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第一章 第1話 - 人間生活は重苦しいブウ -


「おーい谷川、こっちの書類は終わってんのか?」


「あ、えっと……は~い、終わってまーす!」



 世間ではやっと最高気温が25度を下回るようになってきた秋空の下────

 都会ではまだまだ残暑がきびしい印象で、朝のテレビ番組では「まだまだ暑いですね~」などとお天気キャスターが苦笑いをしているが、ここでは一足早く夏の終わりを先週あたりから実感している。

 自分の住む土地とは若干ズレたテレビのコメントを聞くたびに、そんな都会を中心とした感想を述べられてもなぁ、と感じてみるものの口には出す機会はない。


 こちとら遠景に目をやれば、冬には真っ白になるのが当然の山々を臨む片田舎の暮らしだ。

 一応これでも都会までは電車1本で行ける程度には近い土地なんだぞ、と地元民は決まり文句のように主張するものの、まぁそんなことをムキになって主張する人間が多く住んでいるからこそ、ここは「片田舎」なのだが。


 そんな場所で暮らしていても、仕事の内容だけは都会の面倒さとさして変わらない。




「おぉ~、いいねいいね。相変わらず早いじゃないの。休憩ちゃんと取ってるかー?」




 この会話は一言二言では終わらないな、という雰囲気を察したものの、俺は手を止めずに答えた。



「昼に50分、キッチリ貰いました! 先輩、今日は休憩時間取り過ぎなんじゃないですか!?」


「はぁ~、谷川よぉ、相変わらずマジメだねーお前。前々から言ってるけど、もっといい加減でもいいんだぞ~? 誰も他人の休憩時間のカウントなんてしてねえんだからさぁ」



 たにかわ、とは俺の名前。前述の片田舎の会社で働く三十路のリーマンである。

 大卒社員8年目ともなれば、自分がやらなければならない仕事は他人から指示されなくても、こなしていくことはできる程度に社会人をやっている。


 勤務先の支社であるこのオフィスは決して立派ではないが、むしろ程よく狭いからこそ無駄な作業が少なく快適である。本社から飛ばされてきた中年社員は、よく異動後の挨拶のあとため息をついているのを見かけるが、入社からここの勤務を続けている俺にとっては比較対象がないのでよくわからない。

 少なくとも、就業規則に書かれている休憩に関する規定は、守られる予定は当分無いようだ。



「いやいやいや……そういうワケにもいかないでしょ……。先輩このまえ部長にキレられてたんでしょ? 怒られてるのを皆見てて笑ってましたよ。フリでもいいからもう少し仕事してますって感じくらい出さないと……」


「あっ、今夜どうだ? 久しぶりに企画課の連中誘って飲みにでもいかないか?」



 まったく聞いてないな、この人。

 仕事中であるはずだが、先ほどからスマホを片手に話しかけてくるのは、2年先輩の社員だ。

 上場企業の地方支社では人事異動などはそう頻繁になく、入社後から今まで最も長くお世話になっている先輩でもある。この会社に勤めるにあたり、理解しておかなければならない「建前」と「本音」を分けて教えてくれるので、20代の頃の自分にとっては非常にありがたい存在だった。

 どこまで手を抜いて仕事をしていいのか、どこをしっかり押さえておかなければならないのか、そういった事をフランクな会話で教えてくれる先輩に出会えるというのは、今は遠くで働いている大学の同窓生から聞こえてくるブラックっぷりを聞く限り、俺は恵まれている。


 そう、俺は恵まれているんだ。


 医療に携わる仕事をしていた両親のいる家庭に生まれた俺は、幼いころから習い事や塾に通い、勉学や運動、人付き合いもさして苦労を感じることなく過ごしてきた。

 成績は常に上の下、といったポジションから動かずにいたが、大学入試や資格試験などで苦難にぶち当たるようなこともなく。


 何かに対して、必死になった覚えが殆ど無い。

 他人に言わせればボンボンだな、と言われてしまうこともある。




「か、構わないですけど……でも先輩、そのペースで定時であがれるんですか!?」


「いーや、残業は確実だな。いいんだよぉ~、ゆっくり仕事してぇ、暗くなったらそのまま酒飲んで帰れば楽チンじゃん?」


「誘っておいてそれですか!! それじゃ俺は先輩が退勤するまで、ただ待ってるだけになるじゃないですか! イヤですよ、会社で用事もないのに待ってるなんて!」


「ンだよー、そんな事言って、どーせ帰ってからやることなんて無ぇんだろー、おー?」



 さきほど先輩が言ったように、この会社は休憩時間や出退勤に関して驚くほど管理がユルい。

 残業の管理もいい加減で、単純に稼ぎたければ残業して遅くにタイムカードを通せば残っていた時間分が給料に加算される。このご時世にこんな前時代的な管理が今も行われているのは、この会社が中途半端に儲かっているためであり、人件費への危機感を感じていないからに他ならないだろう。

