リリスの旅立ち
気がついたら、私はいつの間にかエマ姉ちゃんと同じくらいの歳になっとった。そしてある日、ジグルドがいつもと変わらん冷静な顔で私に告げた。
「アドラ様からの特命だ。城に来い」
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。エマ姉ちゃんが城に呼ばれたあの日のことが頭をよぎり、何かが終わるような気がしてならへんかった。でも、もうここまで来たんや、引き返すことなんてできへん。私はついにこの時が来たんやと、心を決めた。
城に向かう前に、レオンに別れを告げた。レオンもじっと私を見つめ、何も言わへんかったけど、その目には不安と寂しさが滲んどった。私も言葉を探しながら、レオンの肩にそっと手を置いたけど、喉に詰まって何も出てこなかった。
ジグルドの後について、城へ向かう道をただ無言で歩いた。足元に響く一歩一歩の音が、これまでの訓練の日々、エマ姉ちゃんとの時間を思い出させてくる。心の中で、静かに覚悟を固めていった。
城に一歩足を踏み入れた瞬間、目の前に広がる光景が私を圧倒した。天井は高く、壁一面には豪華な刺繍が施されたタペストリーが何枚も飾られている。金色に輝く装飾が至る所に施され、光を反射しているシャンデリアが頭上で煌めいている。床は磨き上げられた大理石で、私が歩くたびに靴音が冷たく響き渡った。そのすべてが、私の生きてきたスラムや、これまでの訓練の日々とはかけ離れた、贅沢で浮ついた空間やった。
豪華な料理が並ぶ長いテーブルからは、甘い香りや香ばしい匂いが漂ってきて、私の鼻をついた。何もかもが「豊かさ」と「余裕」をひけらかしているように見えて、胸の奥で怒りが込み上げてくる。私が血を吐くような努力で生き延びてきた日々を、この場所は何一つ知らん。こんな場所でぬくぬくと生活している王族たちが、私たちのような者たちの苦しみを理解できるはずがない――そう思うと、目の前のすべてが憎らしく思えた。
そして、その中心にいるアドラ様。彼は冷たい微笑みを浮かべながら、私を頭の先から足の先まで舐めるように見定めていた。その視線は、まるで「使える駒かどうか」を見極めるかのようで、私に対する興味は無いに等しい。その無表情な瞳が、私を物としてしか見ていないことが、肌に刺さるように感じられた。
アドラ様は、しばらく私を見つめたあと、にやりと口元をゆがめた。その笑みにぞっとするほどの嫌悪感が込み上げ、思わず手が震えそうになる。自分がここで何を求められているのかは分かっていたが、こんな目で見定められるのは耐え難かった。
その彼の横には、施設で見知った面々が並んでいた。アドラ直属の部隊、四狂星のラゼル、ガイゼル、フェンリス、そしてジグルドが、アドラ様の周囲に立ち、無表情で私を見つめている。その圧倒的な存在感が空間全体を支配し、彼らがただの護衛ではないことを改めて実感させられた。
怒りで胸が熱くなる。豪華な城の装飾、アドラ様の冷徹な視線、そして四狂星の面々。そのすべてが、私に対して冷たく、無情で、非情な試練を突きつけているように感じられた。
アドラ様の冷たい視線が、私の顔をまるで舐めるように這うていく。その目は、まるで道具か物を品定めするような無感情さがあって、背筋がぞっとする。胸の奥がざわついて、嫌な気持ちが広がっていった。
「まだ幼いが、いい顔をしているな…」と、アドラ様は気味悪い笑みを浮かべながら、冷たく言うた。「ジグルド、説明をしろ」
その言葉が耳に入った瞬間、胸に強い反発心が湧き上がる。ジグルドがこんな薄気味悪い男の手下やなんて、ほんまは認めたくないんや。ジグルドの厳しさと無情さには慣れてるつもりやったけど、それがアドラ様の命令のもとにあると知ると、何か大切なもんが踏みにじられたような気がしてならん。
でも、ジグルドは何も変わらん顔で、淡々と説明を始めた。その目が私を見つめてくるけど、そこには何も情は感じられへん。けれど、その眼差しの奥に、どこか語りきれない苦しみが見えた気もする。
アドラ様の命令は、王宮に潜り込んで、メイドとしてアルト王子の動向を探れいうもんやった。しかも、アルト王子が「偽物かもしれへん」という疑いを持って、その真意を確かめろと命じられた。
