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その日の朝、六年二組のクラスは、いつもと違う雰囲気に包まれていた。
私は、この雰囲気の名前を知っている。「困惑」だ。どうしよう、どうする? 教室中から、そんな声が聞こえてくるけれど、誰も行動を起こしはしない。どうすればいいか、誰も分からないからだ。
「おはよ」
いつも授業開始ギリギリにやってくるはずのヒイラギ君が、今日は始業十分前にやってきた。教室のおかしな雰囲気に気がついたのだろう、メガネをくい、と上げた後、ドアの近くにいた私に「どうしたの」とたずねてきた。
「朝来たら、全員の机の上に、箱が」
私は、自分の机の上に置いてある箱を指した。薄い桃色の紙に包まれた、中身不明の箱。クラス全員の机の上に、謎の箱は置かれていた。それぞれ包み紙の色も、大きさも、高さも違う。
いつも朝一番に教室に訪れるソウタ君が「その中に何が入っているか分からないから」と来る人来る人に注意していたため、誰もその箱に触れようとしないまま、時間が過ぎていたのだ。隣のクラスの子がやってきては、おふざけ半分で箱を振ったり投げたりするものだから、人が少ないうちに教室のドアをソウタ君が閉め切ってしまった。ドアを閉めた後、何人かはふざけてドアを叩いてきたりしたけれど、騒ぎを聞きつけた先生が騒いでいた子を教室に連れていってくれたため、今では静かだ。
「箱、ね。本当だ」
ヒイラギ君は、ふうん、と興味深げに教室中を見渡すと、自分の机に向かってずんずんと進んでいった。皆、ヒイラギ君に注目している。
ヒイラギ君は、ランドセルを椅子の上に静かに下ろすと、ためらいなく箱に手を伸ばした。
「危ないって! 爆弾だったらどうするんだよ!」
ソウタ君が叫んだ。そうだよ、とヒイラギ君の近くにいた女の子が止めるけれど、ヒイラギ君はふ、と小さく笑うだけだ。
「人によって大きさの違う爆弾? 変じゃない? 爆弾なんて、考えすぎだよ」
次の瞬間、ヒイラギ君はひょいと箱を持ち上げ、ぶんぶんと大げさに箱を振ってみせた。
「重いな。なんだろ」
くるんと裏返して、包装紙に爪を立てる。丁寧にセロテープをはがした彼は、中のものを見て眉を上げた。いつもクールな彼が、そんな表情を見せるのは、珍しい。
「本だ」
ヒイラギ君の声が、教室に響く。池に石を投げたみたいに、ふわ、とその言葉が広がっていく。
「欲しかった本だ。やった」
深い緑色の本を手にしたヒイラギ君は、表紙を見て静かに微笑む。
私の隣にいた友達が、ひそひそ声で相談してきた。
「ねえ、モモ、開けてみる?」
教室中で、ひそひそと皆が相談し始めたけれど、誰も開けようとはしない。
「開けてみなよ。何が入ってるの」
ヒイラギ君が、ソウタ君にいった一言がスタートの合図だった。教室中の人が、一斉に机の上の箱に手を伸ばし、中身を取り出す。ビリビリ、と紙を破る音が広がり、少したって、わっ、という声があちこちから上がった。しばらくその様子をぼうっと見ていた私は、隣の子のきゃあ、という声ではっと我に返った。
「モモも開けてみなよ」
促されて、私は静かに、包装紙を開けた。少しだけ、どきどきしていた。私は本をたくさん読むから、読んだことのある本だったらどうしよう、と思ったのだ。
その心配は外れた。その本は、私の読んだことのない本だった。タイトルも聞いたことがない。隣の子が持っている本の表紙には、かわいい女の子の絵が描いてあったけれど、私に贈られた本には、そういった可愛らしい絵や模様は一切かかれていなかった。先ほど、ヒイラギ君が持っていた本と似ている。地味な本。朱色の、大人向けって感じの本だ。
「なあ、この本、隠そうよ」
ヒイラギ君が、少し大きな声で言った。皆、自分の本から目を離し、ヒイラギ君に視線を向ける。ヒイラギ君は、本をランドセルにしまいながら続けた。
「先生に見つかったら、多分没収される。このクラスの秘密にしておいた方がいいよ」
そうだね、と同意の声が広がる。皆、次々と本をランドセルの中にしまっていった。まだ来ていない子の本を机の中に入れてあげている子もいる。ものの数秒で、教室はいつもの朝と同じ景色になった。
教室から、誰かが出ていった。ほかのクラスの子と、話している。もちろん、本の話はしないだろう。秘密を共有してワクワクしている皆は、いつもより楽しそうだった。
そんな中、いつもと変わらずクールなヒイラギ君に、私は目をやった。
大人びている。そんな言葉がよく似合う人だ。お母さんに彼の話をしたら、四月生まれなんじゃない? という言葉が返ってきたけれど、本人に確認したら十一月生まれだった。ヒイラギという植物は、冬の植物だという。漢字をよく見れば分かる話だ。木偏に冬で、ヒイラギ。そのとき、私はすごく恥ずかしかったけれど、ヒイラギ君は喜んでいた。
「ワカタニさんは、物知りだと思っていたけれど、そうやって好奇心旺盛だから、いろんな知識があるんだね」
