アイリス・ヴァン・エクリプス
ラザフォード領は、まるで絵画の中にいるような穏やかさに包まれている。柔らかい陽光が地面を優しく撫で、澄んだ空気には花の香りがわずかに混じっている。その空気を吸い込むたび、心の奥底まで温かくなるような安心感が広がる。この国は、人間と魔族が共に手を取り合い、互いを支え合いながら暮らしている特別な場所だ。そしてその中心には、私の家族がいる。この国を導き、守り、幸せを紡ぎ続ける私の家族。彼らがいてくれるから、私はこの国を誇りに思える。
けれども、今、私の目の前には、その穏やかな空気をほんの少しだけ切り取ったような静寂がある。
お父様
私のお父様、ラザフォード・ヴァン・エクリプス。魔族の王として、この国の礎を築き、人間と魔族が共存できる未来を実現させた、強さと温かさを兼ね備えたお方。公務の場では冷静で威厳に満ちた姿を見せるけれど、家族の前ではまるで別人のように柔らかい笑みを浮かべる。その笑顔は私たち家族にとって、何よりも安心できる光だ。
「家族が一番大切だ。」
そう言って微笑むお父様の言葉を、私は何度も耳にしてきた。その言葉は嘘偽りのないものだと、お父様の姿を見ていればわかる。どれだけ公務が忙しくても、家に戻ってきたときのお父様の笑顔には、確かな愛情がこもっているからだ。
けれど、家にいるお父様を見られる時間は決して多くはない。国を治めるという重責を担うお父様は、常に忙しく、時折、人間国へ赴くこともある。そんなお父様の背中は、どこか遠い世界にいるようで、幼い頃の私は少し寂しく感じていた。今では、お父様がどれほどの覚悟でこの国を守っているのか、少しだけわかるようになったけれど、それでもやっぱり、お父様がもっとそばにいてくれたらと思わない日はない。
今回もまた、お父様は公務でラザフォード領を離れる。人間国の新しい王、レオナード3世の戴冠式に招かれていたけれど、国の事情で出席することができなくなった。その代わり、私と母様、兄が、お父様の代理として人間国に向かうことになった。
「アイリス、アルト、お前達に任せたよ。」
そう言ってお父様が微笑む姿は、どこまでも頼もしく、そして少し寂しげだった。私たちを信じて送り出してくれるその眼差しに、私は誇りを感じると同時に、いつものようにほんの少し胸が痛んだ。お父様のようになりたい、そう思いながらも、どこかで甘えたい気持ちが消えないのだ。
母様と兄
お父様に見送られ、旅立ちの準備を進める中で、ふと母様と兄の姿が目に入る。母様は落ち着いた手つきで支度を整えながらも、柔らかな微笑みを絶やさない。その微笑みはまるで陽だまりのように私を包み込み、どんな不安も溶かしてしまうようだった。母様はいつもそうだ。お父様のように厳しさや威厳を振りかざすことはないけれど、その存在はどこまでも温かく、揺るぎない。私にとって母様は、家庭というものの象徴だった。
一方、兄はお父様によく似た鋭い眼差しで荷物を点検している。その姿は、少し前までの私にとって「完璧すぎて近寄りがたい」存在だった。でも今は違う。兄がどれだけ私を大切にしてくれているのかを知り、彼の背中がどれだけ心強いかを知っている。兄のそばにいるときだけ、私は少しだけ自分に自信が持てる気がする。
旅立ちの前、私たちが乗る馬車の前で、お父様が最後にこう言った。
「自慢の子供達だ、きっと大丈夫だ。私は信じている。」
その言葉が、私たちを送り出す儀式のように響いた。その瞬間、お父様の背中が遠ざかるのを感じながら、胸の奥に小さな熱が灯るのを感じた。お父様の代わりを果たす――その責任の重さが心にのしかかる一方で、家族としての誇りが私を支えていた。
