第二部 第四章 9 ―― 愚弟 ――
第百四十七話目。
空気が違う。
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それまで張り詰めていた空気の質が変わった。
なぜだろう。オヤジ様を前にしても、気が楽になって体が軽い。
それほどまでに、ユラが異質で脅威であったのか、と痛感させられる。
自分の気持ちに複雑になっていると、オヤジ様の大あくびが広がった。完全に戦意が消えている。
もう私を見ていないらしく、大槍を肩に乗せ、本堂に体を向けた。
「ヒスイ」
すでに自分のことは眼中にないのだ、不甲斐なさに情けなくなっていると、唐突にオヤジ様は私の名を呼んだ。
「お前は混血についても聞いていたな。だが、本当にワシは混血については知らん。混血と会ったのも奴が初めてだ」
「オヤジ様?」
「ただ、ワシの感覚だが、奴は迷っているように見えた」
「迷っている? ユラが?」
「ワシも上手くは言えん。だが、奴は人間としてか鬼としてか、どちらの道を進むべきなのかをな」
「それって、ユラが鬼になることもあり得ると? そんなこと」
「気持ちの上でだ」
意外な反応に唖然となってしまう。オヤジ様がユラに対して本音を言っている。
「あの子娘の意思が現れたのは、ワシにはわからんしな」
小娘? さっきのベリルとか言っていた声? 小娘。もしかしてあの曇った声って、修羅だったの?
「ナイル、後は任せた」
もっと深く聞きたかったけれど、オヤジ様の背中に問いかけるだけの勇気はまだなかった。
オヤジ様に問いかけることもできず、本堂に入っていく背中を眺めるだけで。
不意に溜め息がこぼれた。体を縛りつけていた鎖が一斉に解けたみたいに体が軽くなる。
ようやくユラが立っていたところに顔を向けれる。
草むらは血で汚れている。
やはり、俊敏に動けるような状態ではなく、一連の動きを信じられなくなった。
一体、ユラはどこに。
疑問はあり、そばに行こうとするけれど、体が動いてくれない。
もぞもぞと上体を起こそうとしていると、私の前にナイルが立つ。
今度はこいつと一戦、か。
「大丈夫ですか、姉上」
面倒くささに首を竦めていると、ナイルは私のそばに寄り、肩に手を回す。
「今すぐ姉上も治療を。父上との戦いでは、傷もすぐには回復しないでしょう」
ここは強がる余裕もなく、成すがまま身を起こした。
「ここでの治療はいいわ。手伝ってくれるなら、近くに村はない? そこまで送ってくれる。村でユラのことを待っている子がいるはずだから」
「ここに残らないのですか?」
ナイルの肩に腕を回していると、ナイルは惜しむように呟くと、苦笑した。
「私がここに残ると、オヤジ様が嫌がるでしょう。それに早く帰らないとあの子が心配するだろうし」
「そんなことはないですよ」
「どうだろ」
心配? だったら、私はここまでケガなんかしてないわよ。それにしても。
「別にそんな改まらなくてもいいわよ。昔みたいに気さくに喋りなさいよ」
ナイルとの会話でずっと気になっていることがあった。私に対して敬語を崩さない。どうも気になり、むず痒かった。
「いえ。私は姉上に一度負けた身。当然のことです」
「ったく。強情ね。まあいいけど」
こいつも見た目と違って意地っ張り。これ以上言っても無理ね。
「あ、それと姉上」
呆れていると、ナイルは改まり、
「もし、修羅を捜しているのであれば、気をつけてください。噂程度ではありますが、〝兵〟たる鬼がいるかもしれないとのことです」
「兵? それってオヤジ様以外で?」
「ええ。明確な情報ではないのですが、そんな話があります」
「でも、ただの噂でしょ」
「ですが、修羅の出現がない場所での強者の話ですので、耳に入れていただければ、と。父上もこの鬼に関しては知らないようなので」
そこで警戒心を深め、眉をひそめるナイル。
「いいの? そんなこと言って、オヤジ様が許さないかもよ」
「この話は止められていませんので」
茶化してみると、ナイルは平然と笑ってみせた。
従順に見せかけて。強がることもあるのだから、大したものね。この愚弟も。
「では、村までお送りします」
「ええ。さすがに今日はお願いするわ」
今日だけはナイルの厚意に甘えた。
それにしても、オヤジ様と同等の鬼がいる。嫌気が差すわね。ほんと。
終わったの……?




