第一章 第3話 - はじめての異世界だブウ -
あぁ、なんだろうこれ
すごく気持ちがいいな…………
頬を心地の良い風が撫でていくような感覚
やや冷たく感じる空気が、むしろ心地よい
その風に乗って、土と草のにおいがする
何年も忘れていたような、懐かしいにおいだ
そうか、さっきから耳に聞こえるこの音は
草や木々の葉が、風に揺れて擦れる音か
ちいさく水の流れるような音も聞こえる
瞼の向こうは、もうずいぶん明るいようだ
あぁ、なんていい朝なんだ
いつもだったら、日の光もわずかしか入らない部屋で無機質な天井を見ながら起────
…………
待て
違う
違うだろ!?
俺はいつも通り、その代わり映えのない部屋で
寝ていたはずだ!
「っ!?」
我に返り、身を委ねていたまどろみから一気に覚醒する。
そうだ、俺は22時に部屋の明かりを消してベッドに横になったはず。
いつもなら渋々身を起したあと顔を洗い、昨晩のうちに用意していた朝食を済ませたあと、近いうちに新調しなきゃと毎朝感じているくたびれたスーツの袖を通し、学生の登校の喧噪を避けるためにだいぶ早めに家を出る。
そんなルーティーンをこなすはず
はず、なのに────
「…………………………!?」
周囲を見渡した俺は、あんぐりと口を開けたまま言葉を失ってしまった。
呆然自失という言葉は、今まさに俺のためにある。
目覚めたそこにいつもの部屋はなく
それどころか天井も、建物すらもない。
柔らかな芝のような草花が生い茂る、のどかな青空の下であった。
周囲には名も知らぬ広葉樹の木々がまばらに立っており、その隙間からはさんさんと陽光が差し込んでいる。
体温よりもだいぶ冷たい風が吹き抜けていっては、周囲の草花や高木の葉はサラサラと揺れており、緑のなかに紫や黄色の花々が散らされた絨毯の長い毛並みが鮮やかになびいているように見える。
右耳にはせせらぎの音が聞こえ、見れば少し離れたところに川が流れている。
水の流れによって角の取れた小石でかたどられた川幅は、かなり大きいように見えるが、大気との温度差により生じているであろう湯気のむこうには対岸も見えた。
しぶきがほとんど立っていないところを見ると、かなり浅い川のようだ。
そして、対岸にも見える広葉樹林のさらに向こうには頂上付近にわずかに冠雪した、大連峰が連なっている。
山の上は植物がそう簡単に育たない標高なのだろうか、山の表面は灰色の岩石質で覆われているように見える。
空の青とのコントラストが美しく、より雄大に感じた。
「(すごい景色だ……。行った事は無いが、北欧の国々ってこんな感じなんだろうか……?)」
近年まるで触れる機会のなかった大自然に突如として囲まれ、俺は圧倒されていた。
あまりの美しさにため息が出たが、肺いっぱいに入ってくる高山地帯の空気は頭の中まで真っ白に澄み渡らせてくれる。
目覚めた瞬間からあたたかな光を浴び、さわやかな風を浴びる。たったこれだけの事なのに、俺は近年感じていなかった清々しさを感じていた。
しかし徐々に、自分がこの景色のなかにポツリと座っていることへの並々ならぬ異常さを、じんわりと自覚してきた。
あれは、夢じゃなかったんだ。
夢だったら、今頃とっくに忘れてるはず。
ハッキリと思い出せる。
俺は昨晩、緑色の肌をした自称女神に自らの意思でこう言ったのだ。
俺は、異世界へ行きたい
「(……ここは、本当に異世界なんだろうか……?)」
正直なところ、まだ何も実感がわかない。
突如として落とされたこの場所は、あまりに雄大な世界ではあるものの地球でも存在しうる風景だ。
なにかのドッキリで、眠っている間に山間部に放置された可能性だってあるかもしれない。
いや、待てよ。
もしかして今この瞬間も、まだ夢を見てるんじゃないか?
そう感じて、体を支えていた腕を動かし、瞼をこすると────
「!? ウ"ッ────!?」
瞼に、ごつごつとした固いものが触れた。
人差し指の背で目をこするつもりでいた俺は、あまりの違和感に驚く。
こんな固いもので目をこすっては、痛いに決まってる。
一体俺は、なにを目に──────
俺は、一瞬にして言葉を失った。
顔に触れるために動かしているはずの自分の右手が
見たこともない太い指と、分厚い爪をもつ太い腕に変わっていたのだ。
とても人間のものとは思えないほどの筋肉で覆われている。
そして何よりも恐ろしかったのは
色白であったはずの自分の腕が
みたこともない緑色だった。
「……あ…………あ、ぁ…………!」
全身に震えが走る。
その震えは、いままさに見ている、目の前の右手にも及んでいる。
恐怖によりわなないているこの右手は、間違いなく自分のもの。
震えを抑えたい一心で右手をつかんだ左手も
また、緑色だった。
「う"わ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」
とても自分の声とは思えない。
俺は恐怖に耐えきれず叫び、仰向けに倒れた。
そして、見てしまった。
両腕はおろか、胸や腹も緑色の肌。
その腹は、なにかの冗談かと言いたいほどにでっぷりと膨れている。
その向こうに見えたのは、股間のもの。
それさえも30年ものあいだ見慣れたモノとは大きくかけ離れ、信じられないほどに巨大化している。
これは、間違いなく俺の身体。
化け物に変わった、俺の……!
