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出会い

数日が経ったのか、それとももっと長い時間が過ぎたのか、もうよくわからない。ただ一つ確かなのは、この廃墟の牢の中で、私は一人ただ朽ちていく自分を見つめているということだった。


腕を動かす気力すらない。冷たい石の床に背中を押し付け、ひび割れた天井をぼんやりと眺めていた。そこから射し込む光は薄く、ぼんやりとした灰色の空だけが見える。外の風の音が遠く、かすかに耳に届くたび、その冷たさが皮膚を刺すように感じられた。


胸の中に押し込めた声が漏れたのは、そのときだった。


「兄さん……母さん……ごめんなさい……」


声はひどく掠れて、ただの吐息に近い。言葉ですらなく、もはや音と呼ぶべき代物だ。だが、誰も聞いていないこの牢の中では、それで十分だった。声の届く相手などいないことは初めからわかっている。それでも、口にしなければ胸が裂けてしまいそうだった。


何も聞こえない空間が、ただ私の言葉だけで満たされる。そう感じた瞬間、静寂が嫌でも意識に重くのしかかる。冷たい空気が肺に突き刺さり、呼吸がひどく苦しい。


ふと、視線を足元へと移した。


裸足のまま牢に放り込まれた足は、いつの間にか感覚を失い、黒ずんでいた。指先は変色し、触れても何の痛みも感じない。そこにあるのは、もはや自分の一部ではないような感覚だった。ただの物体。


「こんなものか……」


自然と笑みが漏れた。


おかしなものだ。ここまで苦しんだというのに、死にゆく自分を見つめるこの瞬間には、どこか諦めに似た安らぎがあった。まるで、他人事のようだった。


けれども、笑っているのは口元だけだ。胸の奥では、確かに何かが疼いていた。痛みがないのに、痛い。いや、それは「痛み」ではない。ただ、自分の心そのものが壊れていく音を聞いているかのようだった。


――温かかった日々の記憶が、今になって浮かんでくる。


兄様が微笑んでいた。母様が優しく手を握ってくれた。あの時間が、何よりも幸せだったはずなのに、それを守れなかった無力な自分を思い出すと、胸の中が重くのしかかる。


「まだ……消えたくない……」


小さな声が、薄暗い空間の中に染み渡るように広がった。


その声は頼りなく、震えていた。けれど、確かに心の奥底から出た言葉だった。震える声に込められた思いは、冷たい空気の中で小さな火花となって瞬いた。


けれども、その火花が周囲を暖めることはない。手足の先から冷え切った体が、いずれその灯すらも飲み込んでしまうだろう。


それでも――それでも、私はまだ消えたくなかった。胸の中で燃え続ける炎の残り火が、小さな抵抗として私を突き動かす。


しかし、冷たい現実は容赦なくその思いを打ち砕く。

背中に感じる石の冷たさが、まるで命を吸い取る底なしの沼のように私を覆い尽くすのだった。


その小さな呟きは、誰に届くこともない。それでも、胸の奥でかすかに残る炎が、自分の意志をかすかに灯し続けていた。


気づけば、凍える体を震わせながら、私は必死に祈っていた。兄と母の笑顔が思い浮かび、もう一度、彼らの仇を討つために生き延びたいと願う気持ちが、私の心を支え続けていた。


私は微かな物音を聞き、朦朧とした意識の中で耳をそばだてた。足音が近づいてくる。そして、冷たい声が響いた。


「まだ生きているか?よかったな、餌だ」


その声に、かすかに眉をひそめた。誰かが来た——だが、その声は冷たく、私に対しての慈悲など微塵も感じられなかった。ただ見下すような嘲りに満ちていた。


人間を連れてきたらしいが、振り返る力ももう出ない。体は凍え切っていて、感覚がほとんど麻痺している。指先が黒ずんでいくのをただ眺めているだけの私に、反応する余裕など残されていなかった。