その言葉に、胸の中で何かが静かに弾けた。スラムでの生活や過酷な訓練の日々が頭をよぎり、王族たちへの怒りが再び湧き上がってくる。こんな贅沢に囲まれて、誰の苦しみも知らんままにぬくぬくと暮らしてる人らが、私たちのことなんか何もわからんはずや。そんな連中に仕えることになるなんて…「駒」として使われることへの反発がまた込み上げてきた。
しかも、その中で「偽物」かどうかを探れなんて…ほんまに、この任務の意味が頭の中でぐるぐると渦巻いて、不安と疑念が私の心を支配する。
そんな思いを押し殺して、私は無言でジグルドの話を聞き続けた。けど、視線はしっかりとアドラ様に向けたまま、冷たい表情でその命令を受け止めた。
城を出てすぐ、私は堪えきれずジグルドに問いただした。
「なんでアルト王子が、偽物やって知ってるんや?どういうことなん?」
ジグルドの無表情な横顔を見つめながら、胸の中の疑問と不安が一気に溢れ出した。
ジグルドは冷たい目で私を一瞥し、低い声で言った。
「お前は何も聞くな。ただ、言われたことだけをすればいい」
その言葉に、私は思わず拳を握りしめた。気持ちを押し殺しながらも、どこかで胸に引っかかるものが、さらに大きくなっていく気がした。
旅立つ前に、わずかばかりの金を握りしめてスラムに戻った。懐かしい路地を歩きながら、心のどこかであの家が私を待っているような気がしていた。けれど、たどり着いた場所には何もなかった。家は影も形もなく、ただ荒れた土が広がっているだけやった。
スラムの空気は冷たく、風が吹くたびに土ぼこりが舞い上がる。その場所に立った瞬間、胸がぎゅっと締め付けられるような痛みに襲われた。
私の家があったはずの場所――そこには、もう何も残っていなかった。瓦礫もなく、ただ荒れ果てた地面が広がるだけやった。草さえも生えてへん、その冷たい土の上で立ち尽くしながら、私は信じられへん気持ちで、何度も目の前を見つめ直した。
「なんでや…」
小さく声が漏れる。必死に耐えてきた訓練も、命をかけてきた技の習得も、全部ここに帰るためやった。親に安心を与えたくて、少しでも楽な生活を送らせたくて、私はすべてを捧げてきた。だけど、もうその家すらなくなってしもたなんて、そんなこと、信じたくなかった。
足元の土を見つめながら、心の奥底から虚しさがこみ上げてくる。
「私は…何のために、何しに行くんや…」
声が震えるのを感じた。自分の足元さえも揺らぐような、この圧倒的な虚無感。目の前がかすんで、涙が一筋、頬を伝うのを感じた。私は、もう帰る場所も、守るべきものも、全部失ってしもうたんや。
「もう…何も、頑張ることあらへんやん…」
その言葉が地面に吸い込まれていく。こんな虚しい気持ちのまま、私にいったいどこへ行けと言うんやろう。胸の中で響くのは、冷たく空虚な音だけやった。
心の奥から湧き上がってくる、どうしようもない怒りと悔しさが全身を駆け巡る。アドラが憎い。こんなはずちゃうやん…約束と違うやん!
目の前に広がる荒れ果てた地面が、私の胸に突き刺さるように冷たく感じられる。私があれほど捧げてきたすべて――体も、心も、何もかも犠牲にして手に入れた力も、全部家族や仲間を守るためのもんやった。それを信じて、どんな地獄でも耐え抜いてきた。それなのに、家も、帰る場所も、何一つ残されていないなんて、こんな裏切りがあるか。
「あいつ、ほんまに許されへん…!」
拳を握りしめるたびに、爪が手のひらに食い込む。怒りで震える自分を抑えようとしても、悔しさがあふれて止まらない。脳裏に浮かぶアドラの冷たい目と薄笑いが、私の心に火をつけ、ますます怒りが膨れ上がっていく。私の命も夢も、あの男にとってはただの駒でしかないんや。全部、利用するだけ利用して、終わったらポイと捨てるつもりやったんやろ?
こんな無慈悲で残酷な仕打ち、耐えられるはずがない。
私はこの土を見下ろし、心の中で静かに誓った。必ず、必ずこの悔しさを晴らしてみせるって。
私は、心に重いものを抱えたまま、王宮へ向かう旅路に出た。アドラへの怒りと、行き場をなくした悔しさが胸の中で渦巻いて、どうしようもない複雑な気持ちに押しつぶされそうになる。これから先、何を信じて、何のために戦えばいいのか――そんな疑問が頭をよぎるけれど、答えなんて出るはずもない。
ただ、足を前へ進めるしかなかった。握りしめた拳には、これまでの犠牲と努力が詰まっている。そのすべてを無駄にしないために、私は王宮へと歩みを進める。




