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赤い悪魔 ルナ・バレンタイン

ルナ・バレンタインが生まれ育ったのは、古の時代から続く名門の家。彼女の世界は、まるで絵画の中に描かれた理想郷のようだった。四季折々に手入れされた広大な庭園は、春には満開の花々が咲き乱れ、秋には黄金色に輝く木々が風に揺れていた。大理石の床に光が反射する広間、繊細な刺繍が施されたカーテン、柔らかな絹の感触が肌に馴染む衣装――彼女の生活は全てが一級品で満たされていた。


大きな窓から差し込む陽光が、邸内の調度品に光の粒を散らし、空気そのものが輝いているようだった。しかし、その眩い美しさの中にいるルナの目は、どこか遠くを見つめていた。幼い彼女にとって、この完璧な環境は当たり前であり、不満を抱く余地など与えられなかった。だが、それが同時に、彼女の心を静かに蝕んでいたのだ。


月明かりが柔らかく差し込む部屋の中で、ルナは鏡の前に座っていた。その鏡に映る自分は、誰もが認める美しさを備えていた。赤い髪は炎のように艶やかで、わずかに波打つカールが優雅に肩にかかっている。透き通るような白い肌には欠点一つなく、その目は深紅に輝き、まるで宝石のルビーのようだった。どこか憂いを帯びた微笑みを浮かべれば、それだけで見る者の心を捕らえ、決して逃さないだろう。


しかし、その目には深い影があった。


彼女は小さくため息をつきながら、鏡に映る自分の指先を見つめた。その指先が軽く動くだけで、周囲の者たちの心は彼女に囚われる。彼女の声、仕草、存在そのものが男たちの心を虜にし、彼らの視線は彼女以外を見なくなる。その事実を初めて知ったのは、幼い頃の無邪気な遊びの中だった。


初めて力を自覚した日は、まだ雪が降る季節だった。冬の庭園で、彼女は年の近い使用人の少年と遊んでいた。無邪気な笑顔を向けて、ただ「一緒に遊ぼう」と言っただけだった。その瞬間、少年の目に宿った熱と執着が、彼女を戸惑わせた。いつもは対等に遊んでいたはずの彼が、その日を境に彼女を崇拝するように振る舞い、彼女の一挙手一投足に心を乱すようになった。


「ルナ様のためなら、何でもします。」


そう言って微笑む彼の目は、どこか空虚で、まるで彼自身の意志が失われているかのようだった。ルナは彼に少しでも楽しい時間を過ごしてほしいと、力を緩める方法を試みたが、それが裏目に出た。力を解いた瞬間、彼の表情はぼんやりと曇り、彼女との思い出をまるで夢の中の出来事のように捉え、次第に忘れてしまったのだ。


「また遊ぼうね。」


そう言った彼女の言葉にも、彼はただ「はい」と曖昧に頷いただけだった。その日以来、彼は彼女に距離を置くようになり、ついには目も合わせなくなった。


成長するにつれ、ルナはその力の本質を深く理解するようになった。自分が誰かを魅了しようと思えば、それは容易だった。しかし、彼女が望んだのはそれではなかった。彼女が求めていたのは、ただ純粋な友愛や信頼、心を通わせる絆だった。だが、その力がある限り、それは決して叶わない夢だった。


広い邸宅の中で一人きり、彼女はふと立ち止まり、外の庭を見つめる。夜の静寂に包まれた庭は、月の光を浴びて銀色に輝いている。木々の間を吹き抜ける風がかすかに葉を揺らし、その音が遠くから届く。だが、その美しい風景の中に、彼女が求める温もりはどこにもなかった。


彼女は心の中で問い続ける。


――私は、ただ普通に生きることすら許されないのだろうか?


その問いに答えるものはなく、彼女の赤い瞳だけが月明かりに静かに輝いていた。


ルナはいつしか、自分に宿る能力を憎むようになっていた。それは生まれ持った力であり、否応なく彼女の存在そのものに刻みつけられた呪いだった。「サキュバスなんかに生まれたくなかった」と心の中で何度も繰り返し、幾度となく涙を流した。だが、その嘆きの声が届く相手など誰もいなかった。


彼女の両親や親族は、彼女の苦しみを理解するどころか、その力を当然のものとして受け入れるよう彼女に求め続けた。「能力を活かしてこそ、真のバレンタインの子女だ」と説き伏せる彼らの言葉は、いつも冷たく、彼女の心に鋭く突き刺さった。彼らにとって、彼女は家の誇りを体現する存在でしかなかった。だからこそ、ルナが涙を流しても、心を押しつぶされるような孤独に苛まれても、誰一人として気づこうとはしなかった。