その女——は、足音を響かせて立ち去ろうとしていた。その背中が見えなくなるのを感じると、かすかな声で、心の中で呟いた。


「こんなところで……終わりたくないのに……」


その願いがどこに届くのかもわからない。ただ、心の中の小さな炎が消えそうになりながらも、最後の希望として揺らめき続けていた。


もう声も出せない、呼吸すら浅く、体は冷たさに包まれている。このまま消えてしまえば、兄さんや母さんに会えるのかもしれない。そう思うと、少しだけ心が楽になった気がした。


目を閉じると、ふと兄さんが私の頭を撫でてくれているような感触が蘇る。懐かしい。あの優しい手、温かくて、私を安心させてくれた兄さんの手だ…。嬉しくて、やっと会えたんだと思うと、涙が滲んだ。


その時、かすれた声が耳に届いた。


「だい…じぶ?」


その声は、人間のものだった。小さな子どもの声で、優しく問いかけてくる。信じられない。ここで誰かが私を気遣ってくれるなんて。冷たくなった頬にふと温もりを感じ、目を開けると、小さな手が震えながらも私の顔に触れていた。


その手が、私の顔をそっと撫でている。まるで、消えゆく私を留めようとしているかのように。小さな手の温かさが、凍えた体にじんわりと広がっていく。


私は感覚のない体を、最後の力を振り絞って、抱きついた


か細い声で願うように言った。「ありがとう...」10歳になり、誰かに触れられたことなんてほとんどないけれど、今はその温もりが欲しかった。冷え切った体に、人の温かさが恋しくてたまらない。


彼は迷いもせず、私をそっと抱きしめてくれた。その小さな体が、震えながらも私を包み込んでくれる。震える手で背中を摩り、少しでも私を温めようと必死になっている。その心の温かさが、私の胸に染み渡っていく。


このまま、彼の温もりに抱かれて、私は消えてしまってもいいかもしれないと思った。冷たい闇の中に差し込む、小さな光のようなその子の存在が、私の心にそっと火を灯してくれた。


温もりに包まれ、安らぎを感じた瞬間、私はふと自分がここで終わってはいけないという思いが胸に湧き上がった。兄様と母様の無念を晴らすため、生き延びなければならない。

そしてこの、私と変わらない歳の子の命を借りる事で、少しでも生き延びられるのなら...。


震える唇で、彼に囁いた。


「許して、ごめんなさい」


そう言うと、私は生まれて初めて、男の人の首に唇を当て、そっと噛みついた。温かな血液が口の中にひろがり、その味は甘く、優しさに満ちていた。

この子の命が私の中に流れ込んでくる。

その中に映し出される記憶ーー家族を失い、村が炎に包まれる様子。

目の前で友達や仲間が次々に討たれていく惨状が、鮮やかに私の心に刻み込まれていく。

絶望の中で捕らえられ、叫ばないように喉を潰され、声を奪われる、その悲惨な彼の記憶が、私の内に重くのしかかる。


「ひどい.....人族が人族を....私と同じだ.....」


私は気付かないうちに涙が溢れていた、こんな苦しみと悲しみ、耐えられない。

彼もまた、私と同じように全てを失い、絶望の中で生きる意味を探していたのだ。

その思いが私の中に染み渡り、彼がどれほどの苦痛を抱えているかを知った。


彼の心に触れた事で、私は単なる生き延びる意志だけでなく、彼の痛みを背負い、彼と共に生き延びる決意が湧いてきた。

彼の温もりを奪う代わりに、私は彼の痛みと共に歩むことを誓った。


私の体は少しずつ、息を吹き返し、生き延びるための力を彼から授かったのだった。


その子は声にならない声で、震えるように囁いた。


「僕を全部あげるから、君は生きて……」


その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられるような痛みが走った。こんな絶望の中で、自分の全てを捧げてまで、誰かを生かそうとするなんて……この子は兄さんと同じだ。なんて優しい子なんだろう。その無垢な優しさが、私の心に深く突き刺さる。