ヒイラギ君こそ、と私が言うと、彼はそんなことないよといっていた。謙遜だ、と言ってみると、本当にそんなことない、という言葉が返ってきた。やっぱり物知りだ、謙遜、という言葉を知っていたのだから。私はその日の前の日に謙遜という言葉を知って、初めてそのときに使ってみたのだ。知らない言葉ったらな、という淡い期待がなかったかといえばうそになる。尊敬と悔しさが混じったあの時の感情を、私はずっと、覚えている。
ヒイラギ君は、大人びていて、難しい言葉もたくさん知っている。この前の夏、彼が突然一週間ほど休んだときも、どうしたの、とたずねられ「諸事情だよ」と微笑んでいた。私はその言葉を知らなくて、やっぱり家に帰ってお母さんに聞いてみると、お母さんは少し困ったような顔をして「何か言いたくないことがあったってことよ」と教えてくれた。ショジジョウ。辛いことがあったのかな、とも考えたけれど、ヒイラギ君は一週間休んだ後も、いつもと変わらずクールで、でも優しくて、少し寝坊助で、皆の人気者のままだった。
ガラガラ、とドアが開く。目を向けると、そこには担任のフミコ先生がいた。
「フミコ先生、おはようございまぁす」
私がいうと、先生はにこりと微笑んで、おはようございますと挨拶を返してくれた。うん、大丈夫。先生は、私達がまだ少し、さっきの本のせいでドキドキしているなんて、きっと少しも気がついていない。
「さあ、皆、席について」
ワクワク、ソワソワしている朝。きっと、大人は気がつかない。
家に帰り、自分の部屋でランドセルから本を取り出して、じっくりと観察してみた。
ハードカバーの分厚い本。赤い表紙の手触りは布のようで、ざらついている。よく見ると、ハンコで押したような金色の文字でタイトルと著者名が書いてある。
簡単に言うと、とても高そう。
「これ、誰がくれたんだろう」
サンタクロースみたいだ。突然現れて、プレゼントだけ置いて、去っていく。
「モモー、お菓子いる?」
外から、お父さんの声がした。いる! と返事をして、ドアを開ける。お盆を持ったお父さんは、私にお盆をゆっくりと手渡した。ドーナッツとオレンジジュースが乗っている。おいしそう。
「勉強か?」
勉強机に置いていた本を見たらしい。
「読書するの。あのね、本を……」
本をもらった。これって、親に言ってもいいものなのかな? ダメか。ダメだよね、多分。言ったら、学校側に連絡されてしまうかも。そうしたら、この本も没収されてしまう可能性がある。
それに、親に秘密を持つって、少しワクワクする。
「読もうと思って」
「へえ、どんな本?」
「分からないの。ただ、綺麗な本だなって」
「見せてよ」
私は素直に、本を手渡した。お父さんは、本をまじまじと見つめながら、懐かしいとつぶやいた。
「知っているの?」
「お父さんが子どものころに流行った本だよ。ずっと前に発売された本だけど、確か、アニメになったんだ。それで、再び流行したときに、お父さんも読んだよ。モモにも紹介してあげればよかったな。お父さんは中学生のころに読んだけれど、モモなら、問題なく読めるはずだ」
読み始めたらあっという間だぞ、と笑って、頭を撫でられる。いつまでも子ども扱いされている気がして、文句を言ってやろうと思ったけれど、それより前にお父さんはじゃあな、と行ってしまった。まあいいや。私は勉強机に座って、本の表紙に手を置く。
お父さんが子どものころ、夢中になって読んだ本。
深呼吸をして、表紙をめくった。目次をとばして、本文を読み始める。
お父さんが夢中になったように、私もまた、すぐにその物語にのめりこんでいった。
次の日の朝、なんとか目を覚まして、なんとかいつも通りの時間に学校に到着した。危ないところだった。昨日は気がついたら十一時になっていた。お母さんに声をかけられなかったら、もっと時間が過ぎていたかもしれない。
本は、面白いという言葉に収まりきらないほどの素晴らしい本だった。一人の探偵が出てきて、難事件を次々と解決していく、短編集。でも、その短編が少しずつつながっていて、気がついたら大きな事件に巻き込まれている。昨日のうちに半分ほど読んでしまったけれど、続きが読みたくて仕方がない! 学校に持ってくることも考えたけれど、悩んで、悩んで、家でゆっくり読むことに決めたため、家に本は置いてきた。
教室が見えてきたところで、おや、と思った。
いつもは開いているドアが、閉じている。
ちぇ、と言いながら何度もドアを蹴っている子がいた。隣のクラスの男の子だ。
「どうしたの?」
その子は、つまらなさそうな表情を浮かべる。
「ソウタがさ、教室に入るなって。昨日もだったじゃん。なんなんだよ、あいつ、偉そうにさ」
「今日も?」
「そうだよ。でも、クラスの子は入っていいって、何だよあいつ」
「……何か事情があるんだよ」
私は、そう言ってドアを開けた。なんだよ、お前もこのクラスかよ、という男の子の声に、申し訳ないけれど軽い返事しかできない。昨日の教室の空気が「困惑」なら、今日は「恐怖」といった雰囲気だ。
静かに、ドアを閉める。なんだよう、と男の子が叫ぶ声が聞こえたけれど、気にしない。気にする余裕がない。
「何、これ」