ラザフォード領を後にする馬車が揺れ始める。振り返れば、お父様が静かに見送っていた。その姿が小さくなるにつれ、私は胸の中でそっと呟いた。
「頑張ってくるね、お父様……」
母様、マーラ。
その名を思い浮かべるだけで、胸の奥がぽっと温かくなるような安心感に包まれる。母様は、いつも優雅で、どこか遠いおとぎ話の中の存在のようだった。その姿勢ひとつひとつが、どこまでも上品で美しく、家族全員をそっと包み込む柔らかな光のような存在だ。
私が幼い頃、夜寝る前になると、母様はよく魔法の絵本を手にして私の隣に座ってくれた。その光景を思い出すたび、今でも瞼の裏に浮かぶ。
「今日はどんな物語がいいかしら?」
母様の柔らかな声が、眠る寸前の私の耳に心地よく響く。
「冒険のお話がいい!」
そう言う私に、母様は穏やかに微笑み、絵本を膝の上で開く。その瞬間、母様の指先が淡い光を放ち、魔力が絵本のページを優しく照らし出す。何の変哲もない文字と絵が、母様の魔法によって動き出し、立体的に浮かび上がる。そこには、青い空にそびえ立つ城や、美しい花畑で戯れる妖精たちが現れた。
私の目は、まるで夢を見るようにそれを追いかける。そして物語が進むたび、母様の声が登場人物たちに命を吹き込み、彼らの世界を私の目の前に広げてくれた。物語の中に入り込んだような感覚に、心が踊り、安らぎを感じていた。
「アイリス、あなたもいつか大きくなったら、この領地を支える素晴らしい人になるのよ。」
母様が最後にそう言って、私の髪を優しく撫でてくれたことを、今でもはっきり覚えている。その言葉は、私にとってのお守りだ。どれだけ迷い、不安に苛まれても、あのときの母様の声と微笑みを思い出すだけで、心が前を向く。
その優しさと強さを持つ母様は、私の理想そのものだ。
兄様――アルトゥール王子。
私にとって、兄様は「憧れ」という言葉がそのまま形になった存在だ。賢く、優しく、そして強い。兄様と一緒にいると、どんなときでも安心できる。それだけでなく、私もいつか兄様のように誰かを守れる存在になりたいと思う。それが私の目標であり、夢だ。
幼い頃、兄様はよく私の頭を優しく撫でてくれた。その手はいつも温かく、大きく、どこか安心感を覚える感触だった。兄様は私が魔法の練習をしているときも、そばで見守ってくれていた。
「その構えじゃ少しバランスが悪いぞ。ほら、足をもう少し広げて。」
兄様の声が、私の背中をそっと押してくれる。失敗しても、兄様は決して笑わず、怒ることもなく、ただ優しく教えてくれる。その眼差しには、私への信頼と期待が込められているようで、私はもっと頑張らなくてはと思った。
時には一緒にふざけ合うこともあった。兄様が冗談めかして「こんな風にやるんだぞ」と失敗するふりをしてみせると、私は思わず吹き出してしまう。その瞬間、兄様もつられて笑い出し、私たちの声が空気を震わせる。そのひとときがどれだけ幸せだったか、今でも鮮明に思い出せる。
一度だけ、兄様が私の手を取って言ったことがある。
「アイリス、いつか俺が王様になったときは、お前が支えてくれよな。」
そのとき、兄様が見せた微笑みは、どこか誇らしげで、でも少しだけ寂しそうだった。それを見た私は胸がぎゅっと締め付けられ、「はい!」と大きく頷いたのを覚えている。兄様を支えること。それは、私にとって何よりの誇りであり、使命だと思った。
兄様がいれば、どんな未来だって怖くない。だからこそ、私はいつか――いつか兄様を守れるくらい強くなりたい。そう、心の中で何度も誓ったのだ。