私は心の奥から湧き上がる決意と共に、自らに誓った。この子も、絶対に助け出してみせる。彼の未来を、絶望で染めさせはしない。彼の優しさに応えるためにも、私は彼を生かし、この地獄から連れ出さなければならない。


決意が固まった瞬間、私は自分の下唇を噛み、温かな血が口の中に広がるのを感じた。そして、そっと彼の唇に口づけ、自分の血液を流し込む。その赤い命が、彼の中で新たな力となり、彼を支えるように願いを込めて——。初めてだから恥ずかしい、でも嬉しい


「私も君に、生きる力をあげるから。」


彼の体がかすかに反応し、唇の端に少し色が戻るのが見えた。私の血が、彼の中で息づき、彼の体に少しずつ温もりを取り戻させているのを感じた。


彼の震える手を握りしめながら、私は再び誓う。この子の痛みと共に歩むこと、彼を決して見捨てないこと。そして、私が絶対に生き延びて、兄や母の無念を晴らし、彼と共に新たな未来を手にすることを。



そう、眷属にするにはお互いの血を交換し、混ぜ合わせる必要がある——そのことだけはお父さんから聞かされていた。ヴァンパイアの血を分け合うことで、永遠に近い絆と命のつながりが生まれるのだと。


今、目の前にいるこの小さな子。彼の命の重さと優しさを知り、彼の心に触れた私は、彼と共に生き延びるための手段があるのだと気づいた。私自身の血を彼に与え、彼からも血を受け取ることで、眷属として互いに結ばれる。こうすれば、彼にも生きる力が宿り、私も少し長く生きられるかもしれない。


ゆっくりと、私は彼の手を握り、決意を込めて小さな囁きを口にした。


「……ごめんなさい。でも、これで私たちは……生きる力を分け合えるの」


震える手で自らの手を傷つけ、赤い血がにじむのを見つめる。そして彼の手にもそっと傷をつけると、二人の血が交わり、混ざり合っていくのを感じた。


お互いの血が交わった瞬間、私たちの命がつながり、新たな力が体に宿るのがわかる。彼の小さな体に温もりが戻り、私の体にも生気が蘇る。私は彼の手をしっかりと握りしめ、温かさを感じながら、彼と共に生きる決意をさらに強めた。


「これで、もう少し……生きられるかもしれない」


弱々しいけれど、確かな未来への希望が胸に灯るのを感じた。私たちは互いに支え合いながら、この絶望の中から一歩ずつ前へ進むんだと。



私たちは、生き延びるためにお互いの血を口から口へと分け合い続けた。何度も唇を重ね、その温かい血液が私の体に流れ込むたびに、かすかな力が蘇るのを感じた。彼もまた、私の血を受け取りながら、少しずつその頬に色を取り戻していく。


何日が過ぎたのか、もはや時間の感覚もなくなってしまった。けれど、この日々が私にとって忘れられない特別な時間になっていくのがわかる。絶望の中で芽生えた、わずかな希望と温もり。この小さな子が、私にとって愛おしい存在になっているのだと、改めて感じる。


彼の小さな手が私の背中を支え、震える指でそっと撫でてくれる。その優しい仕草が胸に響き、思わず微笑んでしまう。彼の体温が、かすかな命の鼓動が私の中に染み込み、今だけは何も恐れなくてもいいと思えた。


「このままずっと……この子と一緒にいられたら」


そんな思いが心の奥から湧き上がる。もし、この絶望の牢獄で消えていく運命だとしても、この子となら……そう思うと、不思議と心が安らいでいく。

何度も何度も唇を重ねた

私は彼の温もりを感じながら、目を閉じて囁いた。


「ずっとこのままでもいい。この優しい子と……もし消えるのなら、一緒に……」


彼との繋がりが、私にとっての全てになりつつある。そして、その温もりに包まれながら、私たちは新たな一歩を踏み出すために静かに誓い合うように、互いに血を分け合い続けた。


