第二部 第四章 7 ―― 籠った声 ――
第百四十五話目。
あり得ない。
7
何が起きたのか、まったく理解できない。
ユラが立っている。
あり得ない。
オヤジ様が温情で気を抜くなんてことはない。娘である私にも手を抜かない。人間であるユラにだって、全力で攻めていたはずだ。
だったら、悔しいけれど、生きているはずがない。
完全に私はユラが生きていることを諦めていた。自分でも信じられないほど、ユラが生きていることが嬉しいはずなのに。
何かが違う。
オヤジ様は大槍を回して刃をユラに向ける。敵意を発して。
それはオヤジ様なりの敬意。
だけど、本当に立っていられるの? あれだけの傷――。
オヤジ様の手違いということじゃない。ユラの体は血で染まっている。それで立っていることが信じられない。
「ふんっ。面白い」
オヤジ様の口調が鋭くなる。忘れかけていた警戒心が体を縛り、動けない。
けれど、オヤジ様の気迫とは違う。地を這い、身を削られそうな仰々しさが漂っている。この冷たさは……。
恐る恐るユラを眺めた。
「……やっぱり」
ユラの姿を捉えたとき、驚愕や恐れよりも、先に襲うものがあった。
納得してしまう。
ユラの足元から、体を黒い靄が発生しており、静かに体を纏おうとしていた。
瞬きを忘れている間に、靄がより濃くなる。
なぜだろう。黒い靄がどこか、ユラの後ろで佇んでいるように見えてしまう。
黒い靄が修羅の姿になって、重なっているみたいで。
「ほお。これが噂の黒い靄か。さて、どんなものか」
と、オヤジ様は大槍を横に振り、身を屈める。
先ほどまでとは違う、本気の構えに映った。
「ダメッ。油断しないで、オヤジ様っ」
オヤジ様が力で劣っているなんて思っていない。それでも制止せずにはいられない。
私の体が訴えているんだ。今のユラは危険だと。
「人間の分際で、贋鬼のつもりか」
嘲笑したとき、ユラの靄が深まり、地面を蹴った。
ユラから仕掛けた。
口角を上げるオヤジ様。怯むことなく地面を蹴る。
互いの刃が甲高い音を鳴らして交わる。すぐさま刃が弾かれると、休む間もなく次の一撃に移る。
刃がぶつかるたびに、突風が起きたみたいに私に襲い、辺りの草木を激しく揺らした。
オヤジ様は手を抜いてなんていない。あの大槍の一撃を受けていて、剣の刃が負けていないなんて。
あのランスって坊やの剣、それほどの名刀ってこと。
一歩も引くことのないユラを見ていて、息を呑んだ。
違う。
すべてを全身で受け止めてなんかない。足元を見てもそう。オヤジ様の力を受けていれば、地面がめり込んだりして、力に負けて膝を曲げていてもいいはず。
それがなく、軽々と動いている。
目を凝らしていると、その違和感に気づいた。
ユラは大槍を受けているのではなく、流していた。刃を受ける間際、刃を流して力を流して分散させていた。
黒い靄の影響。と唇を噛んでいると、ユラは大槍を足で蹴って弾く。
瞬間、初めてオヤジ様がよろめき、後ろに下がる。オヤジ様と距離が開くと、ユラの靄が全身を覆った。
……まただ。
息を呑むと、影の輪郭が変わる。
あのとき、ネグロの贋鬼と戦って時と一緒。
「やってくれるな、人間」
オヤジ様は一度銀髪を掻き上げ、嬉しそうに口角を上げる。
瞬きをした瞬間、オヤジ様は距離を詰め、大槍をユラに向けて振り切った。
これまでにない勢いと力。大抵の者は逃れるはずがない。
またしてもユラの血が…… 飛ばない。
大槍が地面にめり込んでいる。
ユラはっ。
「――っ」
大槍がより地面にめり込む。大槍の柄にトンッと足が乗る。
地面にめり込んだ大槍の上にユラが立ち、身を屈めつつ右手で剣を構える。
でも、どこかがおかしい。
ユラを纏っていた靄が深くなり、影の輪郭が変わっていた。どこか小柄な女の子の姿みたいに。
前にもこんな感じがあった気が。
「ダメッ。そのままではっ」
数時間前、私が似た体勢で攻めたけれど、腕を掴まれたそのときと一緒。
不安が押し潰すなか、オヤジ様が左手を伸ばす。
だが、オヤジ様の左手は宙を掴む。
ユラはっ。
ユラは大槍の柄を蹴り、後ろに跳ぶ。
オヤジ様の腕を回避した瞬間、剣を逆手に握り直すと、オヤジ様に投げつけた。
投げつけ?
剣士が剣を投げたことに唖然としていると、金属音が鳴り響く。
一度体を回転させて着地するユラ。投げつけた剣は宙で回転している。
オヤジ様が弾き飛ばした?
オヤジ様は左腕を横に振り切っていた。指の爪を伸ばしている。
嘘でしょ。爪を伸ばすなんて。それだけの実力なの?
ややあって、オヤジ様は爪を戻すと、顔の前で握ったり開いたりを繰り返す。
最後にギュッと握ると、禍々しい目でユラを睨む。
赤い眼光をより光らせて。
ユラはオヤジ様の気迫を無視し、回転して落ちる剣を掴むと、剣先を向ける。
「なかなかやるわね、オーデル」
黒い影から籠った声が響いた。
……声?




