もみの木
その男は、雨の日に黒い傘をさして、私のアパートに佇んでいた。
「警察、呼びますよ」
「……怪しい者じゃないから」
それがその男、槙史弥とはじめて交わした会話。
近付き、傘を持っていない私が濡れないように、自分の傘を半分私の上にかぶせてくる。私はそれを拒絶して、自分の部屋に逃げ込もうとした。
「待って!」
引き止められても聞く気はない。鞄の中から鍵を探し、急いでドアを開けた。
彼が誰であるか知っていた。私の父の息子だ。正確に言うと義理の息子。私は父の本当の娘だけれども、この男とは義兄妹でもなんでもない他人だ。たとえ同じ人を父と呼んでいたとしても。
母と私を捨てて消えた父が、別の女性と再婚して、その連れ子を養子にした。実の子を捨てた父親失格のクソ野郎が、他人の子をかわいがるなんて、捨てられたほうには、こんな残酷で滑稽な話はない。
だから私は、この人のよさそうな父の息子が大っ嫌いだった。もちろん今まで関わりがあったわけではない。ただ一度、父と一緒にいる姿を目撃してしまっただけだ。それでも父の息子を名乗った時点で敵。大嫌いになれた。
「話があるんだ、君もわかっているだろう。明奈ちゃん」
「触らないで。気安く呼ばないで。……遺産ならいらない。弁護士さんにもお伝えしたはずです。私の希望を。……ちゃんと印鑑は押します。弁護士さんを代理でよこしてください」
「君は受け取るべきだ」
「私に指図しないで」
睨みつけたまま、扉をしめた。
父が死んだと知らせを受けたのは、十月の初め。もちろん葬儀には行かなかった。だって、あの人は母の葬儀にもこなかったから。
しばらくして連絡してきたのが、槙史弥とその母の代理人だという弁護士。相続の件だと告げられた。
「現金で用意できるものは、すべて明奈さんへ、というのが先方の奥様と息子さんの意志です。家は奥様と共同名義になっているので、お譲りするのが難しいから、家だけは相続したい……そうおっしゃってます」
「詐欺か何かですか? 実は借金してて、負債のほうが多いとか?」
「まさか、ありえませんよ」
「こっちのほうが、ありえない」
楽しみにしていたのに。私を世間知らずの子供だと見下して、奪ってくるのを。あさましい姿を見せてくれるのを。最低の父親の家族はやっぱり最低で、意地汚い人たちだったと笑うことができたら、私は少しは幸せになれるんじゃないかと思っていた。
母が死んだのも、私が大学を中退するしかなかったのも、残ったのは奨学金という名の借金だけだったことも、全部父のせい。死んでから、父親面なんてされたくない。
だから私は、何も受け取らないと決めた。
§
十二月のはじめ。今年一番の寒さを迎えた日。喉風邪をこじらせた私は、マフラーを巻いてマスクをつけた姿で職場に向かった。
二十歳で母が亡くなり、大学を中退した私がなんとか就職したのは、土木関係の事務員という職種だ。給料は安いが、人間関係が煩わしくない働きやすい会社だった。
私は職場に到着して、いつもと違う何かに気付いた。
開いているはずの職場の鍵が開かない。小さい事務所で、事務員は私と奥さんだけだから、いつも奥さんが先に鍵を開けてくれるのだ。連絡もなしに、姿を見せないことなんて今まで一度もなかった。
いつもと違うのはそれだけではない。擦りガラスの扉の向こう側では、電話が鳴り響いている。一度切れても数秒後にまた鳴る。就業時刻前からひっきりなしに電話がかかってくることなんてない。
「倒産……みたいだね」
「えっ?」
いつのまにかその場にいたのは、同じ会社の若い職人さんだった。頭をかいたあと、がっかりした様子でどんより曇る空を見上げている。
嘘でしょ。だって、社長も奥さんも、そんな様子一度も見せなかった。
「今月給料もらえるのかなあ」
返事などもとめていないだろう、その人の呟きが私をどん底まで叩き落す。
フラフラと駅の階段を降りて行った。つらい。なんで自分だけこんな目に合わなきゃいけないの。つらい。
すれ違う楽し気に笑う女子高生の声を聞くと、頭が割れそうになる。おしゃれをした私と同世代の女性の香りを嗅ぐと、吐きそうになる。
彼女達は皆楽しそうで、幸せそうだ。だったら、なんで私だけがこんなにも孤独なの。
私が何をした!
