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アイリスの目覚め

私はどうにか生き延びた。今は、それだけで十分だと言い聞かせるしかない。でも、キース…彼は無事なのだろうか?あの暗闇で共に過ごした彼の姿が頭から離れない。


丸3日も眠り続けていたと聞かされ、体がまだ重たいながらも、なんとか父のもとへ向かった。事の顛末を伝えながら、胸の奥で疼く痛みに耐える。ラザフォード父様が私をじっと見つめ、深い声で言葉をかけてくれた。


「すまん、私が一緒にいれば…お前だけでも助かって、本当によかった。」


その言葉が、心に深く染み渡る。父様の顔には憔悴が見え、悔しさが滲んでいたのが分かった。私を守ろうとしてくれたこと、そして、その想いが私に届いた瞬間、嬉しさと同時に胸の奥が鋭く刺されたような感覚が広がる。


“もし父様が一緒にいてくれたなら、兄様も母様も今ここにいたかもしれない…”


そう思わずにはいられなかった自分が、そして、その想いが父上を悲しませるかもしれないと気づくと、ますます言葉が出せなくなった。どれだけ耐えようとしても、溢れる涙を止められず、ただ静かに父様の言葉を心に刻むしかなかった。


父様の声が、いつもより少し低く震えながら響いた。


「私にはもう、王でいる資格がなくなる。跡継ぎを失った今、権力者たちは一人、また一人と私から離れ、次第にアドラのもとに流れている。お前の叔父…あのアドラが王位を継ぐことになれば、魔族領は…」


言葉が詰まる父様の表情に、見ているだけで胸が締め付けられた。眉間には深い皺が刻まれ、かつて見たことのない苦悩と悲しみがそこには浮かんでいた。あの冷静で強い父が、これほどまでに脆く映るのは初めてだった。


「…あの人間嫌いのアドラが王になる。そうなれば、必ず戦争が起きるだろう」


静かな声に、重く沈む覚悟がにじみ出ていた。父様は視線を外し、床を見つめるようにして拳をぎゅっと握りしめている。その手はわずかに震えていて、ただの言葉ではない、現実として迫る脅威がそこに宿っていた。アドラ叔父様の顔が脳裏に浮かぶ。彼の鋭い眼光、人間を蔑む冷酷な声──もし彼が王となれば、魔族領は大きく変わる。人間とのわずかな平和の道も途絶え、血の海が広がる未来しか見えない。


「でも、お前が生き延びてくれただけで十分だ」


その言葉に父様の温もりを感じながらも、同時に胸がえぐられるような痛みが広がる。私が生き延びたことで、ただ一縷の希望が残ったというのか?ならば、兄様と母様がもし生きていたら、こんな悲しみは避けられたのかもしれない──そんな思いが胸に募り、目頭が熱くなってくる。


父上は私を見つめ、まるで自分を責めるような表情をしている。その目の奥には、失った家族への痛みが深く刻まれているのがわかった。両手を肩に置かれた瞬間、その震える指先に父様の無言の悲しみが伝わってきて、どうしようもなく涙がこぼれそうになる。


「アイリス…私は王なのかも知れないが、1人の父親でもあるんだ、本当に、良かった。」


父様の言葉はまるで自分自身に言い聞かせるようで、しかしその声がどこか虚ろに響いた。私のための安堵がそこにあると同時に、家族を守りきれなかった痛みが滲み出ている。その全てを受け止めるには、私の胸は小さすぎて、ただ静かに涙がこぼれそうになるのをこらえるしかなかった。


震える手が私の肩から離れたとき、そこに残るぬくもりが、これ以上ないほどに儚く、同時に力強いものだった。


私は、心の奥に燃え上がる決意を抱いて、父様に静かに告げた。


「戦争を避けるため、そして…サミュエルとラゼル、あの男たちを探し出すために、私はアルトゥールとして生きることに決めました。20歳の戴冠式までに、母様と兄様を奪った大元の犯人を見つけ出します。彼らがアルトが生きていると知れば、必ず私の前に姿を現すはずです。」


父様は、私の覚悟を受け止めるように、じっと黙って私を見つめていた。言葉には出さなかったが、その眼差しには複雑な感情が揺らめいているのが感じられる。それでも、彼の瞳の奥には、私の選んだ道を受け入れ、見守ろうとする決意が宿っていた。


「お前がその道を歩む覚悟を持ったのなら…私も全力で支えよう。だがな、、」


父様の低く静かな声が、まるで私の決意をさらに強めてくれるかのように響いた。彼の支えを胸に、私はもう一度気持ちを引き締め、心に誓った。家族を奪った仇を見つけ出し、そしてこの悲しみの連鎖を止めるために──私はアルトとして、力強く生きていくのだと。


父上は、深くため息をつき、静かに首を横に振った。その表情には、抑えきれない複雑な感情が浮かんでいた。


「だがな、アイリス…お前は女の子なんだ。どうしてそんなに、自分を犠牲にしようとする?」


父上の声は、どこか震えていた。私の決意を知りながらも、彼はその覚悟を受け入れることができないようだった。そして、その瞳には深い哀しみと、娘を思う温かな愛情が滲んでいた。


