絶望の牢屋
俺は絶望に押しつぶされ、投げ込まれた牢の冷たさに身を縮めていた。鉄格子に囲まれた狭い空間は、闇に閉ざされ、空気は湿り気を帯びて重く、腐臭の混じった鋭い臭いが鼻を刺した。金属の錆びた味が喉元にこびりつくような感覚が、まるでこの場所そのものが絶望を押し付けてくるかのようだった。
背中をつけた石の壁は氷のように冷たく、服の布地越しにまで冷気が染み込んでくる。足元に散らばる藁は湿っていて、生乾きの臭いがする。触れるたびにじっとりとした感触が肌に嫌な記憶を刻みつける。瞼を閉じても、そこに広がるのは同じ闇。音もなく、ただ心臓の鼓動だけが耳の奥で鈍く響いていた。
時間の感覚はとうに失われ、牢に投げ込まれてからどれだけ経ったのかもわからない。ただ、冷たさと空腹が、ここに生きているという実感を嫌でも突きつけてくる。だがその実感ですら虚ろだ。もはや俺の中には何もない。家族も、仲間も、故郷も──すべて奪われた。ここで凍えて眠りにつくのも悪くない。そう思い始めていた。
その時だった。
「……うっ、うぅ……」
静寂を切り裂くような小さな声が、耳に届いた。最初は空耳かと思った。だが確かに聞こえた。すすり泣くような、か細い声。それはまるで、闇に溺れた者が、声にならない声を振り絞るようなものだった。
俺はゆっくりと目を開けた。だが周囲は依然として闇に包まれ、声の主の姿は見えない。ただ、声だけが耳元で囁くように響いている。
「……兄様……」
その一言が、心の奥底に刺さった。頭が真っ白になる。胸の奥が軋むように痛む感覚に襲われた。「兄様」。その言葉が俺の心に何を呼び起こしたのか、すぐには理解できなかった。ただ、その声は遠い記憶を引きずり出し、心の奥底に閉じ込めていた何かを叩き起こした。
「……アーシェ?」
かすれた声が自然と漏れた。自分の声が震えていることに気づいたが、どうしようもなかった。名前を口にした瞬間、胸の奥に温かいものが広がりかけたが、それはすぐに寒さに飲み込まれた。いや、そんなはずはない。アーシェはもう──
だが、声は再び響いた。
「うぅ……兄様……」
その震える声は、まるで俺を呼び求めるようだった。胸が締め付けられる。理性では否定しようとするのに、心のどこかでこの声を求めてしまう自分がいる。
俺は無意識に体を起こした。湿った藁の擦れる感触が、嫌な音を立てる。冷たい鉄格子に手をかけると、氷のような感触が掌に刺さった。だがそれでも俺は手を伸ばす。声の主が、確かにここにいるという確信が、心の底で静かに芽生え始めていた。
暗闇の奥、かすかな光すら届かないその先に、俺と同じように凍える存在がいる。目を凝らしても何も見えない。だが、感じる。そこに誰かがいるという気配。冷たく、震えた空気が、俺の肌に触れてくる。
「……アーシェ……?」
声が震えた。心の中に、わずかな期待が生まれる。それがどれだけ愚かで、どれだけ虚しいものなのか、わかっているはずなのに──それでも、俺はその名前を呼び続けてしまう。
「……会いたい……うぅ……」
闇の中で、すすり泣く声が再び耳に届いた。アーシェではない、その震える声はまるで凍えた風に混じる小さな囁きのようで、耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうだった。しかし、その裏にある感情は強烈だった。声の奥底には俺と同じ痛みが渦巻いていた。家族を失った悲しみ、心の拠り所を奪われた孤独──俺がここまで引きずり続けてきた傷そのものが、声となって響いている。
俺の喉が動いた。声を出そうとしたが、喉はひどく乾き、うまく言葉が出てこない。それでも、どうにか絞り出した。
「……だい……じぶ?」
