襲撃と裏切りと絶望
この時代、小さなギルドや村が一夜にして消えることは珍しくなかった。
それは、あまりにも日常的で、誰もが次は自分の番かもしれないと思いながら過ごしていた。そんな不安を抱えることすら無意味だと知りながら――。
冷たい月明かりが森を不気味に照らしている夜、静寂を切り裂くような鋭い叫び声が響き渡った。その叫びは耳を刺すような高音で、まるで何かが無理やり裂ける音と混ざり合っていた。
その瞬間、空気が凍りついたように感じた。足元の土が冷たく、体が震える。背中には汗がじっとりと滲み、襟元から冷たい風が入り込むのがやけに鮮明だった。
仲間たちが息を呑み、一瞬その場に固まる。次の瞬間、短い視線を交わし、彼らは闇の中へと散っていった。それぞれが父さんや母さんに教え込まれた技術を活かして行動を始める。俺もまた、足がすくむ恐怖を押し殺し、心臓の鼓動を抑えようと必死に深呼吸を繰り返した。
「大丈夫、大丈夫……俺は動ける……。」
そう自分に言い聞かせても、指先は小刻みに震え、手にした短剣が滑りそうになる。冷たい汗が額を伝い、まるで心臓が喉元まで迫ってくるような感覚に襲われた。
叫び声が再び響いた。それは人間の声というよりも、獣が追い詰められたときのような、痛みと恐怖が入り混じった声だった。その声を聞いた瞬間、胸が締め付けられ、胃の奥がひっくり返るような感覚がした。
そして、現れた――。
森の奥からゆっくりと姿を現したのは、レオナード王直属の部隊「レギオンソレイユ」だった。彼らの甲冑は月明かりを鈍く反射し、背負った剣の鋭い光が俺の目を刺した。その一人ひとりが冷酷で無慈悲な表情をしていて、まるで人間というよりも機械のように見えた。その冷たい視線は、あらゆる命を平等に踏みにじる、そんな非情さを帯びていた。
「……なんで……どうしてこんなことを……。」
頭の中で問いが浮かぶが、答えが返ってくることはない。彼らの目に映るのは俺たちではなく、ただ「排除すべき対象」だけなのだ。
レギオンソレイユの兵士たちは迷うことなく動き始めた。仲間たちを次々と容赦なく斬り伏せていく。その刃が仲間の体を貫く音が耳を刺し、湿った土が鮮血で濡れる匂いが鼻を突く。
俺はその場から動けなかった。幼い頃から家族のように過ごしてきた仲間たちが、血を流し、声を上げる間もなく命を奪われていく。胸が痛み、呼吸が浅くなる。まるで全身が硬直し、地面に縛りつけられているようだった。
「キース!」
母さんの声が響いた。その声には、切迫した恐怖と、それを押し殺そうとする強さがあった。
「逃げるのよ、キース! 絶対にここを離れて、生き延びるの!」
彼女は涙を流しながら、俺を強く抱きしめた。その腕の中で、俺は彼女の震えを感じた。母さんだって怖いはずなのに、俺を守るために自分を奮い立たせている。それが伝わってくるたびに、俺の胸が締め付けられるように痛んだ。
次に父さんが俺の肩に手を置き、深く俺を見つめた。
「強くあれ、キース。」
その声は低く、静かで、それでいて確かな重みがあった。
「お前はまだ何も成していない。でも、お前にはその力がある。いつか、お前の手で守れるものを見つけ、その時には必ず立ち上がれる自分でいろ。」
その言葉が胸に響いた瞬間、剣が父さんの背を貫いた。
「父さん!」
父さんはぐらりとよろめき、片膝を地についた。苦しそうに息を吐きながらも、目は決して揺らいでいなかった。
「行け……キース……お前が生きることが……未来を……」
その途切れ途切れの言葉が、俺の胸に深く突き刺さった。
母さんの手に背中を押され、俺はギルドを後にする。振り返ることもできず、森の中を必死に駆け抜けた。
足音だけが自分の鼓動と重なる。だが、それを追う重い気配が、どこまでも追ってくる。――レギオンソレイユは、俺を逃がすつもりなど微塵もない。
それでも俺は走る。涙を流しながら、歯を食いしばりながら、生き延びるためだけに走り続けた。
森を駆け抜ける。足元で濡れた枯葉が潰れる音が、冷たい夜風に混じって耳に響く。荒い息遣いが喉を焼きつけるように痛み、胸が爆発しそうなほど鼓動が早くなる。森の湿った空気が鼻孔を満たし、冷たい汗が背中をじっとりと濡らしていた。
逃げなければ――その思いだけが全身を動かしていた。どれだけ足を動かしても、後ろから迫る気配が重くのしかかる。振り返るな。振り返れば終わる。体がそう警鐘を鳴らしているのに、恐怖が何度も後ろを振り返らせようとする。