馬車が静かに揺れながら、ゴトン、ゴトン、と小さな振動を伝えてくる。その音が耳に心地よく響き、窓の外にはラザフォード領の美しい風景がゆっくりと流れていく。広がる緑の草原、遠くの小高い丘、そしてその向こうに見えるラザフォード城の尖塔。どれも見慣れた景色なのに、離れていくと少しだけ胸が締めつけられるような寂しさを覚える。
「いつも、ここにいたいな……」
心の中でそう呟くけれど、馬車は止まらない。もう戻ることはできないという現実を突きつけられるようで、私の胸にぽっかりと小さな穴が空いた気がした。
けれども、ふと視線を横に向けると、母様が優しく微笑んでいた。その笑顔は、冷たい風をも暖かく包み込むようで、心に灯がともるような安心感を与えてくれる。その瞬間、私の中にあった不安の欠片が、少しずつ溶けていくような気がした。
「アイリス。」
母様は私の髪をそっと撫でながら、柔らかな声で囁くように言った。
「あなたがこうして少しずつ成長して、家族を守ろうとしてくれている姿を見ると、本当に誇らしいわ。」
その言葉に、私は驚きと嬉しさが入り混じったような気持ちになった。母様の手はとても柔らかくて温かくて、まるで私の中の小さな不安や迷いをそっと溶かしてくれるようだった。触れるだけで、どこかで凍りついていた心がほぐれるような気がする。
「ありがとう……母様。」
そう言うのがやっとだった。それ以上の言葉は、胸の中に溢れているのに、うまく形にすることができない。でも、母様は私の表情を見るだけで、すべてを分かってくれているような気がした。
そのやりとりを見ていた兄様が、少しからかうような声で口を開く。
「じゃあ、アイリス。頼もしい護衛として母様をちゃんと守ってくれよ。」
その声は軽い調子だけれど、その瞳には本気の期待が込められているのが分かる。私はその言葉が嬉しくて、胸を張って答えた。
「もちろんだよ!兄様が次の王様になるまで、私が絶対に母様を守るんだから!」
自分で言いながら、少しだけ恥ずかしい気持ちにもなったけれど、兄様が頼もしそうに私を見つめてくれるその表情に、胸が熱くなるのを感じた。それが、私の小さな誇りに繋がる気がしたのだ。
馬車は進み続け、ラザフォード領の風景が次第に遠ざかっていく。その代わり、窓の外には初めて目にする景色が広がり始めた。小さな村の穏やかな佇まいや、旅人が行き交う道。そのすべてが新鮮で、どこか心を躍らせる。
馬車の中では、母様と兄様の話が絶えなかった。兄様が道中で見かけた小さな出来事を面白おかしく話してくれると、母様が「それは本当なの?」と笑いながら相槌を打つ。その声に釣られて、私も思わず笑ってしまう。
「こんな感じで道中が楽しいなら、人間国に着くのが少し楽しみだな。」
兄様が冗談めかしてそう言うと、母様が微笑みながら「でも油断してはダメよ」と優しくたしなめる。そのやりとりを聞きながら、私はふと窓の外に目を向けた。
広がる景色の中に、見知らぬ土地とこれから始まる新しい時間を感じる。心の奥底では少しの不安もあるけれど、母様と兄様が隣にいてくれることが、何よりの支えになっていた。
「私も、いつか二人を守れるくらい強くなりたい。」
心の中でそっとそう誓う。その思いは、幼い頃から少しずつ胸の中に積み重ねてきたものだった。兄様と母様がいれば、どこへ行っても怖くない。どんな困難が待っていても、きっと乗り越えられると思える。
けれども、いつか――。
いつか私が、二人を守る存在になりたい。誰かに頼られるだけではなく、頼られる人間になりたい。馬車の中で揺られながら、私は小さく拳を握り、心の中でそう強く誓った。
揺れる馬車とともに、私の心にも小さな希望が芽生えていた。この幸せがいつまでも続くことを願いながら――。