「ああああ!! あああああああああああああ!!」
胸を掻く。
爪が皮膚を削る。
痛い。
爪の通った箇所がひりつく。
どうしよう、間違いない。
これは俺の身体。
まるで怪物だ。
頼む。
頼むよ、誰か。
夢だと言ってくれ。
これは夢。
俺は跳ね起きて、どたどたと小川へ向かって走り出した。
河原の小石を蹴飛ばし、踏みつけ、水辺へとたどり着く。
何も考えることができなくなり、浅い小川の水面へと倒れ込む。
小川の水は、肌寒かった風の温度よりもさらに冷たい。
一瞬にして体表の温度が奪われ、全身が粟立つ。
水面の底に沈んでいる両手の甲は、水の中でも緑色をしている。
一心不乱にこすってみたが、何も変わらない。
どうして。
違う。
俺の腕じゃない。
信じたくない一心で、水中の両手をにらみつけていると
ふと、水面に何かが見えた。
自らがおこした水の波紋が収まるにつれ、徐々にくっきりと姿を映し──
俺は絶望した。
それは紛うことなき、自分の顔。
丸太のごとく太い首に支えられた顔は人間とくらべてあまりにも歪な頭蓋により形作られており、額や頬、顎のラインはまるで瘤のようにでこぼこしている。
毎日それなりに整えていた眉はほとんど消え去り、その下に見える真っ赤な虹彩をもつ瞳が、不安気にこちらを見返していた。
恐ろしさのあまり震えている下あごからは、唇の隙間を縫って巨大な牙が左右1本ずつ天に向かって突き出ており、荒げた息にあわせて白い呼気が首筋へと流れていく。
頭髪は頭頂部にわずかに残っているだけで、薄汚れた茶色いモヒカンのような形になっている。
そしてひときわ目を引くのが、醜い顔の中央に埋め込まれた巨大な鼻。
豚や猪を思わせるほど縦に伸びた鼻の孔が、顔の正面に向いて鼻水をたらしている。
あまりにも醜いその姿は、俺の心を粉々に打ち砕いた。
「……ひッ…………ぅ…………う、ぅ…………」
再び水面が揺れる。
それは、自分が落とした水滴によりつくられた波紋だった。
「う、うぅぅ……!ブフッ、ブウウッ……ウウウウウウ……!!」
頼む。
夢なら醒めてくれ。
混乱と、恐怖と、後悔と……様々な感情が一度に押し寄せ
俺は、泣いた。
「ヴォオオオオオオ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"!!!」
天を仰ぎ、力の限り叫ぶ。
紅い瞳を包む眼窩はゆがみ、ぼろぼろと幾粒もの涙が流れ落ちる。
咆哮により生じた空気の振動は流れゆく川の水をビリビリと揺らし、近くに積み重なっていた河原の小石はカラカラと音を立てて崩れ始める。
目覚めたときにいた方角の林からは、怪物のごとき声に身の危険を感じたのか、何羽もの鳥がギャアギャアと鳴き声をあげながら飛び去って行くのが見えた。
俺は、怪物になってしまったのだ。
◇ ◆ ◇
どれほどの時間が経ったのか解らない。
ひとしきり感情を出し切り、俺は河原の小石の上でぼんやりと座り込んでいた。
あぐらをかいて座っていたのだが、石の上だというのに全く痛くない。
それどころか、異常に太い足をくんだ下半身はどっしりと体重を支えており、妙な安定感さえある。
健康診断を受ければ一発退場を宣告されそうなほどに膨れた下っ腹がなぜか妙に心強く感じてしまい、そんな自分にゲンナリしていた。
文字通り涙が枯れるまで叫び続けた俺は、いっそう高くなった陽光を反射する川の流れを見ているうちに、徐々に冷静さを取り戻した。
朝よりも少しだけ高くなった気温が背中をじんわりと包み込むように温めてくれており、こんな姿になっても自然の懐の大きさというものを実感している。
昨晩、あの悪魔……もとい、自称女神が言っていた言葉を思い出す。
大きな身体、強大な腕力、頑丈な四肢を授ける、か。
あああああああ、くそったれ!
すべて叶えてくれたな!
確かに間違いない!
