プロローグ
ここ数日、曇り空が続いている。
長くて退屈な国道を運転しながら、昨夜のちょっとした逢瀬を思い浮かぶ。すっきりと外見をまとめ、穏やかな口調で、何の変哲もないことを話す男だった。ありがちで、薄っぺらい。おそらく大学生になって、新しい自分を見つけたいなんてファッション誌を眺めながら、まがい物のような安ブランドを身に着け、仲間内で口説いた女のことを自慢しているんだろう。そんなくだらない男に微笑む私も、よっぽどな人間なのだろうけれど。
坂道を下って、住宅街を抜けた先を右、いくつかのカジュアルなショップが並ぶ並木道に、見えてくる小さな洋風家屋。
「Stray Cats」
ショーウィンドウに並ぶ小さな猫たちを横目に、私はショップのわきに自転車を止める。壁に張られた「子猫、ご相談下さい。」の張り紙を横目に、裏口から店に入る。ドアのそばにある流しで手を洗うと、段ボールだらけの狭い通路をすり抜けてカウンターの裏へでる。
店内には人影がない。いくつもあるショーケースにはいつものかわいらしい子たちが並んでいる。目のくりっとしたもふもふのメヌエットや、りりしい眉をした金毛のサイベリアン、小さくて足の短いスコティッシュフォールド。猫たちはたくさんいるのに。どうせどこかのケージの裏で作業でもしているのだろう。
「こんにちは。」
できるだけいつも通りに、つっけんどんな声で店内へ呼びかける。茶トラのショーケースをまたいだ向こう側でがたっと音がして、ひょっこりとぼさぼさの頭が飛び出してドキッとした。
「真梨くん。来てたんなら言ってくれたらよかったのに。」
「今来たところですよ。」心臓の音を抑えるように、できるだけ声を穏やかに言う。「シュウさん。今、何してたんですか?」
「新しい業者さんが届けてくれた箱がさ、」修平さんは困ったように微笑んだ。「なんだろ、すごい、こう、変な構造でつぶしにくくてさ。どうやったらつぶせるかって底のほうを見ながら考えてた。」
「いや、考えてないで試しましょうよ。」:
「むやみやたらに試行するのは、なんだか好きじゃなくってね。」
「あなたがそれを言うんですか。」
私のどこか冷めたような声に、修平さんは困ったように微笑む。
このペットショップのオーナー。細面ですらっとしたあご、眼鏡の奥の瞳は碧く、何かをいつも見透かされているような、見守ってくれているような、そんな感覚に陥る。少し青白い頬が、だけど、彼のその優しさを、誠実さをすこしだけ陰らせていた。
「今日は大学は?」
「二限までだったので。シュウさん先にご飯食べますか?」
「そうだね。そうしようかな。」
彼はよっこらしょ、と立ち上がると、私にいくつかの指示をしてカウンターの奥へと入っていった。そこは簡易的なパイプ椅子と事務処理用のデスクトップパソコンが置いてある。すべてレジに集めてしまえばいいのに、と伝えたこともあるのだが、お客さんの前には生々しいものをできれば置きたくないのだという。どちらにしても支払うのはお客さんではないのか、と聞いてみたのだが、「そういうことではないんだよね。」と、いつもの困ったような笑顔で返されてしまった。きっと彼自身の中では、私が思っているよりももっとたくさんの思いがあるのだろう。
このお店は、彼の亡くなった恋人が望んだお店だったらしい。
「人とかかわることがどうしても苦手だった僕を、彼女は何も言わず支えてくれたんだ。彼女は僕にとっては今でも神様みたいな人だったし、誰よりも大好きな人だった。2人でペットショップをやりながら、結婚しようって、きっと未来を一緒にいようって思った矢先に、彼女はいなくなってしまった。」
お店でショーケースを掃除していた時、何気ない会話の中で、彼はこのお店を始めた理由をそんな風に話してくれた。
「だから僕は、どんなことをしても、このお店を守りたいし、この子たちに幸せになってほしいって思ってる。それが僕の義務だし、望みなんだ。」
遠い目をして、どこか嬉しそうに話した彼のことを、けれど私は素直にかわいいと思ったし、素直に恨めしいと思った。
⁂
「よし、これで終わりだ。真梨くん、あがっていいよ。」
修平さんが掃除を終えた箒を棚にしまうと、ふっと振り返って私に言った。私はレジを閉めて、お疲れ様です、と答える。
「それじゃ、今日は上がりますね。例の籠、持っていきます。」
私の言葉に、修平さんは本当に困った顔をする。
「何度も言うけれど、それは僕がやるべきことで、君がやっていいことでは絶対にないんだよ。」
「シュウさんがやっていいことでもありません。」私は裏口のそばに置かれた、布のかけられた小さなケージを持ち上げ、ぴしゃりと言い返す。「それに、私もこのことに納得はしてます。これ以上貴方が壊れていくのを、私は見たくない。」
修平さんは何も言わない。ただ困ったように唇を結び、じっと私を見つめている。私はなんだか息が詰まって、その視線をふいっと外した。
「それじゃ、今日は失礼します。また明日。」
修平さんは少しためらっていたが、私は彼の言葉を待たず踵を返した。自転車に乗り、彼に軽く頭を下げて走り出す。辺りはもう、暗くなっていた。
住宅街を抜け、家に戻る道すがら右にそれる。山袖の緩やかな坂の前で自転車を止めると、私は自転車の籠からケージを取り出して坂を上り始める。
低木の並木が続く坂道をゆっくり上っていく。週に一度登っていくこの坂道にも、もうずいぶんと慣れた。ケージはいつもより軽めで、それでも心の重さは変わらない。
ゆっくりと二十分ほど登ると、そこは見えてくる。
街を一望できる展望台。そこから少し歩くと、林に覆われた谷がある。
山に近いこの盆地で、切れ切れに光る街の灯りは美しく、その裏側の暗闇を望む人などここにはいない。展望台からの眺めに目を奪われる人はいても、そこからさらに上った岩場になど目を向ける人はいるはずがなかった。
足場の悪い石の階段を登る。手元のケージは一切動くこともなく、おとなしく手元に収まる。階段を登り終えれば、一枚岩が壁にせり出した拓けた場所に出る。木々の合間を抜けて突然視界が開ける感覚は、この重苦しい気持ちの中でも少し胸がすっと抜けるような、安心感みたいな気持ちを覚える。
ケージを足元に置いて、ゆっくりと息を吸い込めば、夜の森の冷たい空気が肺を満たしてゆく。ゆっくりと心を落ち着かせて、そして、そっと、ケージの布を取る。
すやすやと薬で眠る子猫は、あまりにもかわいらしい。2匹頭を寄せ合うように体を横たえている。
心臓がきゅっと縮まる。何度ここへ来ていても、この感覚だけは慣れない。こういう時は、目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。そうしてこれから起こることを淡々と受け入れる。
そうするしかない。
ケージをゆっくりと開ける。ゆっくりとケージを持ち上げ、岩の端へむけて、私は彼らを放り投げた。
風の音。月の光。遠くから、木の枝が折れる音がする。
私の髪を強い風が流れてゆく。まるで私をくるむように。あるいは、攻めるように。
私は罪を背負った。そして、背負う。
ケージを布でくるみ、私は階段を降りてゆく。