心の中で叫んだあと、くらりと眩暈がしてようやく気付いた。
違う。私は名前も知らない人のことまで本気で恨むような、心の貧しい人間にはまだなっていないはず。
違う。こんなにもやさぐれているのは、仕事を失くしたせいだけじゃない。弱っていたのは心だけではなく、むしろ身体のほうだ。
たぶん熱があるんだ。だからこんなに辛いんだ。早く帰ろう。
帰って眠れば、きっとこの最悪な状況が、案外そうでもなかったと思えるはず。
ドンと誰かと肩がぶつかった。浮遊感が襲い、スローモーションで地面が近付いてくる。
ああ、落ちる。
その瞬間の人や周りの景色が、やけにはっきりと目に映った。
悲鳴を上げた人、手を伸ばそうとしてくれた人、そして、雪化粧されたクリスマスツリーの写真が使われたポスター。
あれはいつだったか。どこかであんなツリーを見たことがある。あの人に手を引かれながら。
どうでもいいことを思い出した直後、強い衝撃が私を襲い、目の前が真っ暗になった。
「――お客さん! お客さん! 大丈夫ですか?」
意識を失っていたのは、たぶんそんなに長い時間ではない。駅の階段から落ちた私の周りには、小さな人だかりができていた。
私とぶつかったらしいサラリーマンはひどく狼狽して謝ってくれる。女子高生は、額から血を流しているらしい私にハンカチを差し出そうとしてくれる。私が身体を起こすと、おしゃれな女性は近くに来て私を支えてくれる。
「今、救急車を呼んだから」
名前も知らない人の優しさに、私は救われ、駅員さんの言葉に、私は不都合な現実に引き戻された。
「すいません……風邪で、ふらついただけなんです。もう大丈夫です。ご迷惑を……だから救急車は……」
痛む頭を必死に働かせて、言葉を紡ぐ。
絶対に乗りたくない。大袈裟なことにはなってほしくない。入院になったら困る。だって頼れる人なんて誰もいない。天涯孤独の身の上では、うっかり意識不明にもなれない。
「熱が高そうね。それに頭もかなり強く打ってるから」
親切な女の人に諭されたら、それ以上の拒否はできなかった。
§
病院では、頭部打撲のための経過観察と、もともとの風邪で体力を失っていたため、点滴の処置を受けた。入院を促されたがそれはどうにか回避し、一人で精算までこぎつける。
総合病院は、精算するだけで一苦労。クレジットカードが使えるのが救いだけど。検査もしたから今後の貯金の残高が気になる。なんせ、これから収入がどうなるのかわからないから。
待ち時間にスマホで失業保険について調べようとしたけれど、今はまったく頭に入ってこない。あきらめてスマホを鞄にしまった、その時。
「――明奈ちゃん?」
そこにいたのは、槙史弥だった。
スーツ姿にビジネスバッグ、それに似たような姿をした男性が後ろにもう一人いて、仕事で病院に出入りしているのか、もしくはお見舞いに立ち寄った様子だった。
その偶然に、私は思わず舌打ちしそうになった。
「怪我をしたの?」
私の左目の上にはガーゼが張られていて、今の私は誰がどう見てもわかりやすく怪我をしている。していない、と言い張るにはさすがに無理がある。
「たいしたことはありません、ちょっと転んだだけです」
きっ、と睨みつけたあと、すぐに視線をそらした。かまうなと態度で示す。
「槙、急にどうした、知り合いか?」
「親戚の子なんだ。悪い、俺ここで直帰にさせてもらってもいい?」
あんたと私がいつ親戚になった? 抗議したいが人目があるので強く出られない。
一緒にいた男性は同僚なのか、気安い感じで話している。
「おう、じゃあ」
同僚は「親戚」という言葉に疑問を持った様子もなく、史弥を置いて立ち去っていった。史弥はどう考えても私を放っておいてはくれそうにない。
ちょうど、精算の順番がまわってくる。私は彼などいないように立ち上がり、窓口へ向かった。
でも無事精算をすますと、やっぱり史弥が待っていた。
「一体どうしたんだ? 顔に怪我なんて」
出口に向かって歩き出した私の後ろを、勝手についてくる。
「転んだだけです」
