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先生を見上げて、単刀直入に聞いた。先生は、はっと反射的にヒイラギ君を見た。ヒイラギ君が「俺は何も言っていませんよ」と肩をすくめる。
「モモちゃん、どうしてそんなこと?」
「手紙が……ヒイラギ君が、その花瓶の下に挟まっているようにした手紙が、メモに……」
支離滅裂。何を言いたいんだっけ。どう説明すればいいんだっけ。
「先生、俺、黙っておくのはいけないと思います」
ヒイラギ君が、はっきりとそう言い放った。先生の表情が曇る。
「ヒイラギ君が、皆に、私のことを伝えようとしたのね?」
「いけませんか? どうしてお別れしちゃうって、言わないんですか」
「……皆が混乱するでしょう。先生っていうのはそういうものよ。このクラスには、受験を控えている子だっている。さようならって直接言うより、ある日いなくなっていた、っていうものなのよ。先生って」
「そんなの俺、知りません。子どもなので」
ヒイラギ君の声が揺れている。私は先生から離れて、静かに振り返った。
いつもクールで穏やかなヒイラギ君の目が、真っ赤になって、うるんでいた。
それでも、ヒイラギ君は泣かない。強いまなざしで、先生を見つめている。
「お別れしてしまうのは悲しいです。さよならと言えるチャンスがあるのに、言わないなんて。プレゼントだけ、たくさん置いて、いなくなってしまうなんて変です。賛成できません。俺たちだって、ありがとうって、さようならって、ちゃんと言いたいのに」
ヒイラギ君が、ぎゅっと拳を握りしめた。
私は、夏の日のことを思い出していた。一週間だけ、ヒイラギ君のいなかった日。ショジジョウにより、来られなかった一週間で、もしかしたらヒイラギ君は、悲しいお別れをしたのかもしれない。
こんなにさみしそうなヒイラギ君を初めて見た。
こんなに必死な、ヒイラギ君も。
「先生、私、ヒイラギ君に賛成するよ」
私も、なんだか泣きそうだった。
「悲しいけれど、でも、だまっていなくなっちゃうのは、もっと悲しいよ」
「……そうね、先生が間違っていたわね」
力なく、先生が笑った。泣き虫フミコ先生のはずなのに、先生は泣かなかった。どうしてだろう?
「先生、泣かないね。さみしくない?」
「さみしい。もう、たくさん泣いちゃったのよ」
そっか、と私は言ったつもりだったけれど、その言葉はのどの奥に突っかかって、くしゃくしゃで変な声になった。
目の前が揺らいで、涙がこぼれた。
我慢しようと思ったけれど、そう思えば思うほど、涙はあふれて、止まらなかった。
先生に抱きつくと、先生は優しく撫でてくれた。それが、寂しかった。
その日が、先生が学校に来る最後の日だった。
先生は、朝の時間を使って、皆に説明をした。
先生は、明日から学校に来ないこと。
急に、どうしても学校を去らなければならなくなったこと。
皆に言うのは、皆のために避けようとしていたけれど、単に勇気がなかったからかもしれないと思ったこと。
卒業式までいられないことが、何よりも悔しくて、切ないこと。
さよならの代わりに何かあげたくて、プレゼントをこっそりと置いたこと。
皆に、元気でいてほしいこと。すくすくと育ってほしいこと。
「皆から、さようならの言葉を言おう」
ヒイラギ君の提案により、前から順番に、先生への感謝の気持ちを伝えた。ソウタ君は、先生のせいで犯人に疑われて、今日は初めて授業開始ギリギリに学校に来たとおどけた。その時、ソウタ君は、でも、俺が犯人ならよかったとうつむいた。私は、その言葉を聞いて、胸がぎゅっとつぶれる思いだった。私もそう思う、と声を大にして言いたかった。
泣いている子もいた。涙を我慢している子もいた。戸惑う子もいた。言葉が出てこなかったり、言葉につまったりする子もいた。でも、皆、一生懸命に言葉を伝えた。私も、懸命に言葉を紡いだ。