月明かりが薄く差し込む広いダイニングホール。銀製の燭台に揺れる蝋燭の灯りが、重厚なテーブルの表面に影を落とし、荘厳な雰囲気を漂わせていた。ルナは家族とともに食卓を囲んでいたが、どこか浮かない表情でスープをかき混ぜるばかりだった。


「ルナ、姿勢を正しなさい。」

母の厳しい声が響く。絹のドレスの袖がわずかに揺れる彼女の動きは、見事なまでに洗練されていたが、その声の温かみのなさはルナを凍えさせた。


「わかっています。」

ルナは小さな声で返事をし、背筋を伸ばした。だがその声には反抗心が滲んでいた。それを感じ取った父が、静かにナイフを置きながら彼女をじっと見つめる。


「ルナ、お前はバレンタイン家の名に恥じない振る舞いをするべきだ。我々の誇りを胸に刻め。」


その言葉に、ルナは思わず唇を噛んだ。彼の低い声は、どこまでも威圧的で、彼女に反論の余地を与えない。しかし、その視線の冷たさに耐えられず、彼女はわざとスプーンを床に落とした。銀のスプーンが硬い大理石の床にぶつかり、甲高い音を響かせる。


「わざとらしい真似をするな。」

母の叱責に、ルナは顔を上げずに微かに笑みを浮かべた。それは挑発とも、自己防衛とも取れる曖昧な表情だった。


気がつけば、ルナは反抗的な態度を取るようになっていた。家族の期待に背き、わざとわがままに振る舞い、親族たちを困らせる行動に出ることも増えた。周囲の人々が「出来損ない」「恥晒し」と彼女を罵る言葉を耳にするたびに、ルナは逆に安堵すら覚えることがあった。彼らが自分を憎み、軽蔑するその感情が、彼女にとって「自分の存在が記憶に残っている」という証だったからだ。


しかし、夜が訪れ、誰もいない部屋に戻るたびに、虚無感が彼女を襲った。


広い寝室。天蓋付きのベッドには、柔らかなシルクのシーツがかけられている。窓の外には広大な庭園が広がり、月光が木々や花々を薄青く照らしていた。カーテンが風に揺れ、微かに生温い夜風が部屋に吹き込んでくる。その静けさの中で、ルナは鏡の前に座っていた。


鏡に映るのは、自分でも否定できないほどの美しさ。燃えるような赤い髪、真珠のように透き通る白い肌、宝石のような深紅の瞳――誰もが振り返るその容姿は、彼女にとってはただの呪いでしかなかった。


ルナは指先で頬をなぞりながら、小さくため息をついた。


「どうして、私は誰かと心を通わせることができないのだろう……」


その呟きは、静寂の中に消えた。鏡の中の彼女はまるで別人のように見えた。外見は優雅さと美しさに溢れているが、その瞳には光がなく、影だけが宿っている。


突然、涙が頬を伝った。熱い雫が頬を滑り落ちる感触に、ルナは思わず顔を覆う。それは感情を抑えきれず溢れ出た涙だったが、誰に見せるわけでもなく、誰かに慰めを求めるわけでもなかった。ただ、孤独を埋める術がない自分への嘆きだった。


夜の風がカーテンを揺らし、微かに草木の香りを運んでくる。その香りが彼女の涙を乾かすこともなければ、彼女の心を癒すこともない。ただ鏡の中の自分が、どこまでも遠い存在に感じられるだけだった。


ルナが自分の力に気づいたのは、まだ5歳の頃だった。穏やかな春の日差しが庭に降り注ぎ、花々が咲き誇る中、彼女は母親の手を握りしめて邸宅の庭を歩いていた。その手の温もりは柔らかく、心地よい風が彼女の赤い髪を軽く揺らしていた。


庭の端にある遊歩道には、小さな露店のようなものが並んでいた。それは訪問客や使用人たちが開いた即席の市のようなものだった。色とりどりのお菓子や花束、手作りの人形が並べられており、幼いルナの目は輝いた。彼女はその中のひとつ、綺麗なガラス細工の鳥を見つけた。それは光を浴びて虹色に輝き、見る者を惹きつける美しさを持っていた。