「お前は女の子として生きていいんだよ。無理にアルトの役を背負う必要なんてない。お前自身の幸せを追い求めても…誰もそれを咎めたりはしないんだ。」


父の声が、胸の奥まで響いてきて、心が一瞬揺らいだ。父上の言葉には、あふれるほどの愛が込められているのがわかった。彼は私を守りたい、ただ娘として幸せになってほしいと願っている。それが痛いほど伝わってきて、胸が締め付けられるようだった。


しかし、兄様と母様を奪われた記憶が頭をよぎり、再び決意が蘇る。私には、どうしても叶えなければならない使命がある。けれど、父上のその言葉があまりに優しくて、涙がこみ上げてくるのを抑えきれなかった。


「でも…でも、父様。私は…」


それでも、言葉を詰まらせる私に、父上はそっと肩に手を置き、優しく微笑んだ。


「お前が誰かを愛して、添い遂げたいと思うなら、その道を選んでもいいんだよ。幸せになってほしいと…父はそれだけを願っている。」


その言葉が、私の胸に深く突き刺さり、心の奥が熱くなった。父上は、私がどれほどの覚悟でこの道を選ぼうとしているか、理解してくれている。それでも、娘として幸せになってほしいと願っているのだ。涙をこらえきれず、目を伏せる私の手を、父上が優しく包んでくれた。そのぬくもりに、私は一瞬だけ、自分の強がりが揺らぐのを感じた。


私は、重く深い決意を抱えて父上をまっすぐに見つめ、言葉を静かに紡いだ。


「私は…女を捨てます。」


その一言が、まるで刃のように私自身を貫いた。口に出した瞬間、胸の奥で何かがひび割れるような痛みが広がる。それでも、兄様と母様の仇を討ち、この魔族領を守るためには、この決意を揺るがすわけにはいかないのだ。


父上は驚いたように目を見開き、私の言葉の意味を噛み締めるように沈黙した。温かい愛情と哀しみの入り混じったその眼差しが、私の心をさらに揺さぶってくる。しかし、私はその視線を避けることなく、むしろ強い決意を込めて父上を見つめ返した。


心の奥底で、小さな声が静かに囁いていた。


──あの時、彼と過ごした夜のひと時で、私の中の女としての心は満たされたのだ。あの濃厚で切ない瞬間、私の全てを捧げたような気がしている。彼に対する想いを胸に抱きながら、私の中で何かが終わり、同時に新しい何かが始まったような感覚だった。


私の中で封じられたアイリス・ヴァン・エクリプスとしての女の心。それはあの夜、彼の腕の中で一度燃え尽きたのだ。


──もし再び彼に会える日が来るなら、それは私がこの使命を全うし、兄様と母様の仇を討ったその後であってほしい。その時までは、私の中の女は、眠りにつくべきなのだ。私の愛した彼と再会するまで、私の心はアルト・ヴァン・エクリプスとして生き続ける。


父上の表情が、哀しみと葛藤に満ちていくのがわかる。彼は娘をただ幸せにしたい、そう願っているのだろう。その愛情が痛いほど伝わってくる。けれど、今は彼の期待には応えられない。私の運命は、この道の上にあると信じているからだ。


「…お前が本当にそれを望むのならば、私は何も言えない。しかし、心のどこかで、1人の女として幸せになることもできるのだと、忘れないでほしい。」


父上の声はどこか震えていて、彼の想いがまっすぐに伝わってきた。その言葉に、私は一瞬だけ目を伏せ、胸の中で燃え上がる切なさを飲み込んだ。


もう一度顔を上げた時には、私の決意が揺るがないことを伝えるため、強い眼差しで父上を見つめ返していた。


そして次の日、宮廷の広場には重々しい雰囲気が漂っていた。王宮の大きな扉が開かれ、冷たく張り詰めた空気の中、人々の注目が一点に集まる。やがて、父上が緩やかに歩み出ると、その周りには重臣や侍従が厳粛な表情で立ち並んでいた。


父上が一歩、また一歩と壇上に向かい、王族の威厳を保ちながらも、どこかその背中には哀しみの影が滲んでいた。彼の目には深い憔悴が刻まれ、誰が見ても彼の心の痛みを感じ取れるほどだった。


静寂が広がる中、父上の力強い声が響き渡った。


「数日前、アイリス・ヴァン・エクリプス姫と、我が妻マーラ王妃が、旅の途中で命を落としたことを皆にお伝えしなければならない。」


その一言が告げられると、広場には深い沈黙が落ちた。瞬間、群衆の間から抑えきれない悲鳴やすすり泣きが漏れ始める。父上の声には、あらゆる想いが込められていた。彼の言葉一つ一つが、哀しみと後悔、そして息子と妻を失った痛みで紡がれていた。


「彼女たちの喪失は、我が家族にとって何よりも深い悲しみである。しかし、彼女たちの記憶は、皆の心に永遠に残り続けることを願っている。」


父上は一瞬、静かに目を伏せ、再び人々に視線を向ける。まるでその眼差しが、彼の愛する家族への祈りと誓いを込めているかのようだった。そしてその場には、エクリプス家が残された深い喪失の痕跡と共に、新たに進むべき道が刻まれていくようだった。

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