 娘の名前 ――
第九十六話目。
鬼と話すなんて……。
3
自信が鬼の眼差しによって崩れてしまう。視線が落ちるのと同時に、まっすぐ向けていた剣先も地面に下がってしまう。
「……あいつはバカだ。なんであいつは…… お前なんかに。なんで俺に相談も何もしないで。だからムカつくんだ。心配なんかしていないっ」
まっ直ぐ鬼に見据えられるのが辛くなり、感情をごまかすためにも、叫ばずにはいられない。
自分の迷いを払い退け、再び剣を鬼に向ける。それでも鬼は動揺することもなく、顔を背けようとはしなかった
本当に憎らしい。
投獄されているのに、どうしてそこまで余裕がある?
どうして自分の身を案じようとしない。
だからユラはこいつに話しかけたのか? 自分のことも顧みず。
ムカつく。ムカつくんだ。
こいつは。あいつは――
「俺は感化されない。俺はあいつに恨まれても、お前を殺すことだって構わないっ」
まだ全身に纏わっていた不安を払い退けて叫んだ。
そうだ。それで構わないんだ。
「私を殺す、か」
静かな呟きが、静寂した牢獄に反響し、肌に突き刺さっていた。
一瞬の間であっても、眼前の鬼が鬼としての気迫を放った。
こいつは危険。
全身を駆け巡る警戒心。鬼と対峙するのは初めて。忘れていた恐怖が剣先を下げてしまう。
「ふふっ。やっぱりあなたも優しいみたいね」
「何がだっ」
「だってそうでしょ。鬼の気迫に怯えながらも、友人のために竦む足を懸命に奮い立たせて逃げようとしないんだから」
「それは……」
悔しさで唇を強く噛むしかできない。いつしか粋がって向けていた剣先も自信を失い、鬼を捉えられない。
目蓋までが重くなり、暗い地面を剣先と同じく虚しく眺めるしかなかった。
「俺は何をしたいんだ…… わからない。俺は何をしたいんだ」
途方に暮れてしまい、迷いが意識を惑わせ、判断を鈍らせてしまう。
彷徨った視線が最後に行き詰った先で、鬼の視線とぶつかってしまう。
やはり鬼とはかけ離れた穏やかな眼差しが出迎える。
「――どうしたらいいんだ、俺は……」
こいつに聞くことは一番かけ離れているのだと、痛感している。けれど、問わずにはいられない。
敵意が消えたわけでも、こいつを許すつもりもない。それなのに、自然と剣を鞘に仕舞っていた。
それでも目を逸らすことができず、じっと眺めてしまう。
呆気に取られて首を傾げる鬼。それに対して俺は目頭が熱くなっていた。
「……今にも泣きそうね」
うるさい。わかっているんだ。こんな俺は惨めなんだって。
それでも……。
「そうね。だったら、あなたにもユラみたいに1つお願いをしてもいいかしら」
お願い?
それまで憎んでさえいたはずの鬼の声なのに、迷う心に染み入る救いに聞こえてしまう。
顔が上がり、また鬼と目が合うと、鬼は目を細めた。
「まだ彼に伝えていないことがあるの。それを伝えてくれないかしら」
「――伝える?」
「そう。実は私の娘の名前を伝えていなかったのよ」
「――名前?」
「ええ。伝えてくれるかしら。娘の名前は〝イリィ〟だって」
「イリィ?」
「お願いできるかしら?」
柔らかに念を押す鬼であったけれど、率直には答えられず、首を竦めてしまう。
「俺は素直に言わないかもしれないぞ」
「それならそれで構わないわ。あなたの判断に任せるわ」
娘の名前?