「ほしいな……」


彼女は小さく呟いた。その声は、春風にかき消されてしまいそうなほどか細かったが、彼女の赤い瞳がそのガラス細工に向けられた瞬間、周囲の空気が変わった。彼女の瞳には、まだ幼さが残る純粋な欲求が浮かび上がり、その視線は周りの大人たちを射抜いた。


「これがほしい。」


ルナは小さな指でそのガラス細工を指差し、母親を見上げて言った。それは何気ない、どんな子供でもするようなお願いだった。だが、次の瞬間、周囲の大人たちの動きが変わった。


近くにいた使用人が真っ先に動いた。彼女の目の前にかがみ込み、恭しく手を伸ばしてそのガラス細工を持ち上げると、まるで宝物を捧げるように彼女の手元に差し出した。その表情には、疑念も迷いもなく、ただ純粋な献身が宿っていた。


「どうぞ、ルナお嬢様。」


使用人の声は穏やかで、まるでこれが当然の行為であるかのようだった。さらに近くにいた別の大人たちも、何かを差し出そうと競うように動き始めた。


「お嬢様、お花もいかがですか?」

「こちらのお菓子もぜひ……」


次々と彼女の前に物が積み上げられていく。ルナは最初、その光景に目を輝かせていた。自分が欲しいものが手に入る――その単純な事実が嬉しかった。けれど、その嬉しさはすぐに奇妙な違和感へと変わっていった。


彼らの表情は、確かに笑顔だった。けれど、その笑顔はどこか空虚で、心の底から湧き上がる感情ではないように感じられた。それはまるで仮面を被ったかのような笑顔であり、彼女が何を言っても壊れることのない完璧なものだった。


「これ……本当にいいの?」


ルナは思わず手元のガラス細工を見つめながら呟いた。その声には、少し怯えたような響きが混じっていた。しかし、誰一人としてその問いに戸惑う様子はなく、口々に「もちろんです」「お嬢様が望まれることなら」と答えるばかりだった。


その瞬間、ルナの小さな胸に重い恐怖が押し寄せた。


その日以来、彼女はその力の本質に気づき始めた。何を頼んでも、誰に何を言っても、誰一人として彼女に逆らわない。母親ですら、彼女の欲求に対して諭すような言葉を発することはなかった。どれだけ無理なお願いをしても、どれだけわがままを言っても、誰も「それはいけない」と否定することはなかった。


夜、ベッドの中で、彼女は震えるような声で呟いた。


「こんな力……いらない……」


外から聞こえる風の音が静かに耳を打つ。その冷たい空気が部屋の隙間から入り込むと、彼女の涙が一粒、頬を伝った。周囲の人々の笑顔が偽りに感じられ、心の中に広がるのは深い孤独だった。どんなに人々が彼女の言葉に従っても、そこに「本当の心」はない――幼い彼女は、そのことを本能的に感じていた。


「私は……一人なの……?」


鏡に映る幼い自分の瞳が、赤く揺らめいた。美しく、それでいてどこか恐ろしいその輝きに、ルナは目を背けた。部屋の中はひどく静かで、彼女の小さな呟きだけが虚しく響いていた。


春の穏やかな午後、庭には柔らかな陽光が降り注いでいた。風に揺れる花々の香りが鼻をくすぐり、遠くで小鳥たちが軽やかにさえずっている。その心地よい音色を聞きながら、ルナは一輪の白い花を摘んだ。細い指先でそっと花びらに触れると、その柔らかな感触が彼女の指に伝わる。


そのとき、ふと聞こえてきたのは、小さなすすり泣きだった。振り返ると、庭の反対側で彼女の友人が母親に叱られているのが見えた。友人のドレスは泥で汚れ、その足元にも土が散らばっていた。母親は腕を組み、険しい顔で何かを言っている。その声の内容までは聞き取れなかったが、その場の雰囲気だけで厳しい叱責が行われていることが分かった。


友人は泣きそうな顔をしながら、縮こまり、小さな声で「ごめんなさい」と繰り返していた。母親の手がその頭に触れ、次の瞬間、彼女は静かに頷いて涙を拭った。


その光景を見つめていたルナの胸には、奇妙な感情が湧き上がっていた。心が締めつけられるような寂しさ。自分の中にそれが芽生えたことに、彼女自身も驚いていた。


「いいな……叱られるのって……」


思わず口に出してしまったその言葉に、ルナは自分自身でぎょっとした。なぜそんなことを思ったのか、自分でも分からなかった。ただ、友人が母親に叱られ、その後で頭を撫でられるその姿が、ひどく羨ましかった。


