第一章 プロローグ - プロローグだブウ -
とある国、とある森────
街道から大きく離れ、木々により隠されたそこは、この時期にしては珍しく小雨に見舞われていた。
あたりはまだ日の上りかけている時刻であったが、不規則に空を覆う雲は、深緑であるはずの景色に灰をかけたかのように薄暗くしている。
そんな森と小高い山が交差する麓の岩肌にぽっかりと空いた空洞から、柔らかい雨音に交じって不穏な音が漏れ出ていた。
「フウウ……ブフウッ……」
荒々しい呼吸音が、狭い洞窟内に静かに響く。
洞窟を覆う固い岩盤により反響した呼吸音は尚のことくぐもったように聞こえ、その不気味さを一層際立たせた。
呼吸の主であろうその背中は、自らの発した音に合わせて大きく上下しており、そのシルエットから人間と比較してはるかに大きな「生物」であることが見て取れる。
その不気味な影の先で、小さく動く足が見える。
「い、いや……っ……いやぁッ……!」
生物の眼前には、ひとりの少女。
この地方に伝わる伝統的な織物で作られた衣服は泥水でうす汚れているが、なにかの拍子に結びが解けたのであろう美しい金髪は、湿度の高い洞窟内ではより艶やかに輝いている。
一目で恐怖に慄いていると見て取れるその顔は青ざめ、大粒の涙が瞳から溢れている。靴の脱げた足は少しでもうしろへ逃げようと、震えながらも必死に地面を押していた。
しかし、少女の背中はすでに洞窟の最奥の壁に押し付けられている。
うしろに逃げ場など、無い。
「ブウフウッ……グフオォッ……!」
「ひッ……!?」
ひときわ大きな「生物」の呼吸。少女はびくりと身を硬くし息をのんだ。
岩壁に掛けられた松明が吐き出された生暖かい呼気でゆらめき、「生物」のすがたをじわりと映し出す。
およそ人間の皮膚とはかけ離れた緑色の巨躯は、雨水か汗かでてらてらと浅黒く光っても見える。上腕や下肢、首は丸太かと見まごうほどに太く筋肉で覆われており、まともな力比べでは人間で敵う者など存在しないだろう。下腹は一見して肥満とも見て取れるほど厚い脂肪が張り出しているが、その皮下には他の部位からして同様に頑強な筋肉が敷き詰められているに違いない。
着衣は腰回りのみ。動物の毛皮と広葉樹の葉で作られたそれは、巨大な「生物」の股間部を覆い隠してはいるものの、その体躯に比してあまりに小さいものである。
そして松明の赤よりも紅い虹彩をもつ瞳が、暗闇のなかでひときわ強く光った。
詰まるところ、この「生物」は人間ではない。
それはモンスター、『オーク』
そのものの姿であった。
「……お、お願い、お願いしますっ……、こ、来ないでぇぇ……っ」
少女はそのオークに向かってか、または救済を願い神に向けてか嘆願する。
誰がどう見ても、この少女は洞窟の奥底でひどく興奮した1匹のオークに追い詰められ、今まさに襲われようとしているのだろう。
ここから少女が遭うであろう境遇など想像に難くないことだ。
そうした情景を実現すべくか、分厚くつぶれた爪を先端に備えたオークの太い指が、少女に向かってゆっくりと開かれた。
「!! ……いっ、嫌ぁぁぁあああ!!」
いよいよ絶望が現実となる瞬間を悟り、ぎゅっと瞑った少女の瞳からは溜まっていた涙がぼろぼろと溢れ出した。
ファンタジーでは決まって悪役非道の権化として描かれる、オーク。
もはやこうあっては、成す術など無い。
息を荒げたオークの指は、そのまま少女の────
────少女のかなり離れた位置で、固まってしまった。
よく見ればこのオーク、手指の先が小刻みに震えている。
眉間には信じられないほど深いシワが寄っている。
喜悦による興奮かと思いきや、全身が冷や汗でびっちょびちょである。
(あああああああ、なななな泣いちゃった! え、ちょ、どっどどどどどうすればいいのコレ!?)
(いやバカ! 俺のバカッ! こんな姿でハァハァ言ってたら怖がられるに決まってるじゃん!!)
(下心が無かったと言えばウソだけど! ウソだけどさあああ! 俺は別にそんな……なぁ!?)
(待て待て待てっ、マジでどうする!? オークならどうするのが正解!!?)
(だッ……誰か助けてェーーーーーーッッ!)
────これは、とある女神の暴挙によりオークへと転生を遂げたひとりの男が、その醜い姿に身を窶しつつも、第2の美しい人生…もとい、オーク生を営んでゆく物語である。