第7章 6 ―― しつこい男 ――
第八十二話目。
ネグロって……。
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突如現れた影は、以前戦った鬼。ネグロの容姿をしていた。
しかし、以前に斬りつけた左腕はなぜかあり、肌が黒い異質な姿に震えが止まってくれない。
思わず左の手首を右手で掴み、震えを抑えてしまう。
この圧迫感は以前戦ったときよりも、遥かに上回っている。
腕が回復している時点で変だよな。
震えに倒れそうになっていると、不意にヒスイが僕の肩を優しく叩いた。
「何やってるのよ、立ちなさい」
まったく怯えていないヒスイの声。その声に不思議と恐怖が和らいでくれ、ゆっくりと立ち上がった。隣でアカネも立ち上がる。
「まったく。しつこいわね」
僕とアカネが動揺するなか、ヒスイは額に手を当てて嘆いてみせた。
「しつこい男は嫌いよ」
「あれってネグロよね。でも、なんかおかしくない、これ?」
ネグロの異形な姿に声を上げるアカネ。ヒスイはまだネグロを睨みつける。
「あいつはあいつであって、あいつじゃないわ」
「ーー? どういう意味、それ?」
「これは言わば、〝怨念〟、〝執念〟とでも言えばいいかしら」
平然と話すヒスイを睨むネグロ。体をゆらゆら揺らし、僕らの動きをじっと伺っていた。
「人と鬼が馴れ馴れしい。本当に虫唾が走るっ」
禍々しく呟くと、両手を大きく広げ、爪を存分に伸ばす。
襲われるっ。
解き放たれた殺気に、反射的に腰の剣に手を添える。全快でなくても剣を携帯していたことに安堵した。
病み上がりで自信はないけれど、やるしかないか。
「――?」
覚悟を決めて身構えていると、唐突にヒスイが横に手を伸ばして制した。何か不敵な笑みを浮かべて。
「ふざけるな…… ふざけるな…… ふざけるなっ」
青い眼光で僕らを捉えながら何度も呟くと、ネグロは胸の前で腕を交差する。
より眼光が光を強めたとき、ガタンっと膝を崩して倒れるネグロ。
「ふざけるなっ。クソがっ」
まるで断末魔の叫びみたいな咆哮に首を竦めたとき、ネグロの足元からまた黒い靄が立ち込める。だが、今度は地面からでなく、ネグロの足から靄が昇る。
靄が深まるほどにネグロの体が次第に崩れていく。
「クソがあああっ」
ネグロの咆哮が治まらないままボロボロと体が崩れて靄となり、最後に青い光を残して、その場からネグロは消えた。
残影として薄い靄が微かに舞っているだけ。
「ほんと、怨念とはしつこいわね」
「なんだったの、あれ?」
途方に暮れながら、アカネの疑問が飛ぶ。ヒスイは答えず唇を噛むだけ。
「前に言ったでしょ。私と戦ったとき、こいつは〝贋鬼〟に堕ちて消えたのよ。その執念がより強く残っていたんでしょう。惨めね。死んでも死ねなかったのは」
散ってしまったネグロにヒスイは嘆く。
「これは鬼の成れの果てなのかもね」
ネグロを蔑んでいると思うと、次の瞬間には嘆いているようにも見えた。
ヒスイの話を聞いていると、どこかネグロが虚しくなってしまう。
「…………」
風に吹かれて靄が薄らいでいくと、自然と足が靄に進んでしまう。得体の知れない靄に近づくのは危険だと、胸の奥で騒いでいるのに、足は止まらなかった。
微かに残る靄に近づくにつれ、息が詰まっていく。それなのに意識に反して、手を伸ばしてしまう。
「ちょ、ユラッ。何してんのよっ。意味わかんないのに触っちゃ――」
「止めなさいっ。さすがにそれに触るのは危険よっ」
アカネとヒスイの静止が轟く。
ヒスイが止めるのだから相当なんだろうけれど、手は止まらない。
好奇心で動いているわけではない。どこか本能みたいに止められない。
―― 我慢する必要はない。
刹那、急に頭のなかで女の声が木霊し、体の自由をより奪っていく。
指先が黒い靄にそっと触れた。
「――ダメッ」
あの靄……。




