第7章 5 ―― ヒスイ ――
第八十一話目。
鬼の名前……。
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スピネル。
アカネから放たれた名前を聞いて、落胆する自分が少なからずいた。
きっとどこかでこの鬼がラピスであったのなら、と願ってしまう自分がいたから。
人を育てる鬼がいると知ってしまうと。
そんな簡単なわけがないよな……。
内心、毒づく己を不謹慎だと罵りながらも、アカネの小さな背中に興味が湧いてしまう。
「じゃあ、アカネは鬼に育てられたのか?」
素朴な疑問にアカネはかぶりを振る。
「ううん。実際に育てられたのは私のお母さん。あ、でも言っとくけれど、お母さんも人だからね」
「どういう意味?」
改めて補足するアカネに、鬼が首を傾げる。
「私のお母さんはね、子供ころ孤児だったらしいわ。それで奇跡的に鬼に拾われ、育てられたみたいなの」
「だから、お母さんも人間」
「そうよ。鬼に育てられた人間」
「いつしか、自分の方が年上になったって、お母さん笑ってたけどね」
「――? 何それ?」
急に奇妙なことを言うアカネ。
「坊や、知らないのね。鬼は人間との歳の取り方が違うのよ。時間の捉え方がね。見た目では子供で年齢では人間よりずっと年上、ってこともあるのよ。だから、私もあなたよりずっとお姉さんなのよ」
戸惑う僕に説明する鬼。初めて聞いた話に驚かされる。
やはりあり得ない、とは否定なんてできない。現に僕はラピスという似た境遇の鬼と出会っているのだから。
それでもやはり驚きは隠せない。
「なあ、お前はそのスピネルって鬼を知っているか?」
「あのね。いくら私が鬼だからって、鬼の世界のすべてを知っているわけじゃないわよ」
どこか説教気味に話す鬼に反論できなかった。
「それにしても、やっぱりあなたたちは面白いわね。この町に来て正解だったらしいわ」
戸惑いを隠せないでいると、満足げに鬼は微笑み、その姿にどこか敗北感に襲われ苦笑してしまう。
「でも、まさか驚いた。ラピスのほかに、そんな希有な鬼がいたなんて」
「どういうこと?」
不思議そうに顔を上げるアカネ。
そうか。アカネにはレガートを目指していた理由までは伝えていなかったか。
そこでラピスとの約束の内容を伝えると、アカネは最初ばかりは面喰っていたけれど、しばらくして微笑むと、また寂しげに眉を下げた。
「じゃあ、残念ね。この町にもそんな鬼の気持ちを知ってくれる人がいたかもそれないんだからね」
と廃墟を眺めて嘆いた。
「……そうだな」
同調して頷くしかなかった。
「やっぱり面白いわね、あなたたち。どうしてそこまで他の者に傷心になるのかしら」
あっけらかんとする鬼に呆れてしまう。
「本当にお前は自分本位なんだな。少しは感傷に浸るってことはないのか?」
「感傷? 何それ? それに自由だって褒めてほしいわね。私としては」
「お前なあ」
鬼の身勝手な態度に呆れていると、ふと肝心なことに気づいた。
「そういえば、お前の名前は?」
ここでようやく名前を聞いた。
「あら? 私を口説くつもり? 残念ね。お姉さんは口説けないわよ」
おどける鬼に、もう文句をぶつける気力すら薄れていた。
「ヒスイよ」
頭を抱えてうなだれていると、鬼の穏やかな声が降り注ぎ、顔を上げてしまう。
鬼は銀髪を掻き上げると、満足げに胸を張った。
「だからヒスイよ。私の名前は。光栄に思いなさい。私が名乗るなんてことは滅多にないんだからね」
ヒスイ……。
それまでまったく意識をしていなかったけれど、鬼の名前を知れたことに大きな安心感に包まれた。
「いい名前じゃん」
アカネが屈託なく笑うと、ヒスイは褒められたのが意外だったのか、照れくさそうに頬を掻いていた。
「気持ち悪い」
釣られて頬が緩みそうになると、どこからともなく蔑んだ声が届く。
禍々しくもある声に悪寒が走ると、急に全身から力が抜け、崩れるように膝が地面に着いた。
急にのしかかる圧迫感が体を締めつけ、立つことができず、体が震えてくる。
アカネも同様に両膝を地面に着け、体を抱きしめて震えている。
2人が怯えるなか、ヒスイだけが悠然と立って通路の奥を眺めている。それまでとは変わり、目尻を吊り上げて鋭い眼光で。
恐る恐るヒスイの視線の先を眺めると、通路の真ん中に何か、渦を巻くように黒い靄が集まっていき、靄は次第に昇っていくと、人の形へと集まっていく。
そして、靄は人の姿へと変貌する。
ただそれが普通の人でないことは一目瞭然であり、肌が黒く全身が影に覆われている。
その異形な姿であっても、見覚えがあり、息を詰まらせてしまう。
「……お前、ネグロか……」
ヒスイ……。