「うぅ…………でも……化け物になるなんて、きッ、聞いてないブウ……ッ!?」
恨みをこめた独り言を吐いた瞬間、思わず息をのむ。
語尾が ”ブウ”。
はあ
ちくしょう
マジで許せねぇ。
こんなところまでキッチリやりやがって。
ムカつくけど、あいつ仕事できるじゃねえか……。
俺も諦めがついたのか、つい笑ってしまった。
この顔は、姿は……まさしく化け物、モンスター。
たとえこれが異世界ではごく普通に存在しうる生物の姿であったと仮定しても、このツラは間違いなく善良な存在ではない。持てる知識のなかで、近い存在を挙げるとすれば……
オーク。
ファンタジーではおなじみの、悪役モンスター。
人間よりも強大な肉体を持つものの、知能は人間より下かまたは無いに等しく、最近見たマンガでは『豚鬼』なんて文字をあてられたりしていた。
その剛腕でか弱い人間を屠り、略奪の限りを尽くし、欲望の赴くままに食べ、人間の女性を犯し、そして大抵の場合は正義の勇者に殺される。
なんてこった。
俺が実現したかった欲望をライフワークにしているような怪物だ。
これは偶然なのか。
この姿をあてがわれた以上、俺の未来で待っているのもそんな運命なのだろうか。
運命。
さぁて……、これからどうするべきなのだろうか。
あの自称女神は、俺が欲望を発散できるように異世界へ連れていくと言っていた。
だが、もはや現時点で俺が思い描いていた「欲望の発散方法」とはかけ離れている。
俺はあくまで人間として異世界を渡り歩く想像をしていただけに、今となっては欲望を叶えたいという気持ちすら沸いてこない。
そもそもこんな身体を与えられたところで、この世界で生きていける気がしない。
見渡す限り自然につつまれたこの地点からは、少なくとも人の営みは全く感じることができない。
30歳のごく一般的なサラリーマンをやっていた身では、こんな大自然に放り出されたところで生きていく術など身に着けていないぞ。
俺は転生して早々に、この命が終わるときのことを考えはじめていた。
というよりも、このままこの世界に居れば食べ物を調達することもままならず、自然と死を迎えるのではないかとすら思う。
マンガで見ていた『異世界転生』の主人公たちは、もとからサバイバル技術を身に着けていたり、大自然で生き残る知恵を知っていたりしたが、俺の転生に伴う女神の祝福リストにそんなものはない。
でも、それでいいのかもしれないな。
今更元の世界へ戻る手段もないし、そもそもあの口ぶりでは女神が元の世界へ戻してくれるとは思えない。
ならばせっかく訪れたこの大自然のなかで朽ちていくのもいいものだ。
ここの景色は、本当に素晴らしい。
遠くに見える山々は、日が高くなった今では朝とはまた違った姿を映し出している。頂のすぐ横を流れる雲が日の光を遮り、山肌にまだらな影模様をつくっては消えていく。
豚鼻から吸い込む空気は、片田舎であった人間の世界のものよりも更に澄んでいる。呼吸をするたびに透き通るようなさわやかさを感じるのに、上下しているのが自分の緑色をした肥満腹なのが滑稽に見える。
最期にこんな世界を誰にも縛れずに満喫できていることだけでも、異世界転生した甲斐があったかもしれない。
最期……
本当にこれで終わりで、いいのか?
こんな醜い姿になっても
今俺はまさに異世界を楽しんでいる。
ならば、この世界で頑張って生きていくことで、もっと素晴らしいものに出会える機会もあるんじゃないのか?
そんな考えがぽつりと頭の片隅に沸いてきたかと思うと、だらけきって投げ出していた手足に、わずかに力がみなぎりはじめた。
「……こんな姿が、なんだブウ。人がいないなら、誰かに見られることだって無いブウ!」
相変わらず、語尾が ”ブウ”。
マジでこれは女神の祝福なんかじゃなく、呪いのたぐいだ。
しかし、自ら口に出してみて解った。
俺は、この変わり果てた姿で、異世界で生きてみたいと感じている。
「欲望を発散する」という目標へ到達するにはあまりに長すぎる道になるかもしれない。
それでも、普通の人生であったなら絶対に体験できないことができるなら、この世界が飽きるまで満喫してやろうじゃないか!
ひとり静かに、そう決心した矢先────
「……ブウっ!?」
突如、背後に複数の気配を感じた。
何故感じたのかは説明できない。
ただ、背中側に何かが「いる」という予感めいたものを感じたので、咄嗟に振り返る。
これは、このオークの身体が持っている力なのだろうか?
気配がするのは、林の木々の中。
姿は見えないが、「それ」はいくつもの気配となって、ゆっくりと俺を取り囲むような動きを始めた。
この気配は決して喜ばしい存在のものではない。
衣服ひとつ着けずにいた俺は、瞬時に猛烈な不安感、無防備感に襲われる。
「な、何だブウ……!?」
無意識に身構える。
すると、木々の影からゆっくりと、いくつもの影が這い出てきた。
「あれは……!?」