その時――。
「逃がすと思ったか?」
低く冷たい声が、闇を裂くように響いた。
全身が凍りつく。目の前にはサミュエルが立ちはだかっていた。村に時折来ていた馴染みの顔――陽気に笑い、人懐っこい言葉をかけていたその男が、今は冷酷な微笑を浮かべていた。その笑みは人間のものとは思えないほど冷たく、目には何も宿していない。
「……どうして……サミュエル……」
口が動いたつもりだったが、声は出ていなかった。唇だけが震え、冷たい風が喉を貫くような感覚に襲われる。
「お前なんぞ、生きていても意味はない。」
サミュエルの言葉は、背筋を氷柱で貫かれるような冷たさだった。
足が動かない。恐怖が体を固め、地面に縛り付けられたように感じた。全身に力を込めようとしても、指先さえ思うように動かせない。ただ、目の前のサミュエルの瞳に吸い込まれるように立ち尽くすことしかできなかった。
次の瞬間、首に激しい痛みが走った。
まるで炎が駆け巡るような感覚が首筋を焼き、視界が一瞬揺らいだ。サミュエルの冷たく硬い手が、容赦なく俺の首を掴んでいた。その感触は氷のようで、骨にまで響くようだった。
力が込められるたびに喉が締め付けられ、息ができない。胸が悲鳴を上げ、視界の端がじわじわと黒く覆われていく。耳鳴りが頭の中を占拠し、周囲の音が次第に遠のいていく。森を駆け抜ける風の音も、夜鳥の鳴き声も、すべてが掻き消えていった。
意識が遠のく中、サミュエルの冷酷な声が耳に残る。
「よく覚えておけ。俺たちを手こずらせた代償だ。」
喉が潰された痛みで頭が割れそうだった。息ができない――喉を掴むサミュエルの手が、俺の命を握りつぶそうとしている。声を出したくても、喉から漏れるのは掠れた音だけ。肺が悲鳴を上げている。全身が痺れ、体中から力が抜けていく。
「……っ!」
目の前が暗くなる中、浮かぶのはアーシェの姿だった。
あの小さな体。あの笑顔。――無事なのか?隠れたままでいてくれるのか?サミュエルが彼女を見つけていないのか?
考えるだけで胸が締め付けられる。俺はここで何もできない。ただ捕まって、情けなく死んでいくだけ。悔しい。自分の弱さが、何もできない無力さが、嫌でたまらなかった。
でも――せめて彼女だけは、無事でいてほしい。
「……アー……シェ……」
潰れた喉から名前を呼ぼうとしても、音にはならない。祈るような思いだけが、心の中で叫び続けていた。
俺がどうなってもいい……だから……アーシェだけは……!
視界が闇に覆われる直前、心に残ったのはその願いだけだった
足元に散らばる枯葉が、冷たい夜風にかすかに揺れる音だけが聞こえた。その音が、唯一現実に繋がっている感覚だった。
「待て、そいつは殺すな」
サミュエルの背後から現れたのは、黒いマントを纏った女――セシリア・ダンパーだった。彼女の姿は漆黒の夜そのもので、月明かりさえ彼女に届かないかのようだった。彼女の目が冷たく俺を見つめ、唇の端に微かな笑みが浮かぶ。
その笑みには情けの欠片もなかった。ただ冷たく、俺の存在をただの「物」として見下していることが伝わってきた。
「おい、サミュエル。そのガキを連れて来い。いいエサになる。」
その言葉は、突き刺さるような冷たさだった。サミュエルが俺の腕を掴み、乱暴に引きずり始めた。
森の地面が背中に擦れる感触が痛みとなって全身を駆け巡る。湿った土と冷たい露の匂いが鼻を刺し、体温がどんどん奪われていくようだった。
体は鉛のように重く、全身から力が抜け落ちていく。視界がぼやけ、星明かりすら見えない。だが、心の奥には一つの炎が静かに燃え続けていた。
――憎しみだ。
両親、仲間、そして家族を奪われた怒りと悲しみが胸の奥で渦巻く。その感情だけが、俺の意識をつなぎ止めていた。
「セシリア……サミュエル……」
声にならない呟きが唇から漏れる。その名前を口にするたび、胸の中に灯る炎が激しさを増していく。
「絶対に……許さない……」
その誓いは、痛みを超え、全身に鋼のような決意を刻みつけた。俺は生き延びる。必ず、あの二人を、そして俺達、アサシンギルドを使うだけ使って、ゴミのように切り捨てたレオナード3世を討つために。
夜空に瞬く星々が、遠い希望のように輝いている。それは手が届かないほど遠い光だった。だが、俺の中に燃える復讐の炎だけは、消えることがなかった。