第3章 4 ―― 憎らしい ――
第三十五話目。
きっとこれは危険。
4
ポタンッと赤い滴が岩へと落ち、放射線状に散る。僕もアカネも愕然として声を失ってしまう。
「あ…… あ…… ああ……」
微かにこぼれるボルガの唸り声。見開いた目から次第に瞳孔が小さくなっていく。
「やっと、静かになったかな」
ネグロが安堵した声に、ようやく現実に意識を戻された。
赤い滴はネグロの伸びた爪の先から落ちている。
「さ、邪魔者には下がってもらおう」
ネグロは目を細めると、爪を一気に抜き取る。同時にボルガがその場に力なくその場に倒れた。重力に逆らおうとしないボルガは、そのまま動こうとしなかった。
「お前っ」
我慢できず抜刀した。
「ほら、やっぱりそうなるだろ」
と両手を広げ、悠然とするネグロに、手に力が入る。
「そもそも、鬼の縄張りを犯しているのは人間だ。あたかも世界は人間が頂点に位置する存在だと示すように。だから僕も人間に手を出している」
と、右手を顔の横に上げ、まじまじと鋭い爪を眺めている。
「まあ、僕も人間に対してムキになってしまったらしい。爪は鬼にだけ使うべきだったよ」
血で濡れた爪を払うと、元の長さに戻すネグロ。すると、右手を背中に伸ばし、背負っていた荷物の紐を解くと、一本の剣を取り出し構えた。
「さて、今度はどちらが遊んでくれるのかな?」
剣を肩に乗せ、まったく身構えずない余裕のネグロ。剣を構える僕の後ろで、アカネの異変に気づいた。
アカネは立ち竦んでいる。
呆然とし、うつむきながらネグロに目を合わそうとせず、一向に短剣を構えようとしない。
「大丈夫か。アカネ」
呼びかけると、微かに首を動かすけれど、それ以上動こうとしない。
「……ごめん、動けない」
「動けないって?」
「当然だろうね。恥ずかしがる必要はないよ。鬼を前に硬直するのは必然だからね」
ネグロは納得したように頷き、アカネを擁護する。
「……初めてなのよ。鬼と戦うのなんて」
「だろうね。怯えるのが普通なんだよ」
体を強張らせるアカネに、余裕と手の平を見せて制するネグロ。完全にこちらを見下していた。
「安心しな。それなりに手加減はしてあげるから」
そこでネグロは剣を構え直して口角を上げると、手招きをして挑発する。
それでも動けないアカネの前に立ち、身構えると、こちらも刃を真横にして構えた。
「大丈夫」
右足に力を決めたとき、ネグロの姿が消えた。
空気が揺れたとき光が走る。
すぐさま受け流した。
速い……。
鬼の動きは規則性のない動きをしていた。剣技は頭上から降り落としたと思えば、真横から斬りつけてくる。
金属音が鳴り続ける。
ったく、憎らしい。
目で追うのは疲れる。いや、追うのは恐らく無理。反射的に受けるのが精一杯。
しかし、せめぎ合う間にネグロはこちらを嘲笑しているのがより憎らしい。
完全に弄ばれている。
「やるもんだね、お前は」
どこからともなく聞こえた声に続き、頭上から斬撃が降り注ぐ。すかさず刃を頭上に振り上げる。
重い斬撃がぶつかり合い、より高い金属音が轟くと、ほんの一瞬、斬撃が止まる。
体勢を整えるのに距離を空けたか。
「――っ」
気を抜いたとき、急激に膝から力が抜けてしまい、片膝を着いてしまう。咄嗟に剣を地面に刺して体勢を支えた。気づけば肩で息をしている。
思った以上に体力を奪われているみたいだ。
「――ユラッ」
急にアカネが声を荒げると、「大丈夫だ」と手を上げて制した。すると、目の前にネグロが姿を現す。
こちらとは裏腹に平然と立ち、まったく疲れた様子もなく、余裕に胸を張っている。
ったく、どれだけ丈夫なんだよ。
ネグロは勝利を確信したのか、剣先をこちらに向けた。
大きく溜め息をこぼした。
「やはり、力の差は歴然だったみたいだな。もう遊ぶのも疲れたからね。楽に殺してあげるよ」
悠然とした断言に、耐えきれずに嘲笑してしまう。
「何がおかしい?」
「だって、そうでもないからさ」
静かに返すと、ネグロの持つ剣を指差した。
刹那、ピシッと亀裂音とともに、刃が真っ二つに割れて落ちた。
そして、ネグロの額から赤い血が流れる。
強気でいく。