「間違っている」と言ってくれる人がいる。


その事実が、どれほど温かく、心を満たすものか。ルナにはそれが痛いほど分かった。誰かが自分の行いを指摘してくれることは、自分を見てくれていることの証。けれど、自分にはそれがない。自分が何をしても、周りの人々は笑顔を浮かべ、何も言わずに従うばかりだった。その事実が、胸を引き裂くような孤独感を生む。


その日、ルナはある決意をした。


翌日、庭はいつもと違う光景に変わっていた。咲き誇っていたはずの花々が無残に引き抜かれ、あちこちに散らばっている。鮮やかな色の花びらが地面に散り、風に舞っていた。その中心でルナは無邪気な顔をして立っていた。


「きれいな花びらで遊んでみたの。」


彼女の声は無邪気そのものだったが、目にはほんのわずかな期待の色が宿っていた。誰かが、彼女に叱責を与えてくれるのではないかと。


しかし、その期待はすぐに裏切られる。近くにいた使用人が優しい笑顔を浮かべながら、ルナの前に跪いた。


「お嬢様、素敵な遊びですね。でもお掃除をしておきますので、どうぞそのままお楽しみください。」


その言葉を聞いた瞬間、ルナの心には冷たい影が差し込んだ。結局、彼らは何も言わない。むしろ彼女のしたことを正当化し、喜んで片付けを始めてしまう。


それでもルナは諦めなかった。貴族らしくない振る舞いをしてみたり、わざと無茶な要求をしてみたりした。だが、結果は同じだった。誰も彼女を叱らない。誰も「それはいけない」と言ってくれない。


その夜、庭に一人で佇んでいたルナは、静かに呟いた。


「誰か……私を叱ってくれたらいいのに……」


その言葉は、夜風に乗って遠くへと流されていった。耳を澄ませば、庭の木々が風に揺れる音が静かに響いている。月明かりが銀色に輝く花びらを照らし、その景色はあまりにも静寂に満ちていた。


ルナの目には、涙が浮かんでいた。流れ落ちることはなかったが、その瞳に宿る光はどこか虚ろで、鏡のように冷たかった。まるでガラスの檻の中に閉じ込められたかのように、彼女は手を伸ばす。けれど、その手が何かに触れることは決してなかった。


10歳のルナに与えられた新たな役割。それは、王族の姫であるアイリス様の専属メイドという重要な任務だった。その知らせを受けたとき、彼女の胸には小さな火が灯った。それは期待と不安が入り混じった感情だった。この仕事が、自分の人生を変えるきっかけになるかもしれない――彼女はそう信じたかった。


その日、ルナは王宮の長い廊下を進んでいた。赤い絨毯が靴音を吸い込む中、両側の壁に掛けられた豪奢な絵画や繊細な彫刻が、彼女の目を圧倒した。窓から差し込む朝の柔らかな光が、大理石の床に反射し、廊下全体を金色に染め上げている。薄いカーテンが風に揺れ、その静かな動きが緊張で固まったルナの心をほんの少しだけ和らげた。


手に汗を握りながら、アイリス様の部屋の前に立つ。ドアの前には立派な装飾が施されており、その威厳に満ちた佇まいが彼女を一瞬怯ませた。しかし、深く息を吸い込み、小さく胸に手を当てると、自分に言い聞かせた。


――私はやれる。ここで人生を変えられるかもしれない。


意を決して、ルナは木製の扉をそっと叩いた。ノックの音が廊下に響くと、わずかな間を置いて扉が静かに開かれた。その音は驚くほど軽やかで、まるで部屋が自ら歓迎しているようだった。


扉の向こうに現れたのは、アイリス様だった。まだ幼さの残る顔立ちに、凛とした気品が宿っている。黄金の髪はふんわりとカールして肩に流れ、純白のドレスがその小さな体を包んでいる。彼女の瞳は青空のように澄んでおり、その視線がルナの心を一瞬で奪った。


「よろしくね、ルナ。」


アイリス様の声は柔らかく、まるで風に舞う羽のように軽やかだった。その一言が、ルナの胸に暖かな波紋を広げていく。緊張で固まっていた心が少しずつ溶けていくのを感じた。