馬車の中での温かなひとときが、まるで夢のように遠ざかっていく。それがどれほど尊く、儚いものだったのか――そのときの私はまだ知る由もなかった。
馬車が揺れる音とともに、風が冷たさを増しているのを感じた。その寒さは、ほんの少し前までの笑顔に包まれたぬくもりを奪い去るようだった。
突然――何かが切り裂かれる鋭い音が耳を打つ。
「何……?」
驚きに息を飲む間もなく、次の瞬間、馬車の外から聞こえる鋭い叫び声と、耳をつんざくような金属音があたりに響き渡った。それは、剣が交わる音。そして、風を切る音とともに、矢が馬車の窓枠をかすめ、鋭い「シュン」という音を立てながら木々へ突き刺さった。
恐怖に支配され、瞬時に体が硬直する。心臓が荒れ狂うように脈打ち、耳元で脈動が響く。目の前の空間が歪み、時間が引き伸ばされているような感覚に陥った。その一瞬一瞬が永遠に続くかのようだった。
馬車が激しく揺れ、アイリスは座席にしがみついた。次の瞬間、乾いた音とともに馬が嘶き、車輪が軋む鋭い音が耳を突き刺す。揺れるたび、転がったランタンが小さな光を壁に乱反射させ、揺らめく影が馬車の中で不気味に踊った。外から聞こえるのは、金属がぶつかり合う耳障りな音と、怒声、馬の苦しげな鳴き声――その全てが恐怖を増幅させる。何が起きているのか、わからない。ただ胸の奥で心臓が破裂しそうなほど乱暴に跳ねていた。
息をするのが苦しい。呼吸をすれば冷たい空気が喉を塞ぎ、全身が固まるような感覚がアイリスを押しつぶす。
「……母様……何が……?」
震える声が喉の奥で掠れたその時、アイリスの目の前に母様が動いた。いつも優しく微笑む母様が、何か決意を秘めた険しい顔で、アイリスとアルトを力強く抱きしめた。普段の柔らかな温もりとは違う――それは、切実で重たい温もりだった。
「アイリス、アルト……愛してる。いい?よく聞きなさい――」
母様の低い声が静かに響く。その声には震えも、迷いもなかった。だが、アイリスの胸にはその言葉が重く刺さった。「愛してる」という言葉が、何か恐ろしいものを予感させた。抱きしめる腕の力が強すぎて、痛いくらいなのに、不思議と逃げたくはなかった。逆にこの温もりに縋りついて、ここから動きたくないとすら思えた。
「振り返らずに、まっすぐ森の方へ走るのよ。さぁ、早く!」
母様が押しつけるように背中を叩いた。アイリスは呼吸を詰まらせながら母様を見上げる。その目には涙はなく、強い光が宿っている。でも、その光の奥に、何か遠いものを感じて、アイリスは喉が詰まるような感覚に襲われた。
行かないで。
そう叫びたいのに、声が出ない。
「……母様……!」
震える声でその名を呼んだ瞬間、母様は振り返らずに馬車の扉を開けた。冷たい夜風が馬車の中に吹き込み、血と鉄の匂いが鼻を突く。その匂いに吐き気を感じながらも、目を見開いたまま動けなかった。母様が馬車から飛び出す瞬間、その後ろ姿が月明かりに一瞬だけ浮かび上がる。
その小さな背中が、戦いの渦中に消えていく。
「行きなさい!」
母様の声が夜に響く。その声は怒りでも焦りでもなく、私たちを守りたいという切実な願いそのものだった。強く、力強いその声が、アイリスの耳に刺さる。
「この家族に指一本触れさせない……私が相手です!」
毅然とした母様の声が響くたび、アイリスの胸が締め付けられる。外から聞こえる剣戟の音、怒号――その全てが、母様がたった一人で戦っていることを突きつけてきた。足が震える。冷たい汗が手のひらを濡らし、目の前がぼやける。
兄様が腕を掴み、「行くぞ!」と引っ張る。けれど、アイリスは動けなかった。動きたいのに、母様の背中が消えるその瞬間を見届けたくなくて、目を閉じられなかった。
お願い、母様……どうか無事でいて……!