点滴で多少回復したといっても、熱は下がっていない。速足で歩いてみたが、すぐに力尽きた。ゼエゼエと息がきれる。
「……今、風邪で具合悪いんで、あんたにかまってる余裕ない」
力を振り絞り、後ろを振り返って言い放つ。
「じゃあ、黙る。黙るから、君も黙って、普通に送らせて」
史弥は勝手にタクシーを捕まえて、運転手に私の家の方角を告げる。反抗を続けるには、今の私は弱りきっていた。
「着いたらちゃんと起こすから、寝てなよ」
言われて、目をそっと閉じ寝たふりをした。病院で点滴を受けている間ぐっすり眠っていたから、今はだるくても簡単には眠れなそうにない。
タクシーのラジオから定番のクリスマスソングが聞こえてくる。
十二月は好きじゃない。幸せな人たちが、三割増しに幸せそうに見える季節だから。
病院とアパートまでの距離は、それほど遠くはなかったが、夕方の渋滞もあってニ十分ほどかかった。
タクシーを降りると、史弥も当然のように降りて、また私についてくる。
それどころか、許可もなく堂々と上がり込んできた。
「冷やすの何かある?」
「薬はもらったの?」
「お腹空いてる?」
もういいや。なんでも。答える気にもなれず、ベッドに突っ伏した。
「着替え出そうか?」
「……あんた、私の母さんかなにか?」
気取っていて上品そうな顔をしているくせに、案外遠慮というものがない。まるで家族のように接してくる。
「……ううん、ごめん違うわ。私の母さんは、そういう人じゃなかった」
自分でさっさと自分の言葉を否定した。私の母親は、こんなに私のことに一生懸命ではなかったから。
「コンビニで、何か買ってくるから、鍵借りるよ?」
「……あんまんとおでんが食べたい。私、おかゆ好きじゃない。……鍵とお財布はバッグの中」
「了解。食欲があるのはいいことだ」
史弥は私のバッグの中を探り、鍵だけを取り出してアパートから出て行く。
そうして、しばらくしたら両手いっぱいの荷物を抱えて戻って来た。
「あんまんとおでん買ってきたけど、食べれそう? ……あと野菜スティック。野菜もとらないとね」
「…………」
結局、おでんは少ししか食べられなかったけれど、残りは全部史弥にあげた。代わりに野菜スティックはちゃんと食べた。
食事をおえたところで、薬を飲む。史弥があまりにじっと私を見てくるので、思わず視線を逸らした。
「傷は痛まないの?」
「痛いよ。目の前にいる人に八つ当たりしたくなるくらい痛い」
「どうしてそうなったか聞いてもいい?」
「体調悪いの無視して職場に行ったら、ふらふらしてうっかり駅の階段から落ちた」
それを聞き、史弥はなぜかほっとた様子だ。
「何かのトラブルだったらどうしようかと心配してたよ」
何かってなんだろう? 例えば私がDV男と交際していて、殴られたとか、そんなことを想像していたのかもしれない。
「しばらく仕事は休めるんだね?」
「休もうと思えば、永遠に……」
「……?」
「会社、倒産したみたい」
良くも悪くも史弥に振り回されて忘れていたけれど、口にだすと、急にこの先の不安に襲われる。
ぐっと何かを堪えていると、史弥の手が伸びてきた。
傷に触れないように右寄りの頭を撫でてくる。
「元気になってから、ちゃんと一緒に考えよう」
一緒にって、まるで次がある言い方をされ、すごくほっとした自分に戸惑ってしまう。
空っぽだった冷蔵庫には史弥が買ってきた食べ物がたくさんあって、翌朝、何度も無駄に開け閉めしながら物色してしまった。
だるさが残る身体で外出する気にもなれず、私は史弥の置き土産をありがたく頂戴して、日中をしのいだ。
そしてその夜。史弥は本当にまたやって来た。
大きな荷物を抱えて。
「今日の夕飯は寄せ鍋」
「は、何で来たの? しかも、なんで鍋」
「病人は、だまって看病されてればいいんだ。鍋は俺が食べたいから」
「……もう好きにして」
史弥は自分の家の台所のように、勝手に調理をはじめる。私はただ与えられたものを黙々と食べた。
鍋料理なんて、何年ぶりだろう。
その次の日も、史弥は大きな荷物を抱えてやってきた。
「今度は何を買ってきたの?」