「私は、アイリス……あなたは?」静かに、でも精一杯の力を込めて、私は問いかけた。ずっと一緒にいて、互いの命を分け合ってきたこの子に、名前を知りたいと願った。


「キース……」彼は小さな声で答えた。その声はかすれていて聞き取りにくいけれど、心に響く優しさがあった。その一言で、私はこの子に強く惹かれるのを感じた。彼の存在が、私にとってかけがえのないものになっていると、深く気づかされる。


私もキースも、まだ子供だ。けれど、この感情——もしこれが恋というものなら、きっとこれがそうなのだろう。彼と分かち合った時間、互いに支え合ったこの瞬間が、私の胸に刻まれて消えることはない。生きる時間が限られていることを理解しながらも、私の心は彼に寄り添っていた。

何度も唇を重ね、何度も名前を呼び合って....


それでも限界は来る、どんな生物も、血液だけでは生きてはいけない

こんな世界に生まれて、10年ほどしか生きていないけれど、それでもちゃんと異性を心から好きになれたと折り合いをつけ


最後に、私の心に溢れる想いを伝えたくて、震える声で言葉にする。


「キース、あなたを愛しています......」


その言葉を口にした瞬間、力が尽きて意識が遠のいていく。けれど、私の心は温かい。彼に想いを伝えられた、その事実だけで、私は安らぎを感じながら静かに気を失った。


冷たく静まり返った牢獄の中、遠くから誰かの声が微かに聞こえてきた。


「お?おったで、ヴィクター!」


力強く響くその声が、静寂を切り裂くように伝わってくる。誰かがこの場所にいる——そう理解するまで少し時間がかかった。凍りついた体と朦朧とした意識の中で、ぼんやりとその声の方へと意識を向けた。


足音が響き、近づいてくる。薄暗がりの中、二人の影がぼんやりと見え、次に低く冷静な声が聞こえた。


「子供が……2人か。そっちの子が捜索対象だ」


ヴィクターと呼ばれる男が私たちを見下ろし、その言葉に確信を込めていた。まるで生きるための灯火を見つけたような声だった。私は薄く目を開け、その男たちの姿をかろうじて視界にとらえることができた。視界の中で、彼らは私たちを救おうとしているようだったが、疲れ切った体は動く気配もなく、ただぼんやりと彼らを見つめるしかできなかった。


リカルドと呼ばれるもう一人の男が、私たちの顔をじっと見つめ、ふと口を開いた。


「この子ら、生きてますか?えらい幸せそうな顔してまっせ」


その言葉に、私の胸にかすかな温もりが広がった。私とキースが共に過ごした時間が、たとえどんなに辛いものであったとしても、彼らの目には「幸せ」に見えたのかもしれない。その言葉が、私の心に小さな光を灯してくれた。


ヴィクターは、リカルドの言葉にため息をつき、冷静な口調で言った。


「余計なこと言ってないで、早く助けるぞ」


その言葉が合図となり、二人が私たちの体をそっと抱き上げる。ヴィクターの腕に抱かれた瞬間、温かいぬくもりが体に染み渡っていく。凍りついた心と体が徐々に解けていくような感覚に、私は思わず涙が滲んだ。救われる——その安堵感が、凍えていた私の心をじんわりと包み込む。


キースもまたリカルドに抱き上げられ、その小さな体が震えながらも安らぎに包まれているのがわかった。私たちは互いの血を分け合い、命を支え合ってきた。その温もりを共有した相手が、今も私の隣で安らいでいることが、何よりも心を救うようだった。


意識が薄れていく中、私は微かに、心の中でキースの名前を呼んだ。


「キース……」


その名前を胸に秘めながら、私は安心したようにヴィクターの腕の中で目を閉じた。この絶望の中で巡り合った優しさと温もりを心に刻み、救いの手に自らの身を預けた。

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