心の中で叫ぶ。でもその願いが届くとは思えなかった。母様が外に出た瞬間から、その背中が戻ってこないことを本能的に理解していた。
「早く……!」兄様の声が響く。アイリスは震える足を無理やり動かして、兄様に引っ張られるまま走り出す。耳には、ずっと母様の声が残っていた。毅然として強い、けれど切ないその声が、森の中に響き続けているようだった。
涙が止まらない。母様を置いて走ることが、どれほど辛いことか。無力な自分が情けなかった。母様の背中を守れる力が欲しかった。
母様の最後の言葉が、冷たい夜風に乗ってアイリスの耳に届いた。
「愛してる。」
その声が遠ざかる中、アイリスは祈るように走り続けた。後ろを振り返ることだけは、絶対にできなかった。
必死に何かを叫んでいる――私の名前を、何かを。それが何だったのか思い出そうとするが、その声は寒風にかき消され、もはや届かない。ただ、その姿が視界の端で揺らめいた。
「アイリス!」
鋭い声が耳元で響き、私は我に返った。兄様だ。次の瞬間、兄様の手が私の腕を掴み、強く引っ張った。その力に抗うことすらできず、私は兄様に抱き込まれるようにして地面へと倒れ込む。冷たい土の感触が背中に伝わり、草と湿った土の匂いが鼻をついた。
「じっとして!」
兄様の低く震えた声が耳に届く。その声には、いつもの頼もしさとは違う、かすかな恐怖が混じっていた。
目を開けると、目の前に兄様の背中がある。その広い背中が、まるで壁のように私の前に立ちはだかり、守ってくれているのだとわかった。けれど、その背中がわずかに震えていることにも気づいてしまう。その震えが、私の心に鋭い痛みを与えた。兄様だって怖いのだ。強く見える兄様が、今この瞬間、どれだけ恐怖を抱えているのかを思い知らされた。
「兄様……」
喉の奥から絞り出すようにその名を呼ぶ。でも、その声は震え、かすれ、まともに届かない。それでも、何かを伝えたくて、私は震える手を伸ばした。冷え切った私の指先が、兄様の背中に触れる。
その瞬間――兄様が振り返った。
目が合う。兄様の瞳は深く揺れながらも、私を見つめるその目には必死な決意が宿っていた。瞳の奥で燃える光は、小さな火種のように、寒さと恐怖を押しのけようと力強く輝いていた。
「大丈夫だ、アイリス。俺が守る。」
その声は震えを押し隠しながらも、私を守り抜くという強い意志に満ちていた。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で張り詰めていた糸がぷつりと切れるような感覚が走った。
恐怖と安心感が入り混じり、涙が止めどなく溢れそうになる。けれど、兄様のその目を見ていると、涙を流すことすらためらわれた。彼の強さを信じたかったし、彼に信じてもらえる私でありたかった。
しかし――矢がまた一筋、鋭い音を立てて風を切る。木々の影から現れた黒い人影が、馬車を囲むように近づいてくる。鋭い金属音が再び響き、馬のいななきとともに馬車が激しく揺れた。冷たい空気が刃のように肌を切り裂き、汗ばむ手のひらが土の冷たさと混じり合う。
「兄様……どうして……こんなことに……」
言葉にならない問いが胸の奥で渦巻く。ここは私たちの国ではなかったのか? この穏やかな時間は守られるはずではなかったのか?
その答えを知ることができるのは、いつになるのだろう――。
「大丈夫だよ…アイリス。」
兄様の言葉が、凍りついた時間を溶かすように、優しく耳元に響いた。その声は、今にも崩れてしまいそうな私の心をそっと包み込むぬくもりを持っていた。
兄様の瞳が私を見つめる。その奥に、ほんのわずかな揺らぎを感じた。恐れなのか、不安なのか、それとも他の何か――はっきりとはわからない。でも、その揺らぎの中にも、深く澄んだ愛情と、揺るぎない決意が確かに宿っていた。それが私に伝わった瞬間、胸の奥が熱くなり、冷たい恐怖に縛られていた心が、少しずつ解かれていくような気がした。
兄様がそっと手を伸ばし、その指先が私の頬に触れる。冷たくて、ひんやりとしているのに、不思議と温かさを感じた。それは、彼が伝えようとしている想いが、指先を通じて確かに私に届いていたからだと思う。