アイリス様は小さな手を差し出した。その動きには余計な力が入っておらず、自然で、なおかつどこか優雅だった。ルナは一瞬ためらったが、その手をそっと握り返した。彼女の手は驚くほど温かく、その温もりが冷えきったルナの心にじんわりと染み渡っていくようだった。


「は、はい。どうぞよろしくお願いします。」


声が震えないようにと必死に気を張りながら答えると、アイリス様はにっこりと微笑んだ。その笑顔は柔らかく、太陽のように暖かかった。ルナの心の奥底に潜む孤独や不安が、一瞬だけ消えていくような気がした。


部屋の中に招かれたルナは、静かにその空間を見渡した。天井には豪華なシャンデリアが吊るされ、窓辺には繊細なレースのカーテンが揺れている。窓から差し込む光が白い壁を照らし、部屋全体を明るく包み込んでいた。中央にはふかふかの絨毯が敷かれ、その上には可愛らしい椅子やテーブルが並んでいる。どれもアイリス様の雰囲気にぴったり合っていて、その完璧さにルナは感嘆を覚えた。


「ルナ、これからよろしくね。何でも言ってね。」


アイリス様はルナをじっと見つめ、優しく語りかける。その声に宿る暖かさが、ルナの心を震わせた。この人のためなら、何でもできる。彼女を守り、彼女の力になりたい――そんな強い思いが、ルナの中に芽生えていった。


それは、ルナにとって初めての「仕える人」との出会いだった。彼女はこの日を境に、アイリス様のために生きることを誓った。これまで誰からも必要とされていないと感じていた自分が、初めて誰かのために役立てる。そんな思いが、彼女の胸に小さな希望の灯火をともしたのだった。


ルナがアイリスに仕えるようになってしばらく経つ頃には、彼女は他のメイドたちとの衝突が日常茶飯事となっていた。豪奢な廊下の片隅や、広々とした庭園の陰で、メイドたちが困惑の表情を浮かべているのを見つけるのは、もはや日課のようになっていた。


「どうせ誰も私を叱らないんでしょ?」


彼女は皮肉めいた言葉を投げかけ、彼女自身も何を期待しているのか分からないままに、わざと問題を引き起こした。引き抜いた花を床に散らかしたり、食器をわざと倒して割ったりしてみても、誰も彼女に厳しい言葉を投げかけない。ただ、困惑と疲労の色を浮かべながら片付けを始めるだけだった。


ある日、ルナはさらなる悪戯を思いついた。


市場の広場。活気あふれる市民たちの声が飛び交い、色とりどりの商品が並べられている。賑わいの中に立つルナの目は、その景色を退屈そうに見つめていた。隣にはアイリスが立ち、優雅な笑みを浮かべて市民たちに挨拶を送っている。その姿はまるで光そのもののようで、ルナは無意識にその横顔に目を奪われた。


「……少し、遊びましょうか。」


ルナが小さく呟くと、その赤い瞳が一瞬だけ妖しく輝いた。彼女がゆっくりと周囲を見渡しながら指先を軽く振ると、市民たちが次々と動きを止めた。そして、彼女に向かって無意識のまま膝をつき、頭を垂れる。


「ほら、見てください。面白いでしょ?」


ルナは笑みを浮かべながら、アイリスに目を向けた。その目にはいたずらの成功を誇るような光が宿っていた。市民たちは一様に沈黙し、彼女にひざまずくその姿はまるで人形のようだった。


だが、その静寂を破ったのは、アイリスの声だった。


「ルナ!ダメだよ!むやみに能力を使ってしまっては、めっ!」


その声は鋭く響き、ルナの胸に強く突き刺さった。


一瞬、彼女は息を呑んだ。アイリスが自分を叱った。その事実に驚き、そして――思わず笑みがこぼれた。「めっ」という子供っぽい叱り方が妙に可愛らしくて、笑いが込み上げてきたのだ。


「ふふ、アイリス様、めっ…って可愛いですね。まじウケる、でも、そんなことより…ちゃんと私を怒ってくれた。私に“ダメ”って言ってくれる人がいるなんて…」


ルナの心は歓喜に震えていた。叱られることで自分がアイリスにとって大切な存在であるかのように思えたのだ。彼女の胸の奥から湧き上がるのは、これまで感じたことのない不思議な高揚感。


「はー…もっと、もっと叱ってください。私の悪いところを、ちゃんと指摘して…はーたまらない…」


ルナは、自分が少しずつアイリスに依存していく感覚を感じながら、彼女の「叱り」を待ち望むようになっていった


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