「クリスマスツリー。この家、なんか寂しいし」
「勘弁してよ。ただでさえ狭いんだから」
それはこの家に相応しい、小さな小さなクリスマスツリーだ。私は文句を言いながら、結局半分の飾りを担当した。
点灯式をして、しばらく黙って二人で小さなツリーを眺める。
「そうだ、熱も下がったし、明日保険とか年金の手続きに行ってくるから」
わざわざそれを知らせたのは、史弥が熱心に調べて教えてくれたからだ。
実はとっても危ないところだった。勤め先の社長夫妻は夜逃げ同然で廃業したらしい。保険事務所に廃業届を出すのを怠ってくれたおかげで、私はぎりぎりこの前の医療費全額負担を免れた。でもまた次に何かあると困るから、さっさと切り替えの手続きを済ませないとまずい。
史弥も「それがいいね」と言ってくれた。そして少し考え込んだあと、意外なことを言いだす。
「じゃあ、夜、外で落ち合おうか」
「なんで?」
「なんでって快気祝い。何が食べたい?」
「高級ディナー奢ってくれるの?」
「いいよ」
「嘘だよ。着ていく服ないから困るもん」
「デニムでもスニーカーでも入れる店を探しておくよ」
待ち合わせをするからと、お互いの連絡先をちゃんと交換した。友達みたいに。
翌日になって、史弥は店の場所と時間を指定してきた。カジュアルなイタリアンの店らしい。
それでも私はちょっと気にして、スカートをはいて化粧をした。
額の傷は腫れもひき、前髪で隠れるほどになってくれたからよかった。でも一着しかないウールのダッフルコートが、階段から落ちた時に擦れて破れかかっていることに、気後れしてしまう。
私が誘いに素直に応じたのは、そろそろけじめをつけるべきだと考えたからだ。
街はクリスマスのイルミネーションで彩られている。創作イタリアンをコースでいただいたあと、なんとなく二人で駅前をふらふらした。
駅の近くには真っ白なツリーが飾られていて、恋人たちがうっとりと足をとめている。
「どうせなら、本物のツリーが見たかったな」
「本物?」
「昔、どこかで見たんだけど、思い出せない。大きなもみの木があって、雪が降っていて、ライトアップの光と雪化粧がきらきらしてて、三人で手を繋いで、それから家に帰ってケーキ食べて楽しかった……」
両親が離婚したのは、私が四つになったばかりの頃で、私は仲の良かった時代の父と母のことなどほとんど覚えていない。
駅で階段から落ちたときに、なぜかその情景だけを思い出し、以来ずっと気になっていた。あの場所はどこだったんだろうと。
「探してみようか? 君の本物のもみの木を」
私は立ち止まって首を振った。
「きっとね、嘘なんだよ。妄想。私の」
「どうしてそう思うの?」
「東京近郊で、クリスマスに雪が降る確率0パーセント。ここ数十年、降ったことなんてないってさ。だからきっと私の夢。映画とか絵本を見て、こうだったらいいなって作り上げられた嘘の記憶だよ」
史弥はとても寂しそうな顔をした。私はそんな彼に、一歩近づいた。内緒の話をするためだ。
「ねえ、相続の件だけど、法定通りにしたいんだけど、どうかな?」
「……君が、それでいいなら」
これで、史弥との縁は切れる。私は年があけたらゆっくり就職活動をする。でも前ほど悲観はしていない。
「じゃあ、またね。明奈ちゃん」
「また、はもうないよ。私達は他人だよ? もう十分だよありがとう。……お父さんから何か言われてたんでしょう?」
私が問うと、史弥は否定しなかった。
臨終の際で、明奈をよろしくとか、明奈がきがかりだとか言ったんだろう。だからこの真面目な青年は、私を放ってはおけなかったんだ。
でもね、私はやっぱりあの人が生きている間に、直接文句を言いたかった。
「君の兄のようになれたなら、そう思ってたけど、無理みたいだね」
「そうだよ、私達他人だもん」
私が笑うと、史弥も笑った。
「他人だから、これから何にだってなれる。……困ったことがあったら一番先に連絡して」
私が頷いて手を振ると、史弥も手を振って去って行った。史弥が言った言葉の意味を、私は考えないことにした。
§
十二月二十四日。
