色を取り戻した世界
1年生の頃、私は常に俯いていた。
ひんやりと冷たい大理石の廊下を歩くときも、騒がしい教室で席に座るときも、目を上げることが怖かった。耳には他愛もない会話や笑い声が絶え間なく届くのに、その輪に入れない自分が嫌でたまらなかった。
周りの生徒たちの華やかな笑顔や軽やかな足取りが、まるで私には手の届かない別世界のもののように思えた。
視界にはいつも白っぽい光が広がり、学園の景色はぼんやりとしたモノクロームのようだった。孤独で、寂しくて、何もかもがつまらなかった。
教室の窓から外を見ていると、秋風に揺れる木々の葉がはらはらと舞い落ちていた。
その鮮やかな赤や黄色でさえ、私の目には色あせて見えた。まるでその景色が私に「お前はここに必要ない」と告げているようで、胸が締め付けられるような気持ちになった。
そんな日々の中で、彼女――ルシアン・ダークウッドと出会った。
ある日、昼休みにふと図書室に立ち寄ったときのことだった。
静寂に包まれたその空間で、一冊の本を手に取る私の耳に、柔らかい声が届いた。
「その本、面白いよ。私も好きなんだ。」
声の主を見上げると、そこには淡い銀髪に長い耳を持つエルフの少女が立っていた。
彼女の瞳は琥珀色に輝いていて、何かに怯える私の心を不思議と和らげてくれるようだった。彼女の笑顔は、とても自然で温かかった。
「……ありがとう。」
それが、私の口から出た唯一の言葉だった。
彼女――ルシアン・ダークウッドは、その日から少しずつ私の隣に座るようになった。最初は「隣にいてもいい?」と聞かれ、そのたびに小さく頷くだけだったけれど、彼女は気にする様子もなく微笑んでくれた。
彼女と一緒にいると、いつも周りから聞こえていた笑い声が遠ざかり、私たち二人だけの世界が広がるようだった。その静けさが心地よくて、次第に彼女の存在が私の日常の一部になっていった。
ある日、ルシアンが私を誘って学園の庭へと連れ出してくれた。
空気は少しひんやりしていたが、秋の日差しが心地よく、風に乗って甘い花の香りが漂っていた。そんな環境の中、彼女はぽつりと呟いた。
「ここ、好きなんだ。孤児院にいた頃はこんな広い庭なんてなかったから。」
その言葉に私は驚き、彼女を見つめた。孤児院育ちだったこと、そして滅びたサイ国の生き残りであることを初めて知ったからだ。
「でも、もう過去のことだからね。」
彼女は笑顔で言ったが、その笑みの奥には何か深いものが隠れているように感じた。
「私も……ずっと一人だった。」
その言葉が自然と口をついて出た。自分でも驚いたが、彼女の存在が私に言わせたのかもしれない。
「そっか。」
ルシアンはそれ以上何も言わず、ただ隣に座って空を見上げた。その沈黙は、いつもと違って心地よいものだった。
その日から、私の世界が少しずつ色を取り戻していった。
教室のざわめきも、窓から見える景色も、以前よりも鮮やかに感じられるようになった。
ルシアンが生徒会長に選ばれたとき、私は本当に嬉しかった。
彼女の持つ魅力と強さが、みんなに認められたのだと誇らしく思った。そして驚いたのは、彼女が私を副会長に推薦してくれたことだった。
「アンジェラならきっとできるよ。」
そう言って微笑む彼女の言葉に、私は胸がいっぱいになった。
そのことを長期休暇中にお父様に報告したとき、少しだけ期待していた。
「頑張ったな」と褒めてもらえるんじゃないか、と――。
だが、返ってきたのはあまりにも簡潔な言葉だった。
「来年は会長になれよ!」
その言葉に、一瞬心が冷えたような気がした。褒めてもらいたかった。もっと認めてほしかった。けれど、すぐにそれはお父様なりの期待の言葉だと気づいた。
今、私はルシアンと共に歩んでいる。