「僕が守るから。」
兄様の声は穏やかで、でもどこか悲しげだった。彼の手のひらが頬に触れたまま、微かに震えている。それでも、その震えを押し隠すように、兄様は私をさらに強く抱き寄せた。冷たい風が吹き抜ける中、その腕だけが私の盾となり、壁となってくれている。
その腕の中で感じるのは、兄様の強い決意――そして、その奥に秘められた恐怖と不安だった。震える指先、かすかな息遣い、それらすべてが兄様の葛藤を物語っている。それでも、兄様は立ち止まらない。私のために、前を向き続けている。
「もし…何かを成すために僕が生まれてきたのだとしたら……」
兄様の声が震え、途切れ途切れに紡がれる。
「今、この瞬間、アイリスを守るために僕はここにいるんだ。」
その言葉に、胸が締め付けられるような切なさを覚えた。その声には、兄様自身に課した宿命の重さが滲み出ていた。彼の中でどれほどの恐怖と絶望が渦巻いているのか――想像するだけで、私の心も痛みで引き裂かれそうだった。それでも、兄様は私を守ろうとしてくれている。それだけが、今の私にとって唯一の希望だった。
私は必死に兄様の腕の中にしがみつき、彼の服をぎゅっと掴む。泣きたくて、泣きたくてたまらない。でも、泣いてはいけないと思った。それが、兄様をさらに追い詰めてしまう気がして。
「兄様……お願い、こんなことしないで……」
震える声で、祈るように訴える。しかし、その言葉が届く前に、兄様の指がそっと私の唇に触れた。
「アイリス、泣かないで。」
兄様の囁きは、胸が張り裂けそうなほど優しく、どこか儚かった。瞳の奥に宿るのは、覚悟と、そして私への深い愛情。その目を見ていると、何も言い返せなかった。ただ、涙が頬を伝ってこぼれ落ちるのを止められなかった。
兄様はもう一度私を見つめ、微笑んでくれた。その微笑みは、どこか諦めの色が滲んでいて、けれども、それ以上に深い愛と安らぎを私に与えてくれるものだった。
「アイリス、ずっと一緒だよ、何も怖がらなくて大丈夫だ。」
兄様の声が途切れる。その最後の言葉にかすかな震えが混じり、それが胸に刺さった刃のように痛かった。
兄様は私をそっと抱き上げ、ゆっくりと立ち上がる。その腕はまだ強く、私を包み込むように守ってくれている。
「大丈夫、大丈夫……」
兄様が何度もそう囁く。その声が少しずつ弱くなっていくのを感じた。兄様の抱きしめる力が徐々に解けていく。それでも、私はその腕の中で何もできず、ただその温もりを感じ続けることしかできなかった。
兄様が私を地面に降ろし、立ち上がった背中を見たとき、私は言葉を失った。
彼の背中には、数十本の矢が深々と刺さっていた。刺さった矢の中には折れたものもあり、血が静かに滴り落ちている。それでも、兄様は立ち続けていた。私の前に、最後まで揺るがぬ壁として立ちはだかってくれている。その姿が、どれほど強く、そしてどれほど悲しいものだったか。
兄様がもう一度振り返り、私に微笑む。その微笑みは、これまで見たどの笑顔よりも優しくて、そして――儚かった。
「大丈夫だよ……アイリス。」
その声が、私の胸の奥に深く刻み込まれ、永遠に消えることはなかった。
「兄様が――あああっ!」
アイリスの叫びが、冷たい森の静寂を引き裂いた。それは痛みと絶望に満ちた叫びだった。凍てついた風がその声をかき消そうとするかのように吹き荒れ、彼女の髪と涙を無情にさらっていく。
目の前には、数十本の矢を背に受けたまま、横たわる兄の姿。彼の背中が静かに上下することも、かすかな息遣いが聞こえることもない。ただ、そこにあるのは――動かない彼の身体だけだった。
「あ……兄様……兄様ぁ……」
彼女の声は喉の奥でかすれ、言葉にもならない。ただその震えた言葉は、冷たい空気の中で虚しく消えていくばかりだった。
震える手を伸ばす。兄様の頬に触れると、そこには冷たさが広がっていた。それは、兄様が確かにそこにいるはずなのに、もう遠い存在になりつつある現実を突きつける冷たさだった。
「いや……いや、兄様……こんな、こんなこと……」
視界が涙で滲み、兄様の顔が歪んで見える。彼の肌は冷たいのに、触れた指先に残る温もりだけが彼の命があった証のようで、どうしても手を離すことができなかった。
