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Pieris rapae  作者: 椎名 碧
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モシロとアゲハ

 しまった。迷った…。爺様が買った別荘は確かこの辺りだった気がするんだけどなぁ。


 都心から程良く離れた高原地帯に隣接するここにはあちらこちらに別荘が点在している。その中にある爺様が私にくれた別荘の敷地は無駄にだだっ広い。どこまでも続く森は小さい頃に覚えた目印なんぞ役に立たなかった。車から降りて道を確認する。道と言っても途中まではアスファルトで舗装された綺麗な道路だったけれど、途中からは砂利となり、草が生い茂り、次第にけもの道の様相を呈した。どっかで間違えたんだ。一本道だと思っていたのに…。


 もうにっちもさっちもいかない状態だった。


「ぬーん。意地を張らずにアゲハに送ってもらえば良かった…」


 確か昼ごろにはその別荘に到着する予定だった。だけど太陽は西の峰に沈みこもうとしているのが、木々の間を抜けた光によってかろうじて分かる。


 わざと軽口を叩いて見せはするけれど、都会よりも早く暗さが増す森の中では不安が増すばかり。


 風森かざもりモシロ…。儚く26年の人生を終えます。爺様、やっぱり私は爺様の傍がいいようです。


 全てが嫌になった。少しの間だけでも一人になりたかったけれど世間がそれを許してはくれなかった。そのせいで限界を超えてしまった。だからアゲハに頼んで時間を貰った。自分を取り戻すために。


 ばさっという音にビクリと体が揺れる。辺りはどんどん暗くなっていく。こんなはずじゃなかった。慌てて車内に戻る。泣きそうだ。でも泣いたからって助かるとは思えない。お腹も空き過ぎた。携帯の電波なんて届かないこんな所では、私の事なんてもうきっと誰も見つけられない。きっと何も知らない人達は笑うんだ。どこぞのお金持ちのお嬢様が無茶した結果だと。


「あは……はは……」


 乾いた笑いが少しずつ寒くなっていく車内に響いた。


 辛かった。沢山のプレッシャーとそれに抗う事に疲弊してしまった。


 アゲハに頼んで爺様との思い出が詰まった別荘に隠れる事にした。携帯どころかテレビすらないそこは現を忘れるには最適に思えた。別荘でなくても、と初めは渋っていたアゲハだけれど、私の様子を見て最後は承諾してくれた。


『そこまで言うならアゲハは何も言いません。ただしあそこはまだ携帯の電波が届かない所ですよ?管理人の方がいきなり行かれては困りますし、今は体調を崩していて家の手入れも行き届いていないそうです。何より私は後始末があるから同行できませんよ?モシロはそれでも大丈夫ですか?』


 私が向かったそこは、古くからの別荘地帯で地元の人はあまりおらず、大手の別荘管理会社が一手に引き受けているが、うちは古くからお願いしている管理人がいるので、それらは利用していなかった。それも爺様の代の話で、コストパフォーマンスを考えて、自分達が行く前に連絡をして掃除をしてもらい、後は時折防犯の為に周辺を見てもらっている程度だ。それも私が滞在している時には行われない。爺様が居る時にはその管理人さんが頻繁に出入りしていたから、必要なかったけど、まぁ、電話回線くらいとっとと契約しておけば良かったな、と今更ながら後悔している始末。


 小さい頃からいつも傍にいたアゲハ。いつも優しい眼差しを向けてくれた彼が初めて見せた厳しい顔。それでも私は怯まなかった。そんな彼が認めてくれたのはきっと私の心が崩壊寸前だと思ったからだろう。

 爺様との思い出の場所に行きたかった。身勝手な父親とその親戚から守ってくれた唯一の存在の爺様。


『1か月。1か月経ったら必ず帰ってきてください。それが約束です。それまでは一切連絡を取りませんから。私もそれまでに全ての蹴りを付けておきます』


 アゲハにしたら苦渋の決断とも言えるだろう。いつも私に向ける穏やかな表情が歪んでいた。あんなに眉間に深く皺が刻まれた顔なんて見た事なかった位だから。


 雪が降らないとは言え高原の夜は極寒だ。そう言えば爺様は時折夏場ですら暖炉を焚いていた。ひもじい上に寒いなんて…。後部座席に放り込んでいたウールのショールを体に巻きつけてそのまま蹲って泣いた。