 こんな会社に勤めていることが、心強いやら、不安やら……。

 しかしそんないい加減な勤務形態でお金をもらってまで、特に用事のない会社にズルズル残っているなど御免だ。




「あらっ? 谷川くん今日飲み会行くのー?」



 先輩との会話を聞いていたのか、急に近くの総務部の名札をつけた女子社員が会話に入ってきた。

 俺のことを「くん」付けで呼んでくるが、とても申し訳ないことに俺自身は彼女の顔を見ただけではパッと名前が出てこない……。気づかれないようにチラリと名札を見て名前を思い出す。あ~……確か、自分の同期だった気がする。



「あ、いや……まだそういう、決まった話じゃなくて……!」


「えぇー、そうなの? 谷川君が行くなんて珍しいから、私も行こうかなーって思ったんだけどなー!」


「え…………」




 キャスターのついたカートに乗せたバインダーを整頓しながら、いつの間にか女子社員はナチュラルな動作で近くに寄ってきた。

 カートを俺のデスクにピタリとつけると、そのまま俺が処理を終えた書類の束を決められたバインダーへと閉じていく。当然、それが彼女の仕事であるものの、それにしたってこれほど近くで作業される必要もないはず、なのだが。


 俺の肘に、彼女の腰が触れる。

 彼女に支給された女子社員用のベストは腰回りのラインがくっきり出るような仕立てになっており、そのままタイトスカートにまで流れる女子らしい後ろ姿が目に入る。



(…………)



 自分の腕のすぐ近くで、手入れの行き届いたネイルを備えた細い指が動いている。

 彼女が動くたびにふわり、と清涼感のある香水の匂いが鼻に入る。

 うっすらと桃色のラインを入れたヘアカラーもかわいらしく、アップにしたヘアスタイルがゆらゆらと揺れている。

 密着している訳でもないのに、空気ごしに彼女の体温が伝わってくるような、そんな────





「っ…………」



 だ、ダメだダメだダメだ!

 やめろやめろ!






 ギイッ、と椅子の音を立てて立あがる。

 鼻から深く息を吸い、一瞬止めたあとゆっくりと吐き出す。

 急に立ち上がった俺に驚き、女子社員は手を止めて俺の顔を見上げていた。



「……谷川くん? どうし────」



「ごっ、ごごごごごめん! ご一緒できれば、よかったんだけど……今日は、やること、あるから……」




 しばらくきょとんとした顔をしていたが、今夜の飲み会の計画が白紙になったことを聞いて小さく笑い、うなずいた。




「あ、うん。わかった。半期決算も終わったし、また行こ!」



「そうだね、うん……そんな訳で、先輩、すみませんが今日は……」




 俺の挙動をそばで見ていた先輩は、「女慣れしてない奴だな……」とでも言いたげな顔をしている。

 しかし会話の流れから途中から断りの返事が来ることは想定していたようだ。




「はいよはいよォ、ま、俺も飲みを強要するようなローガイ世代じゃねえから。また今度な」




 後輩から酒の付き合いを断られたにも関わらず、嫌な顔ひとつせず先輩は自分のデスクに戻った。

 手をヒラヒラさせながらおどけたような口調をしていたのは、「先輩からの誘いを断ったことに対して後輩が気に病まないように」という優しさだ。

 実際に俺も8年間という短い社会経験の中でも、他人の些細な言動を真に受けてしまう同僚や後輩に出会ったことがある。この先輩は、そういった昨今のデリケートな新社会人からも絶大な人気を誇っており、俺が酒の席を断ったところで、むこうでまた別の誰かを誘っているだろう。





「あ……書類、その、ありがとう」


「うん。じゃ、お疲れさま!」



 そう言うと、女子社員は経年劣化で薄汚れたパーティションの向こう側へカートを押しながら消えて行った。

 すると────



「こ~らぁ、アンタ見たわよォ? 谷川くんに言い寄ってたでしょー!?」


「べっつにー? 飲み会行くかもしれないから聞いてみただけだよぉ!」


「谷川君ってさ~、いつも仕事早いよね~! 食事に誘おうとしても定時にはいないし!」


「でもカレ、俺仕事できますけど~って雰囲気がないから、いい子だよねぇ」


「ウンウン、顔も悪い訳じゃないし! 今度ワタシたちのほうでも誘ってみようよ!」


「え~?確かに悪くないけどォ、やっぱりオトコはもう少し身長がさァ~」


「あんた、身長を条件にしてたらキリがないでしょ~! アハハハ!」




 ……などと勝手な下馬評が聞こえてくる。

 周囲にも聞こえているせいで、あたりの同僚からは茶化すような視線が送られていたのだが


 当の俺は、額いっぱいにかいた脂汗を拭う事に精いっぱいだった。








 ◇  ◆  ◇





 定時を迎えた俺は、いつも通り帰路に就いた。



 秋空は今日からまた一段と冬に近づいたようで、茜から群青へ変わろうとしている空の色は、地面に吹き付ける風にも肌寒さを纏わせている。片田舎の電車は退勤時間のラッシュでも、都会の満員電車のような苦痛もなく景色を見る余裕だってある。