地面に跪き、兄様の胸にしがみつく。そこに耳を押し当てるようにして、微かな心臓の鼓動を探す。けれど、聞こえてくるのはただ冷たい静寂だけだった。
「動いてよ……兄様、目を開けて……お願いだから……」
必死に言葉を紡ぐが、兄様は何も答えない。閉じられた瞼が、二度と開くことはないのだと理解した瞬間、胸の奥で何かが砕け散る音がした。
「ああ……兄様っ……どうしてっ……!」
アイリスは兄様の服を掴み、顔を埋めるようにして泣き叫んだ。その声は、痛みと悲しみと後悔が渦巻く深い底から絞り出されたものだった。
冷たい風が彼女の頬を刺し、濡れた涙がさらに冷たく感じられる。木々は何も語らず、空は鈍く曇ったまま、ただこの悲劇を無言で見守っているようだった。
「兄様、帰ってきて……お願い……」
震える声で呟き続ける。兄様がいない現実が、彼女の心を引き裂いていく。その温もりも、優しさも、もう二度と戻ってこない。その事実が、彼女の全身を締め付けるように痛みをもたらした。
手に触れた兄様の頬は、もう完全に冷たくなっていた。それでもアイリスはその頬を撫で続けた。まるでそうすることで、彼がまた目を開けて微笑みかけてくれるのではないかと、儚い希望を抱き続けるように。
「ああ……兄様……どうして……こんな……」
どれほど泣いても、どれほど願っても、兄様の姿は変わらない。矢が深く突き刺さったその背中。最後の瞬間まで彼が守ってくれたその姿が、彼の覚悟を物語っている。それが、彼の最期だったと理解するたび、彼女の胸は悲しみで押し潰されそうになった。
「兄様……一緒にいてよ……ずっと……」
アイリスの叫びは、森の中に響き渡る。しかし、それを返す者は誰もいない。彼女の声は、ただ冷たい風にさらわれ、静寂の中へ消えていくだけだった。
冷たい地面に倒れ込んだまま、意識は深い霧の中を漂っていた。目を開けることもできず、身体中に鈍い痛みが広がっている。まるで重い鎖に縛られたように、腕も足も動かない。ただ、頭の奥で微かに誰かの会話が響いているのがわかった。それは耳元で聞こえるような近さではなく、どこか遠くから届く不快な低い笑い声。それでも、言葉の意味だけははっきりと耳に残った。
「こいつ、どうする?」
荒々しい男の声が、頭の上から響いた。その瞬間、鋭い痛みが頭皮を突き刺す。誰かが私の髪を乱暴に掴み、無造作に引き上げているのだと気づく。
「むやみに触るな、吸血鬼だぞ。」
別の冷たい声がそう言い放つ。視界はぼやけたままだが、その声には鋭さと警戒心が滲み出ていた。私の存在を恐れ、見下している――その感情が、声のトーンから嫌というほど伝わってくる。
髪を掴んだ手がさらに力を込め、私の頭が引き起こされる。痛みが頭皮に走るたび、背筋が小刻みに震える。それでも身体は動かない。ただ、その男――サミュエルと呼ばれた粗野な声の主が、私を愉快そうに眺めている気配だけが伝わる。
「大丈夫だってラゼル、意識飛んでるよ、こいつ。」
サミュエルは鼻で笑いながら、髪を掴んだ手をさらに乱暴に振るった。視界の隅に、その笑みが見える気がした。嫌悪と怒り、そして屈辱が胸の奥で渦を巻く。けれど、鉛のように重い身体は、反抗するどころか微かに震えることしかできない。
「上からの命令だ。そいつは政治的にまだ使えるらしい。」
冷静な声――ラゼルの言葉には、私をただの道具として扱う冷酷さが溢れていた。彼の目が私を見下ろしている。その視線は、まるで命の価値を計る秤のように、私を測っているかのようだった。
「なるほど、一応生かしておくか。」
サミュエルが肩をすくめる音が聞こえた。そして次の瞬間、掴まれていた髪が乱暴に放り投げられた。その瞬間、頭皮に焼け付くような痛みが走り、地面に頭が打ちつけられる鈍い音が響いた。
「おい、サミュエル!あんま雑に扱うな。起きて噛まれたら、めんどくせーから。」
ラゼルが怒気を孕んだ声でそう言った。その言葉には、私に対する恐れと軽蔑が混じり合っていた。彼らにとって私は、利用価値のある危険な存在であり、敬意など微塵も払うに値しない道具に過ぎないのだ。