 * * * *


 私は風森建設の外腹の娘だ。父が浮気して出来た子だ。幼い頃に本当の母が亡くなり、本邸に引き取られたが、当然ながら周囲の目が厳しくて、爺様が私を守るように常に傍に置いてくれた。アゲハはその時爺様の秘書の息子で私の世話係でもあった。

 アゲハはクオーターだ。ハーフの母親譲りの綺麗な青い瞳、やや茶色の混じった艶のある髪、細くしなやかな体躯…。艶やかなその姿はまさにアゲハ蝶の様だ。そんな彼に恋をした時期もあった。でもアゲハは絶対に私の思いを受け入れなかった。幼い私は理由も分からず泣きじゃくって随分迷惑を掛けた。

 そうして暫くして落ち着いた私は、アゲハへの気持ちが憧れだったのかもしれないと気付いた。


 余りにも近くにいたせいか、ドキドキするという事が分からなかったあの頃。少なくとも同級生達が騒ぐような心臓が跳ね上がるような高揚感などというのを、アゲハに対して抱いた事がない。頭がよくて綺麗なアゲハは傍にいると確かに気持ちは明るくなるけれど、それは一種の精神安定剤のものみたいで恋心ではなかったんだ。


 中学も終わりという頃、アゲハもまた別の外腹の子、つまり腹違いの兄であると知った時、さすがに父に飛び蹴りを入れた。もうその頃はアゲハに対して恋だのなんだのという感情は無かったけれど、父のせいでもしかしたら当時の乙女の純情が崩れ落ちたと考えると腹が立って仕方ない。


 それを知って改めて考えると可哀そうなのは本妻である母だ。ずっと子どもがいなかった上に、当てつけの様に外の女に子どもが次々と生まれる。それでも本妻としての役目をこなし、前を見ている彼女に凛々しいまでの強さと葛藤を見た気がした。


 私は母から嫌がらせを受けた事はなかった。特に可愛がられもしなかったけれど。それらを行っていたのは微妙な近さの親戚たちだ。私の存在を疎ましく思い、私によって自らの利権を害されるという心配をしていたやつら。親戚一同が集まった時など、まだ訳の分からない年頃の女の子を寄ってたかって蔑んだ。やれ、本筋ではない、やれ男ではない、やれ妾の子だ…。分別のない大人ってお金が絡むと本当いやらしい。爺様やアゲハがいなかったらとっくの昔に飛び出すか死んでいた。間違いなく。


 だけど幸いにも今の私には弟がいる。これが本妻である母の子どもだ。苦しくて辛い不妊治療の末ようやく授かった。私と15歳も離れている弟はそれはそれは可愛がられている。おかげで周囲の視線が私から外れた。誰も文句のつけようがない正真正銘の嫡男が出来たのだから。

 ぞんざいな扱いはそのままだけれど嫌がらせを受けなくなった。弟は私を姉と慕ってくれたけれど、私は適当に距離を取り、これ以上余計な火の粉が被らないようにした。


 アゲハと私は幸いにも爺様譲りの頭脳があった。大學では経済学を学び、まだ学生の身だった頃からアゲハと共に爺様の会社を裏から支えた。爺様は『息子は碌でもなかったがお前達は自慢の孫だ』と成人してからも常に傍に置いてくれた。おかげでもの凄い社会勉強が出来た。所謂処世術も身につけた。


 爺様の下で色々と学んだ私とアゲハは生活力がついた。だから遺産相続などで揉めるのが嫌で、それらを放棄しようと申し出たけれど爺様がそれを許さなかった。外だろうと内だろうと自分の孫には変わりはない。爺様はその主張を最後まで曲げなかった。


 そこで主だった不動産と株、貯蓄の大半を本妻の息子である弟が継げるようにし、私は別荘と都内のマンション、幾ばくかの現金、アゲハも同じようにマンションと現金を貰い受ける事になった。

 ただ、それ以上に問題があった。父が経営者の器ではなかった。爺様が亡くなった後、それまで爺様に邪険にされていた父様が経営者を名乗り出た。本妻の息子が後々の跡継ぎと思った重役たちは社内での私とアゲハの居場所を奪い色々と画策し始めた。