喉が潰れたように掠れ、言葉として形をなしていないのは自分でも分かっていた。だが、そんなことはどうでもよかった。気づけば、体が自然と動いていた。暗闇の中、音を立てないよう慎重に足を運ぶ。湿った床に足裏が触れるたび、ひやりとした冷たさが染み込む。息苦しい空気と、鼻腔を刺す腐敗臭、それら全てをかき消すように、声の主へとゆっくり近づいていった。
やがて目の前に、小さく丸まった影が現れた。暗闇の中に溶け込むようなその姿は、まるで闇そのものが形をなしたかのようだ。床に膝と頭をつき、肩を震わせている。その身体はあまりにも小さく、俺の記憶の中にある子供の頃のアーシェと重なった。息を詰めて観察すると、足元の皮膚が凍傷で黒ずみ、ところどころ崩れかけているのが見えた。体全体が異様なほど痩せ細り、骨ばった腕で何かを守るように自身を抱きしめていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。痛みと共に、何か懐かしい感覚が心に湧き上がる。それが何なのか考える余裕もなく、俺はそっと手を伸ばした。
冷たい。
その頭に触れた瞬間、俺の指先はまるで氷に触れたような感触に襲われた。俺自身も凍え切っているはずなのに、この子の冷たさはそれを遥かに凌駕していた。乾ききった髪は硬く、汚れにまみれている。だけど、その下にあるか細い頭蓋の形が、ひどく脆く感じられた。こんなに小さな存在が、ここでどれだけ孤独に耐えてきたのだろうか。
俺は、自分でも気づかないうちに、その子の頭を撫でていた。指先で丁寧に、そっと。髪の硬い感触が伝わるたびに、そこに少しでも温もりが届いてほしいと願うように。
しばらく撫でていると、その子が震える手で俺の手を掴んだ。驚くほど細く、小さな手だった。痩せた骨ばかりの指が俺の手に絡みつき、その力の弱さに思わず息を呑む。視線を闇の向こうに凝らすと、その子がゆっくりと顔を上げた。だが、暗闇は深く、表情はほとんど見えない。ただ、湿った息が俺の冷えた指先にかかり、そのわずかな温かさが確かに伝わってきた。
突然、その子が俺に飛び込んできた。驚く間もなく、小さな体が俺の胸に押し付けられる。ひどく痩せ細り、骨ばった体が震えているのが伝わる。張り詰めた空気の中、その体温は信じられないほど冷たかった。それでも、この子の体は確かに生きている。震える腕がゆっくりと俺の背中に回され、その力の弱さが、どれだけ長い間寒さと孤独に耐えてきたのかを物語っていた。
俺はその体を抱きしめ返した。力を込めすぎないように注意しながらも、しっかりとその存在を腕の中に収めた。服越しに伝わる寒さは相変わらずだったが、それでも少しでも温もりを分けてやりたかった。冷えた頬が俺の胸元に押し付けられ、その小さな息が服を通して微かに伝わる。細く震える声が漏れ聞こえた。
「……兄様……」
その一言が、俺の中の何かを壊した。同時に、遠く忘れ去っていた何かが、胸の奥底で弾けた。
俺はその子をさらに強く抱きしめた。こんなに小さく脆い存在を、どうしてここに閉じ込めておけるのだろう。凍えた小さな手に、自分の手をそっと重ねる。温もりなんてどれほど伝わるか分からない。それでも、この腕の中にだけは、この子の寒さを少しでも癒せるようにと願った。
「……俺が、いる……大丈夫だ」
自分に言い聞かせるような声だった。声が震えていたのか、心が震えていたのかは分からない。ただ、この小さな命が腕の中にある。それだけが今の俺を支えていた。
暗闇の中、冷たい石壁に囲まれた牢獄で、俺たちはただお互いの体を寄せ合っていた。耳を澄ませば、静寂を破るのは自分たちの息遣いと心臓の鼓動だけ。俺の心臓が規則正しく鼓動するたびに、その振動がこの子に伝わっているようだった。寒さはまだ続いているはずなのに、どこかで温もりを感じている。おそらく、それはこの小さな体が俺の胸の中で震えを徐々に収めていく、その変化から来るものだった。