 二駅先で降りれば、最近LEDに替えられた街灯の導くまま帰路を歩くだけ。


 そんな日々。


 今の生活では、収入も決して多くは無いが貯金ができる程度には貰っている。

 趣味らしい趣味もないが、時間が余るほどのことは無い。

 高校や大学の同窓との付き合いも続いている。

 先輩もやさしい。

 身体も健康。

 よく眠れる。


 そう、俺は

 恵まれている。





 恵まれている。






 恵まれているのに────





 俺は、満たされていない。









 優等生扱いだった俺は、他人を殴ったことなど一度も無い。

 タバコも、先走った異性交遊も、年齢不相応の賭け事もしたことがない。

 だが高校生のある日、中学校時代からの悪友が渡してきた一冊の本。



 その名も、『月刊セクシーフォース』。



 よくある話だが、成年向けのエッチな雑誌だった。

 トップレスのグラビアのほか、官能的な小説のページや、漫画で描かれたストーリーもある、性欲ならなんでも来いと言わんばかりの雑誌。高校男児にとって、触れてはいけない禁書である。

 どこで手に入れてきたんだこんなもん……と問うと、友人は「出どころは聞くんじゃねえよ」と、まるでヤバいブツでも取引しているようなセリフを吐いていたのを覚えている。

 まぁ実際にヤバいブツだが。持っていた事が女子など知られようのものなら社会的に死ぬ。



 その『セクシーフォース』に描かれていた、あるひとつの成年向けマンガを見た時────

 俺はこのいかがわしい本に、自分の持っていた「優等生」のアイデンティティを完膚なきまでに破壊されてしまった。



 そのマンガは、屈強な身体をもつ男が敵の組織を超人的な暴力で壊滅させ、組織の幹部であった女性キャラクターを欲望のままに蹂躙するストーリーだった。

 連載ではあったが毎回ある程度そのようなパターンが決まって描かれており、ある時は純愛ながらも激しい交接、またある時は嫌がる女性を組み敷き乱暴、またある時は、仲間と集団で襲い掛かり何人もの女性に欲望の限りを尽くす────





 はじめてこのマンガを目の当たりにしたときは、あまりの常識はずれな展開に目を疑い、嫌悪の感情とともに閉じてしまった。だが気付けば月刊であったその雑誌を家族に隠れて買い続け、その欲望と暴力の権化が君臨するストーリーを毎月のように読み漁っていた。

 自分には持ちえない頑強な筋肉、犯罪行為を犯しても意にも介さないメンタル、障害となるものを次々と打ち壊し、女性に性欲のありったけをぶちまける様を見続けていたある日、自分の中にある思いがふつと芽生えてしまった。




 この筋肉ムキムキのエロ男が、死ぬほど羨ましいッッッッ……!!





 法や社会に縛られることなく、邪魔ものは己の腕力でなぎ倒し、食べたいものを食べたいときに食べ、第三者の都合など微塵も気にせずに欲望を発散しまくる。

 そんな男が羨ましいと感じてしまった日から、俺は日常で場所を憚らずにあらぬ妄想をするようになってしまった。



 今日、女子社員が近くに寄ってきたとき

 その瞬間も俺はとても人には言えないような淫らな妄想が脳裏をよぎっていた。


 もし俺がマンガの男みたいにもっと絶倫だったら、この女も好き放題にできるのに

 泣こうが喚こうが構わない

 誰も助けがこない所に連れ込み

 巨躯と腕力で押さえつけ

 服を破り捨て

 匂いを嗅ぎ

 舐めまわし

 あぁ、そして────









「! ……でっ…………!?」




 ゴツ、という金属音とともに頭に鈍い衝撃が走り、我に返る。

 気付けば、俺はアパートの扉の前にいた。


 8年間通い続けている自宅までのコースを、俺は無意識のうちに歩き終えて帰宅したようだった。 こ、これじゃまるで夢遊病者じゃないか……。

 うなだれたまま扉の前まで全自動でたどり着いてしまったため、鉄でできた住居の扉に前頭部をぶつけた音で妄想が終わったのか。

 とんでもなく卑猥な妄想を繰り広げながら歩き続けていたであろう事実に、我ながら不安を抱く。


 ヤバい顔をして歩いていただろうな…………。





「……はぁ……」





 これじゃただのムッツリ野郎じゃないか。



 ポケットから鍵を取り出し、シリンダーに差し込んで回す。

 防音と防犯に全フリした鉄の扉が、今日は一段と重く感じた。

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