第二部 第三章 10 ―― 誉 ――
第百三十三話目。
オヤジ様。
10
一気に肩に大きな岩を乗せられたみたい。
肌に刺す視線を浴びながら部屋に入り、オヤジ様の前に回ると、そのまま正座して頭を下げた。
返事はないけれど、しばらく固まってしまう。
「ふん。最低限の礼儀は持ち合わせていたようだな。何もせずに話しかけてきたのなら、すぐに殺していたものだ」
床に額をつけたまま、苦笑を堪えられなかった。
「よく言うわよ。いきなりナイフを投げてきたくせに」
顔を上げ、口角を上げた。
ようやくオヤジ様と正面と向き合うこととなった。
全身浅黒い肌をした、恰幅のいい体格。オヤジ様の後ろに座ったナイルとは対照的な体格であった。
髪は私らと同じく銀髪で、ナイルほど長くはないが、後ろで束ねていた。
「どうした? 久しぶりに会ったせいで、親の顔も忘れたか?」
「まさか」
眉が太く、彫りも深い。大きな目は赤いのが特徴の顔。
笑っていても、威厳のある顔に息が詰まる。
ナイルがキツネみたく鋭さがあるのなら、オヤジ様は狼のごとく、全身から殺気が滲み出していた。
オーデル。
もし修羅に匹敵する兵を選ぶとするのならば、この鬼しかいないと思えるだけの存在。
それがオヤジ様。
手には酒を酌んだ猪口を持ち、傍らには酒瓶が置かれている。
悠然とした姿であっても、油断すればすべてを呑み込まれてしまいそうな策罰とした雰囲気を漂わせていた。
また、背中の壁にかけられた三日月型の刃をした大槍がある。オヤジ様の武器であり、異様な大きさがより強さを際立たせていた。
「――で、何をしに帰ってきた?」
酒を一口飲んで聞かれ、苦笑した。大丈夫。少しは緊張が緩んでくれている。
「冷たいわね。久しぶりに可愛い娘が帰ってきたのよ。少しは労ってくれてもいいんじゃない」
少しは気が楽になり、いつもみたく嫌味が出てくれた。
すると、オヤジ様は顎髭を擦り、マジマジと私を観察してくる。
「負けた腹いせに親に八つ当たりでもしに来たか?」
「――っ」
咄嗟に左頬を手で隠した。修羅に負けた青い痣を隠すために。
フンッと鼻で笑い、
「悪かったわね。どうせ、私は修羅に負けたわよ」
青い痣は鬼にとっては烙印でしかない。気づかないはずもないわね。
「ふん。別に構わん。修羅に負けることは恥ではない」
「あら、やけに寛容なのね。もっと罵倒されると思っていたわ」
予想外の反応に呆然としていると、オヤジ様は酒を新たに注ぎ、飲み干していく。
オヤジ様は猪口を眺めながら、
「恥じるべきは、修羅に挑むこともせず、逃げることだ。鬼の境地を全うしない、腰抜けの方がな。それに比べれば、堂々と生きているお前は恥じることはない」
なんだろ。オヤジ様に言われると、肩の荷が軽くなった気がして、痣をなぞってしまう。
「でも、私は負けて生かされている。それだったら、潔く殺されていた方が鬼としての価値はあったように思えるけれどね」
話しながら修羅との一戦が頭をよぎり、自虐的に嘲笑してみせた。
「ほお、それは珍しいな。それこそ恥じることはない。もしかすれば、お前は修羅に認められたのかもしれん。力にしろ、意志にしろ、な」
「私に?」
「そうだ。その痣は烙印ではない。誉と思え」
誉。
なんだろ、心臓をギュッと締めつけられた衝撃に息が詰まる。それでいて、体が熱くて軽かった。
不思議な感覚の意味が知りたくて、視線を動かすと、満足げに口角を上げるオヤジ様。その後ろでは、真剣な表情で頷くナイルの顔があった。
そっか、私って褒められたんだ。
修羅に負けたことをずっと恥じていたけれど、そうじゃないと言われ、嬉しかったんだ。
でも。
左頬の痣をポンポンと叩いた。
こんなことで笑えば、それこそオヤジ様に罵倒されるでしょう。そんな弱みは見せるわけにはいかない。
「さすがオヤジ様。修羅と戦って、ずっと引き分けている身ですこと」
これが私にとって最大の嫌味をぶつけた。
誉、か。