こんなに近くで人と触れ合ったことは、これまでの人生で一度もなかった。俺にとって、誰かの体温を感じるという行為はあまりにも新鮮で、心の奥底から込み上げるものがあった。俺はただ、この温もりを失いたくないと思った。それだけでよかった。
しばらくして、その子がかすれた声で囁くように言った。
「……ありがとう……」
その言葉に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。俺は何もしていない。ただ、ここにいるだけだ。ただ、この暗い牢の中で一緒に凍えているだけなのに。この小さな声が、俺の無意味だったはずの存在に何かしらの価値を与えてくれるような気がした。
言葉に詰まり、俺はただ無言でその子の頭をもう一度そっと撫でた。髪は硬くごわごわしているが、その下の肌は驚くほど冷たく、俺の手のひらが少しでも温もりを与えられているのか不安になる。それでも、撫でるたびに子供らしい柔らかさを感じることで、彼女がまだ生きているという事実にほっとする。
その子がさらに俺に体を寄せ、細い腕で俺の体をしがみつくように抱きしめてきた。冷たく痩せた指が俺の背中に回され、その腕の力の弱さが彼女の疲弊ぶりを物語っている。首筋に小さな顔が埋もれ、ひどく荒れた息遣いが微かに温かさを持って俺の肌に触れた。その瞬間、かすかに甘い香りが漂ってくる。それは、どこか懐かしくも奇妙な香りだった。湿気を帯びた牢獄の空気の中で、その香りだけが異質で、俺の意識を強く引き寄せる。
ふと、その子の唇が俺の首筋に触れた。思わずぞくりとする。冷たくて柔らかい感触が、肌をなぞるように動き、舌先が小さく這うのを感じた。くすぐったいような感覚と共に、首筋に伝わる生温かい息遣いが俺の体を鋭敏にさせる。思わず体が反応し、呼吸が浅くなった。
次の瞬間、小さな痛みが首筋を襲った。鋭い何かが肌に食い込んでいる。それはすぐに微細な刺激となり、俺の感覚を支配し始める。痛みの中にある妙な心地よさに、俺は戸惑いながらも身を任せていた。気づくと、首筋から血液がゆっくりと引き寄せられている感覚が広がり始める。脈打つたびに、血液がこの子に流れ込んでいくのがわかる。そして、失われる血の代わりに、体の奥底から温かい感覚が湧き上がってくる。
「ごめんなさい……」
その子の震える声が耳元で囁かれた。申し訳なさそうな声色には切実なものがあり、彼女の体全体が僅かに震えているのが伝わる。それでも、彼女はその牙を俺の首筋に埋めたまま、そっと血を吸い続けていた。その姿がどこか痛々しく、俺は彼女の震えた体を抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
「そうか……この子は……ヴァンパイアなんだな……」
口から自然と声が漏れる。ようやく合点がいった。彼女が俺に抱きついたのも、この行為に至ったのも、すべては生きるためなのだ。ここまで飢え、寒さに耐え続けたこの子にとって、俺の血は命を繋ぐ最後の手段だったのだろう。
それがわかると、不思議と恐怖や嫌悪感は一切なかった。むしろ、心が落ち着いていくような感覚があった。血が流れるたびに、俺の体は徐々に力を失っていくはずなのに、その代わりに満たされるような安心感が湧いてくる。
彼女が吸い続ける間、俺はただその場に立ち尽くしていた。寒さも、暗闇も、この瞬間だけは遠ざかっているように感じた。俺の命が少しずつ彼女に移っていくのを実感しながら、それが不思議と心地よかった。生きるために必死なこの子の切実な想いが、血と共に俺の中に流れ込んでくるようだった。