彼女がくれた新しい日々の中で、少しずつ前を向けるようになった。生徒会副会長として過ごす日々は簡単ではないけれど、彼女が隣にいてくれるだけで、私はどんなことにも挑戦できる気がする。
「アンジェラ、行こう!」
ルシアンが笑顔で私を呼ぶ。その声が私に力を与えてくれる。
孤独に閉じこもっていた1年生の頃の私には、この景色は想像もできなかった。
そして今日から2年生だ、初日は肝心だ
扉の前で立ち止まり、手の中の鍵を握りしめた。
その冷たい金属の感触が、指先を通して心にまで染み渡る。今日から始まる新しい日、2年生としての初日、そして副会長としての初めての本格的な一日――そんな期待と重圧が、私をこの場所に縛り付けているようだった。
(アルト殿下の動向を探れ。そして、弱みを握れ――。)
父アドラの声が、昨日の夜からずっと頭の中で反響している。
その冷たく重い声が、私の心を何度も締め付ける。父の命令は、これまで一度も逆らったことがない。それは当然であり、私が「アドラの娘」として生きる上で避けられないものだった。
でも今回は――。
「……私にそんなことができるの?」
私の声は、冷たい朝の空気に溶けて消えた。
だけど、その問いは心の中で繰り返されていた。私は副会長だ。この学園を守り、生徒たちのために働くのが私の役目。それを裏切る行為なんて――。いや、それ以上に、自分自身が許せない。
深く息を吸い込んで、鍵を差し込む。金属音が静寂を破り、扉がゆっくりと開いた。
いつもと変わらない部屋。窓から差し込む朝日が机の上の生徒会バッジを照らし、その金色の輝きが目に飛び込んできた。その輝きは責任と誇りの象徴であり、同時に私が負うべき重荷を思い起こさせるものでもあった。
私は机に近づき、バッジを手に取る。
冷たく、硬いその感触が、指先に静かに伝わってくる。胸元にそっとバッジを留めると、鏡に映る自分と目が合った。
整えられた制服、丁寧に結んだリボン――けれど、その瞳にはまだ迷いが浮かんでいる。それでも、瞳の奥にかすかに見える小さな光は、私が信じたいと願うものだ。
「私は……私の信じる道を進む。」
自分に向けた呟きは、まるで自分を奮い立たせるための呪文のようだった。
その言葉を胸に刻み、鏡の中の自分に小さく頷く。少しだけ心が軽くなった気がした。
(今日から私は2年生。そして、副会長として……。)
私は歩きながら、自分の中にある誓いを確認するように言葉を重ねた。
1年生の頃、私は孤独だった。誰とも話さず、ただ日々をやり過ごすだけ。その辛さを誰よりも知っているからこそ、同じ思いをしている生徒を絶対に見過ごさない。それが私の使命だ。
「私が、誰かの助けになれるなら……。」
その言葉は、心の中にしっかりと根を張る。
父の命令に従わないことへの罪悪感はまだ完全に消えていない。けれど、私の中にはそれ以上に大きな信念があった。自分の選んだ道を進むという信念が。
窓から差し込む朝日が、私の胸のバッジを照らしている。その金色の輝きが、私の背中を押してくれるように感じた。
「今日からは、誰もが安心して過ごせる学園を作る。それが私の役目。」
胸の中でそう誓いながら、私は廊下を歩いていく。
冷たい空気はまだ頬に触れているけれど、それを嫌だとは思わなかった。むしろ、それが私の中の決意をさらに強くしてくれる気がした。
これからの学園生活に何が待っているのか、それはまだ分からない。
けれど、私は私の信じる道を進む。それがどれほど困難で険しい道だとしても――。私はその道を、私らしくまっすぐ歩いていくつもりだ。胸に光るバッジと、心に宿した信念とともに。
よし、行こう!2年生初日。私は緊張した面持ちで寮の扉に手をかけた。外の空気が微かに感じられる、その隙間から初日の新鮮な香りが漂ってくる。緊張を押し殺しながら、私は小さく深呼吸をした。
(大丈夫、大丈夫……普通に過ごせば、きっと平穏な学園生活が送れるはずよ。)