今年もまた、独りぼっちのクリスマスがやってきた。
それでも去年と違うのは、家にツリーがあり、自分でケーキを買ってきてしまったこと。
一番小さなケーキでも、ホールでは一人では食べきれないのに……どうかしてる。
夕飯は史弥の残していった土鍋をつかって、キムチ鍋だ。コンロの前にたったところで、スマホがメッセージを伝えてきた。ぼっちな私の耳はそれに過敏に反応する。
史弥からのメッセージだった。
今から出かけたい場所があるから、迎えに行く。そんな内容が送られてきた。私はどれだけ暇人だと思われているんだろう。クリスマスイブに予定がある可能性を考えられていないらしい。実際予定がないから、何も言えないけれど。
呼び鈴が鳴ったのは、それから十分もしないうちだ。
「あんた、こんな日になにしてんの?」
「ドライブしようと思って」
「そうじゃなくて!」
私にはいなくても、史弥にはクリスマスを一緒にすごす恋人くらいいてもおかしくない。でも、私はなぜかその疑問を口にすることができなかった。
「君のもみの木がある場所がわかったから、行ってみよう」
「どこ?」
「東京の端っこ」
宝物を発見した少年のように、誇らしげに彼は言った。
「父さんの日記をみたんだ。それでわかった。父さんの母親、きみの祖母にあたる人がその辺りにすんでいたらしい。亡くなった年の日記に、昔明奈とツリーを見たって書いてあった。調べてみたら、当時観光のためにライトアップをしていた記事をみつけた」
「今はもうないの?」
「わからない。ライトアップはしていないだろうけど、自生のもみの木だから、残っているかもしれない」
史弥の運転で、高速を使っても二時間かかりようやく到着した目的地。辺りはすでに真っ暗で、イルミネーションどころか街灯だってあまりない。
車を降りて一言目に私はこう言った。
「寒い!!」
安物の破れかけのコートには限界があったみたい。わかっていれば、せめて中に何枚も着こんできたのに。
すると、狙ったように史弥が大きな紙袋を差し出してきた。
「えっ? なにこれ?」
「クリスマスプレゼント。ほらまた風邪ひくから着て行こう」
紙袋からでてきたのは、グレーのダウンコートだった。抱きしめると驚くほど温かい。
こんなのもらえない。そう言いかけたところで、史弥は人差し指で私の唇に触れた。
驚いて黙り込むと、史弥が勝手におんぼろコートを脱がせて、新しいダウンコートを羽織らせてくる。
そして、彼は何もなかったように歩き出した。
「着いたよ」
「ここだ……きっと、ここ。そっか、夢じゃなかったんだ。本当にあったんだ」
私が幸せだった頃の象徴のように思えていたそのもみの木は、ただのもみの木だった。
その場所にもう一度行くことができたら、何かが変わる気がしたけれど、思い違いだった。
今の私は、小さな部屋にある、小さなクリスマスツリーを見ているほうがずっと幸せだ。それでも……
「雪だ」
空を見上げた史弥が大きな声を出した。
「嘘でしょ」
私も連られて空を見上げる。
「本当だよ、ほらよく見て」
確かに白い結晶が空から降りてきていた。暗闇の森に舞う雪は、幻想的でとても美しかった。まるで雪が光の粒そのものみたいに。手を広げて雪をつかまえようとしても、一瞬で溶けてなくなってしまう。
「すごいな、東京でクリスマスに雪が降る確率0パーセントなんだっけ? だったらこれは紛れもなく奇跡だ」
「ここ東京?」
「間違いなく東京」
もう一度見上げても、もう雪は舞っていない。それは一瞬の出来事だった。でも、見間違いではない。はっきり目に焼き付いていて、きっと今度はずっと忘れない。
「来年も、また一緒に来ようか?」
「嫌だよ、……寒いもん。はやく家に帰って鍋でも食べてあったまりたいわ。一人分しか材料買ってないんだけど、まだスーパー間に合うかな」
史弥が手を差し出すから、車までの道のりの短い時間、温もりを求めて互いの手を重ねて歩いた。
私達は兄妹でもなく、親戚でもないただの他人。だから、これから何にだってなれるらしい。
―Merry Christmas!―