暗闇の中、俺の首筋に触れる小さな唇。その柔らかさと冷たさが交錯する感覚は、凍てついた牢獄の中ではあまりにも異質だった。唇がわずかに動き、舌先が肌を撫でるように這うたびに、首筋の感覚が鋭く研ぎ澄まされていく。そこから伝わる温もりは、僅かだが確かに存在し、俺の体に残った感覚を引き寄せていた。
「血を吸われるって……こんなに気持ちのいいものなのか……」
思わず漏れた言葉に自分でも驚いた。寒さで震えていたはずの体が、吸血されるたびに不思議な温もりに包まれていく。この牢獄の冷たい空間に押し込められたはずなのに、今は俺自身が温かさの中心にいるような錯覚に陥っていた。
俺はその小さな頭をそっと撫でた。髪の感触は硬くごわついているが、その下の頭蓋の形が脆く小さい。撫でるたびに、この小さな体がどれほど飢えと孤独に耐えてきたのかを痛感する。自然と力を込めずにはいられなかった。俺の血をもっと吸え──そんな気持ちを伝えるように、彼女の頭を優しく抱えた。
小さな体が俺にしがみつき、腕が背中に回る。その力の弱さが、この子がどれほど疲弊しているのかを雄弁に物語っていた。かすかな震えが伝わるたびに胸が痛む。寒さと飢えに苦しむその姿が、痛ましくも愛おしい。この子には、まだ生きる力がある。ならば、俺の命を分け与えることでその力を支えたいと思った。
俺はその小さな耳元に唇を寄せ、喉が潰れたような掠れ声で囁いた。
「血を……全部お前にあげるから……生き延びろよ」
その言葉に答えるように、彼女の吸い付きがさらに強くなる。首筋から熱が伝わり、それが体中をじわじわと広がっていく。不思議な感覚だった。冷たく硬直していたはずの体が、内側から解きほぐされるように温かくなっていく。俺の意識は徐々に薄れ、視界がぼやけ、思考が霞んでいく。それでも、この子を抱きしめる腕の力だけは緩めなかった。
その時、ふと口の中に鉄のような味が広がった。温かく、生々しい味だ。朧げな意識の中で、それが自分の血液の味だと気づく。だが、次の瞬間、それ以上に異質な感覚が俺を支配した。柔らかく湿った何かが俺の口内に触れてきたのだ。
「……なんだ……?」
驚きと戸惑いで混乱する中、それが彼女の舌だと気づく。柔らかくぬるりとした感触が、俺の口の中をゆっくりと撫で回している。唇が重なり、体温が直接伝わってくる。その動きはぎこちなくも真剣で、俺を圧倒するような切実さがあった。
不思議だった。同じ子供同士であるはずなのに、そんなことを考える余裕はどこにもなく、俺はただそのキスに身を委ねていた。唇が絡み合うたびに、彼女の甘い香りが鼻をくすぐり、口いっぱいに血の味が広がっていく。その感覚は言葉にできないほど生々しく、そして心地よかった。
彼女の動きに合わせて、俺は唇をわずかに開き、彼女の舌を受け入れる。舌先が俺の口内をゆっくりと探り、まるで命を分かち合う儀式のように、その感触が俺を深く沈み込ませていく。自分の血の味が混ざり、彼女の吐息が俺の喉に伝わるたびに、胸の奥で何かが高鳴った。
抵抗する気力はなかった。いや、むしろ抵抗する理由すら見つけられなかった。ただ、彼女が求めるすべてを受け入れることが、今の俺にとって唯一の役割のように思えた。
唇が離れたとき、俺は深い息を吐き出した。温かい吐息が闇の中に溶けていく。朦朧とする意識の中で、俺は彼女の小さな体をしっかりと抱き寄せた。初めてのキスだった。それがこんな形で訪れるとは思いもしなかったが、嫌悪や戸惑いはどこにもなかった。
俺はただ、この子を守りたいと思った。この暗闇の中で、たとえ自分の命を削ることになっても、彼女の小さな命を輝かせるためなら、それで構わないと。
ふと、彼女が俺の胸に顔を埋め、小さな声で囁いた。
「……ありがとう……」
その言葉に、俺の心は静かに締め付けられた。涙が零れそうになるのを堪えながら、抱きしめ合い、何度も何度も唇を重ねた、
俺は生まれて初めての行為に溺れていった....