 もめ事を起こす気が無かった私とアゲハはあっさりと手を引き、新たに会社を興した。そうしたらそっちが大当たり。爺様仕込みの経営手腕を思う存分発揮できた。アゲハが社長になって欲しかったけれど、それを頑なに拒み、私が社長となってアゲハが秘書として常に傍にいてくれた。


 だからもう父達とは縁が切れたと思ったのに…。


 私達の会社とは逆に経営が落ち込んでいった父の会社。あんなに無碍に扱っていた私達に突然取り入ろうと纏わりつく親戚たち。私が独身でまだ26歳なのをいい事に、自分達に都合のよいお見合いの話を次から次へと持ってくる。私とアゲハの関係を穿った見方をして変な噂を立てる者も少なくなかった。


 いよいよ危うくなった父の会社の重役たちは、ついにはプライドを捨てて私達に泣き縋ってきた。でもどうしろというのだ。こんなになるまで放っておいた会社を立て直す呪文を、私達が持っているとでも言うのか?自業自得だ。爺様の信用と血と涙の結晶を軽く見た罰だ。


 時すでに遅し。破産は免れないという所まで来ていた。ふがいない父はどうでもいい。まさに自業自得だから。だけど弟には罪が無い。このままでは弟と本妻であるお母様があまりにも可哀そうだ。


 そこで仕方なく私達はそれでも悪あがきしようとする父をお飾り社長として据え置き、裏ではホワイトナイトよろしく弟がその年になるまで会社の経営を代行することにした。

 降ってわいた様な重圧。お金の匂いを嗅ぎつけてきた輩。私達の会社は優秀なプレインによって支えられていたけれど、そちらにまで手を伸ばそうとしてくるハイエナ達。私の脳みそはオーバーヒートを起こしかけていた。


 ある日母様が言った。


「ありがとう。もう充分よ。全て終わらせましょう」


 あの毅然としていかなるものにも動じないと思っていた母様が、私にゆったりと頭を下げてお礼を言ってくれた。涙が出てきた。母様は全部分かっていたのだ。父の人となりと、それがもたらす結果を。そして私達にこれ以上迷惑を掛けられない、そう思って申し出てくれたんだ。


 結果会社を畳む事になった。爺様が心血注いだ会社を。悔しかった。父、役に立たない経営陣、自分の利益になる事に必死な重役たち。全てに怒鳴りつけたかった。

 父に社長としての最後の仕事を与え、私達は会社の後始末や社員へのフォローに走り回った。でも何も知らない人たちは私達が余計な手出しをしたからだ、と非難してきた。マンションの入り口にも押しかけて来た。


 なかなかマンションから出れずに、家の中から指示を出すという日が何日も続いた。過剰なストレスに見る見るうちにやせ細った私にアゲハは「ごめんね。私がモシロを社長にしてしまったから、あなたを矢面に立たせる事になってしまいました」と抱きしめながら何度も謝った。


 そんなことない。アゲハはいつも私を守ってくれた。私は貴方が兄であると知った時に、失恋の悲しみよりも、嬉しさが勝っていた。爺様以外に家族と心から言える人がアゲハであることが何よりも嬉しかった。アゲハが支えてくれたから今まで頑張れたんだ。


 でもやはり無理が祟った。大体の見通しがついた時、ついに私は倒れてしまった。数日間の入院をした後、私が暫く別荘に籠りたいと申し出た時に、アゲハはこれ以上ない位悲しい顔をしていた。大丈夫だよ、アゲハはちゃんと私を支えてくれているから。でもね。すこしこの状況から解き放たれたいの。


 アゲハは自分の元に置いておきたかったと言った。アゲハ、私はねアゲハが大好き。でもアゲハと私はつがいじゃないよ。私達は近くに居過ぎたんだ。兄妹というよりも戦友?魂の片割れ?いつか二人で笑ったよね。年こそ離れているけれど、アゲハと私はまるで一つの卵細胞が細胞分裂する際に分かれた一卵性の兄妹みたいだって。

 だから私は分かるんだよ。アゲハの心に育まれている淡い心が。でも私がフラフラしていたらアゲハはそっちに行けないよね。だからほんのちょっと時間をちょうだい。自分を取り戻すから。絶対に取り戻すから…。




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