先生は、皆の言葉を、優しくうなずきながら、幸せそうに聞いていた。
最後まで、先生は泣かなかった。
その日の帰り道、ヒイラギ君に誘われて、一緒に帰ることになった。
男の子と二人きりで帰るなんて、少し恥ずかしかったけれど、ヒイラギ君は全く気にしていないみたいだったから、私もそんなふりをした。
「今日、ありがとう」
ヒイラギ君は、私をのぞき込むようにして、笑って言った。
「何が?」
「俺が共犯だって、分かってくれて。本当は、あの紙を朝一番でもっていって、置いておこうとしたんだ。手紙が読まれて、話題になったら、先生も本当のことを言ってくれるかなって。でも、手紙が読まれたぐらいだったら、先生は黙っていたかもしれないね。俺も、言い出せなかったと思う。先生、本当のことを言ってしまいなよ! って、そんなこと言えない。勇気がなかったと思う。先生の気持も、分かるから」
「ヒイラギ君は優しいね」
「そうかなあ」
「そうだよ」
私はふふ、と笑う。朝の、ヒイラギ君の顔ったら。
「私が朝早くいて、びっくりしたでしょう」
「驚いた。せっかく早起きしたのに、先客がいるんだもんな! 俺の嘘もばれるしさ」
「私は名探偵だね」
空を見上げる。雲ひとつない、綺麗な空。風がふわりと吹く。素敵な日。
「どうしてヒイラギ君は、先生の共犯者に?」
「学校に忘れ物して、取りに戻ったらさ、誰もいない教室で先生が泣いてたんだ。どうしたの、って話しかけたら、先生が思いついたように、頼みたいことがあるのって」
「共犯者になって、って?」
「そう。皆がプレゼントのことを誰にも言わないように誘導して、って」
「ワクワクした?」
「そりゃあね」
最高! 私が笑うと、ヒイラギ君も笑った。楽しい。やっぱり、秘密ごとってワクワクする。
「先生、結局どうしていなくなっちゃうか言わなかったね」
私が言うと、ヒイラギ君は「諸事情でしょう」と返してきた。大人だ。
「諸事情か……」
さみしくなってきた。私は慌てて顔を上げる。楽しい話題を探す。
「あの花!」
「ん?」
「名前が分かんない! なんだっけ?」
「スイートピー」
あっさりと答えられた。
「すごい、知ってたの?」
「いや、共犯になってって頼まれた時に、先生が嬉しそうに俺に話してくれた。最後の日は教室にスイートピーをたくさん飾るのって」
「なるほど。先生の好きな花なのかな」
私の何気ない言葉に、ヒイラギ君は歩みを止めた。慌てて私も止まり、ヒイラギ君? と振り返る。
「何でスイートピーなんだろうって、いろいろ調べたんだ。その中に、花言葉もあった」
ヒイラギ君は、ぎゅっと顔をしかめた。
「花言葉?」
「門出、別離、永遠の喜び、優しい思い出、ほのかな喜び」
ヒイラギ君の目から、涙がぽろりと零れ落ちる。
先生の前では、絶対に泣かなかったのに。
「そして、私を忘れないで」
ヒイラギ君が、ぼろぼろと泣き始めた。ぎゅっと固く握りしめているヒイラギ君の手を、私はなんのためらいもなく取っていた。
「ヒイラギ君も、私も、忘れないよね。忘れるはずないよね」
「うん」
「さみしいね」
「うん」
「でも、会おうと思えば会えるんだよ。大丈夫だよ。少し、悲しいだけだよ」
「そうだよね」
大人っぽいヒイラギ君は、どこかに消えてしまっていた。目の前にいるのは、私と同じぐらいの背丈の、私より幼く見える男の子だ。
「大丈夫だよ」
自分に言い聞かせているみたいだった。
私は、先生のことが大好きだった。
「最後に、さよならが言えてよかった」
私の言葉が引き金となったのか、ヒイラギ君は声を上げて泣き始めた。幼い子みたいに、わんわん泣いた。ぎゅっと握りしめている拳を、私はずっとつかんで離さなかった。
なぜだか、涙は流れなかった。
了