扉をそっと押し開けると、視界に飛び込んできたのは、私の予想を大きく裏切る光景だった。そこには、見知らぬ二人の少女が静かに立っていた。いや、それだけではない。彼女たちはあまりにも似ていて、まるで鏡に映った自分を見ているような錯覚を覚えるほどだった。
「おはようございます、アンジェラお嬢様。」
二人は声を揃えて深々とお辞儀をした。その動きは機械のように正確で、指先から足元までがぴたりと揃っていた。その完璧さに、思わず私は一歩後ずさる。
「えっ……びっくりした、だ、誰?」
思わず口をついて出た言葉は、動揺を隠しきれないものだった。
目の前に立つ二人の少女を、私は改めてまじまじと見つめた。まず目に飛び込んできたのは、彼女たちの特徴的な耳だった。銀色の光沢を持つ耳が、二人の頭の上にピンと立っている。それはまるで、月の光をそのまま形にしたかのような美しさを湛え、ふわりとした淡い毛並みが揺れていた。
そして、その耳と同じく美しい銀髪が腰まで流れ落ちている。毛先にいくほど淡い青のグラデーションがかかっており、揺れるたびに光を反射して幻想的な輝きを放つ。陽の光を浴びたその髪はまるで透明感を増し、柔らかなシルクのように見えた。
双子の瞳は、氷のような冷たさを持つ蒼。その瞳は私をじっと見据え、どこか全てを見透かすような鋭さを感じさせる。それでいて、どこか憂いを帯びた美しさも宿していた。長い睫毛に縁取られたその瞳は、見る者を釘付けにしてしまう。
二人はそれぞれ異なるデザインのリボンを頭につけていた。右の少女は大きな黒いリボン、左の少女は赤いリボン。それがなければ、彼女たちを見分けることは到底不可能だっただろう。
それだけではない。彼女たちのスタイルもまた、驚異的だった。華奢な体つきながらも、どこかしっかりと鍛えられた印象を与えるその肢体。整ったラインの制服がぴったりとフィットし、曲線を美しく際立たせている。まるで、彼女たち自身がその制服を完璧に着こなすために存在しているかのようだった。
「私たちは――」
右側の少女が口を開いた。
「四狂星フェンリスの娘――」
左側の少女が続けるように話した。
「ムーレアと――」
「モーレアです。」
二人の声は、まるで一本の糸で結ばれたように完璧に調和していた。そのハーモニーには不思議な威圧感があり、私の背筋を凍らせるものがあった。
「この度は――」
「アドラ様のご命令により――」
「アンジェラ様の――」
「そば付きメイドとして――」
「派遣されてきました。」
二人が揃って再びお辞儀をした。今度はより深く、まるで頭を床に擦りつけるかのような完璧な礼だった。
私はその場に立ち尽くし、ただ二人を見つめるしかなかった。彼女たちの圧倒的な存在感に呑まれそうになる。
(メイド……そば付き……?私に?)
頭の中がぐるぐると混乱する。父――アドラの差し金だということは理解できた。だが、どうしてここまで完璧な双子を私に送り込む必要があるのだろう?
「えっと……よろしく……?」
私がようやく絞り出した言葉に、二人は再び顔を上げた。その瞳には不思議な光が宿っていた。
ムーレアは一歩前に出て、にこりと笑った。だがその笑みには、どこか冷たさが滲んでいる。
「アンジェラお嬢様、どうぞご安心ください。私たちがここにいる限り、どんなことがあってもお守りします。」
モーレアもすぐに続く。
「はい、何があっても。お嬢様のために命を懸ける覚悟でおります。」
その言葉は、どこか私を縛りつけるような重みを感じさせた。二人の存在が、私の自由を奪う鎖となるような予感を抱かせる。
(なんだろう、この感じ……。)
双子の姉妹――ムーレアとモーレア。彼女たちは美しさと威圧感を兼ね備えた、私にとって初めての存在だった。私はまだ知らなかった。この二人が私の学園生活に大きな影響を与えることになることを――。