二人の足音が遠ざかる。その音が、冷たい石の床に染み込むようにして消えていくと、再び森の中の静寂が戻ってきた。
袋に詰められ、乱暴に運ばれた後
意識がぼんやりと浮遊する中、硬い何かに乱暴に投げつけられる感覚で目が覚めた。袋から零れ出た身体は、冷たい石の床に放り出される。頬に触れるのは粗く冷たい石の感触。湿気を帯びた冷たい空気が肌にまとわりつき、胸の奥まで染み込んでいく。
身体中に鈍い痛みが残っている。腕も足も動かせず、ただ冷たく硬い床に伏せたまま、遠くから響く聞き覚えのない男たちの声に耳を澄ませるしかなかった。
「袋から出してこれで終わりか?」
「いや、監視しとけって命令だ。寝てる間に動かれたら厄介だろう。」
聞き慣れない声が交差する。耳元で遠ざかったかと思えば、再び近づき、低い笑い声が耳を打つ。その音が、私の心を冷たく締め付けた。
冷たい床の感触が、痛みとともに私を現実に引き戻す。それでも、全身が重く、意識を完全に取り戻すことができない。ただ、心の奥底で燃え上がる炎――復讐への決意だけが、私を支えていた。
「絶対に……許さない……」
声にすることすらできないその誓いだけを、胸の奥深くに刻み込む。冷たい石の床の上で、静かに目を閉じながら――。
「王子と王妃をやれたって報告した。もう、この女に価値はないらしい、捨ておけ。」
冷たい声が頭上から降り注ぎ、私の耳に鋭く突き刺さる。その声の主――ラゼルと呼ばれる男は、一片の感情も宿していない。ただ、不要な物を処分するかのように私を見下ろし、吐き捨てるように言った。その冷酷な言葉が、私の中にある怒りと屈辱をさらに煽る。
彼らは私がヴァンパイアであることを知っている。それでも、私をただの道具のように扱うその態度に、体がかすかに震えた。反論したい気持ちが喉の奥で燻るが、鉛のように重い体は指先ひとつ動かせない。無力さに苛まれながら、私はただその言葉を聞くことしかできなかった。
「奴隷商にでも売り渡すか?」
隣にいるサミュエルという男が、面倒臭そうに肩をすくめながら応じる。その言葉には軽薄さと冷笑が滲み出ていた。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から怒りがせり上がる。それは、屈辱と悔しさが混じり合った感情の嵐だった。アイリス・ヴァン・エクリプスとして生まれた私が、こんな無礼で冷淡な言葉を浴びせられる――それだけで、自分がどれほど無力に貶められているのかを痛感する。
「やめておけ。」
ラゼルが鼻で笑うように言った。その声には、私への警戒心がありながらも、どこか嘲りを含んでいる。
「腐ってもヴァンパイアだ。噛まれでもしたらどうなるかわからねぇ。」
彼の言葉が冷たい牢の空気を刺し、私の心をさらに締め付ける。彼らにとって、私はただの「危険な存在」か「面倒な脅威」に過ぎないのだろう。私の中にある命の価値や、私自身が持つ尊厳など、彼らの中では無に等しい。
「おっかねぇなぁ。」
サミュエルの軽薄な声が続く。その言葉と共に漏れる低い笑いが、私の耳元で不快に響いた。その無神経な態度に、胸の中に嫌悪感が広がり、怒りの炎が静かに燃え上がる。
「この廃墟の牢に放置しときゃ、そのうち消えるだろう。」
ラゼルが吐き捨てるように言い放つ。その声は、私の命を完全に「消えゆくもの」として扱っていた。その冷酷さが、私の胸に深い傷を刻む。
「そうだな。」
サミュエルが同意する声と共に、二人の足音が冷たい石の床を踏みしめながら遠ざかっていく。
やがて、彼らの声も足音も完全に消え、静寂が牢獄を支配した。冷たい空気が肌にまとわりつき、石の床からじわじわと体温を奪っていく。その冷気は、私の体をさらに重く、さらに動かなくしていくようだった。
私は目を閉じたまま、朽ちた石壁にもたれ、頭の奥に浮かぶ怒りと屈辱の感情を噛み締める。このまま消え去るわけにはいかない。屈辱と無力感に苛まれるたび、その思いが胸の奥で激しく渦巻く。
「絶対に……生き延びてみせる……」
微かな声で呟いた言葉が、冷たい空気の中に消えていくようだった。しかし、その呟きと共に、心の奥底で燃える復讐の炎が揺らめきながらも強く燃え続けているのを感じた。




