福通チョコレート
カリッとチョコレートを噛んだ。
途端に口の中は甘いチョコの香りとともにどろどろに溶けていくミルクチョコ味で占領されていった。味は舌の上で萎んでいき、薄く広がり、小さくなり、消えていく。
そうして再びチョコを齧る。パキッとしたチョコの音が鳴り響き、またチョコの行き先を舌で感じてゆく。
何度もそうしているうちに手持ちのチョコはなくなり、口寂しくなった私は部屋の中を這いずり回る。
もうないのか。
あれがないと私は生きていけない。
若干の苛立ちと、腹に抱える一物に耐えながら目を光らせる。
どうしたものか。
やはりない。
ないならどうすればいい。
この部屋には腐ったチョコレートの残骸だけ積み重なっていた。足で払うとカサリとした落ち葉を踏みにじったような虚無感に陥る。虚無感とともに襲い来るのは、腹の痛みだ。痛い、痛い、とうめくも誰もおらず、しかしチョコへの欲求は抑えきらない。
ようやく見つけた最後の一つはベッドの下にあった。どうやら知らないうちにベッド下に入り込んでいたらしい。今の私の瞳にはそれが輝いて見えた。
そこに、ある。
飛びついた。落ち葉のような残骸どもを押しのけ、手にする。残骸は誰もいない空虚な部屋を舞う。
腹が痛い。じんわりと、何かが腹の中を這いずるように、一寸法師が腹の中で暴れまわるように、痛烈に広がっていく。これは一種の病魔だ。チョコでなければ緩和できない病魔。
私はチョコの包装紙を剥いた。獣がごとく脇目もふらず、荒れ狂うように、剥いて、剥いて、剥きまくった。現れたチョコの柔肌に私は舌で触れ、唾を溶かし込み、再びカリッとチョコを噛み砕いた。染み渡る鎮静に、安堵し至福の時を知る。
この時だけは過去のことを思い出したとて、何も感じない。あの日を捨て去るには最適な憩いの時だった。
最初はいつだったか、それともこれは全て偽りの出来事だったか。
始めたのは、妻だったように思う。
「あなたは煙草ばかり吸っているから、これで代用」
そうして煙草を奪い取り、近くのごみ箱に捨ておいた。次の日には私の煙草は全てゴミ収集車が連れ去っていった。
私の手元に残ったのは十枚ほどの板チョコレート。しかも甘い薄茶色のミルクチョコレートだった。
おいおい、私は甘いものが苦手だって、前から言っているだろう、と無表情の妻をちゃかして、チョコをカリッと齧り、不満げに食べていたものだ。
口が寂しかったのだ。煙草のような煙を吸い込み肺を汚さなければ、自身の汚れを自覚してしまう。
甘いどろりとしたチョコは全て飲み込んだ。私の汚れきった肺も、自身の記憶も、痛みも、何もかも。
代わりに押し寄せたのはチョコがきれた時の痛みだった。腹が痛いのだ。どうしようもなく。
何が腹の中で暴れているのか知らないが、早くどこかへ行ってくれ。腹の中からハンマーを打ちつけないでくれ。
ぐわんぐわんと広がりつつある腹痛から決死の覚悟で這い上がるには、妻のチョコだけが頼りだった。
頼りにしていた妻。
最愛の、妻だ。
私にはもったいないぐらいの美しい妻。
彼女はいつだって表情の起伏が少なかった。感情を表すのが難しい妻でも、私と接するときはいつだって笑顔を向けて二つ返事で助けてくれた。
そんな妻の涙が流れているだろうなんてお構いなしに私は食べ続ける。むしゃむしゃとほおばりながら。
この腹痛は本当にチョコがきれてしまっていることからきているのだろうか。いや、そうだろう、そうに違いない。でなければ私はどこにも行けやしないではないか。それでもいいと、どこにも行けない私に妻はいつだって頭を縦に振ってくれたではないか。
「煙草を吸っていいか」
「ええ」
と笑顔で答えてくれた。
「今日のご飯は俺が作るよ」
「ええ」
と嬉しさから震えてしまった声で応じてくれた。
「煙草、体に悪いよ?」
だから私の体を気遣いチョコを買い込んでくれた。
彼女は私にもったいないぐらいの妻だった。一緒に愛しあい、唇を重ね、幾月もともに過ごした。妻と過ごした時間はかけがえのない宝物だった。
手元にあるチョコが口に吸いこまれていく。どんどんなくなり、もうあと一片しかない。甘いチョコが数えきれないぐらいあったはずなのに消えるのは一瞬だ。
迫りくるのは、腹に抱えた痛覚だ。またどんどんとドアをノックするように腹を痛めつけてくる。
どんどん、外から誰かが尋ねてくるように私の過去が垣間見える。
ああ、チョコを。
思い出す前にチョコを見つけなければならない。
最後の一片を口に放り込むと同時に芋虫のような体を引きずり、部屋を歩き回る。ずりずりと腹がよじれ、しわのように幾重にも重なった脂肪を揺らす。足元が見えない。落ち葉の中にある何かを踏みつけても感覚が麻痺しているのか、分からない。そこにある落ち葉に憧憬を映し出す。
視界に写るのは残骸ばかり。体を動かして、あちらへこちらへ向かう。だが見つからない。何を探しているのかも判然としなくなってくる。
外からけたたましいノックがうるさい。どんどん、とこちらに向かってくるようだ。内からのノックも叫んでいる。此処にいる私はどうなるの、と主張してくる。
さて、どうしたものなのだろうか。私の思考は通常に戻ってきてしまっている。チョコの甘さも、現実にはない。頼るものはない。全てゴミ収集車に奪われてしまった。舞い散る落ち葉は甘い香りを発するものの、生臭い自身の香りも落ち葉に隠された真実も全ては隠してはくれない。ゴミにも出せやしない、そんな概念。
ずりずりと足を引きずり、思い出す。
妻は、そういえばどこに行ったのだろうか。
思い起こして、涙を流す彼女を不憫に思った。私がこうなってしまって、妻は悲しんだだろう。
では、彼女はどこに行ってしまったのだろうか。
チョコを探すついでに私は記憶を紐解く。するすると、といて、部屋の中をさまよい歩いていると、何かに躓いた。
誰だよ、こんなところに物を置いたのは。
悪態をつきながら床を見ると、床に血痕がついていた。それも赤黒く変色した随分前のものだった。醜くこの甘い匂いが蔓延る部屋には似つかわしくない、偽りの真実を示しているもの。
私はそれをそそくさと傍らにあった落ち葉でそれを隠した。すると傍らにあった落ち葉が薄くなりそこかしこにある赤い鮮血が姿をうっすらと現す。
飛び散った血痕。
記憶と結ばれるためにある跡。
まるで妻が泣きはらしたあの瞳だった。
あの頬だった。
彼女の小さな後姿が脳内に映し出される。
悲痛な叫び声に、泣き声に、そこに奏でられる私の号哭。
記憶が蘇る。
怒りに身を任せて、包丁を突きたてている姿。
腹が痛い。
胃液がぶり返してくる。のど元にまで押し寄せる波に耐えきれず、ぶちまけた。甘酸っぱい黄色のどろどろとした液体がチョコレートの残骸、つまりは包装用紙の上に流される。水たまりとなって、丸い円を描き、包装紙は沈殿する。ただ一つだけ浮かび上がるものが見えた。
血の思い出、だ。
妻が泣いていた。嗚咽をつきながら、床に倒れこんでいる。頬に手を当てて、弱弱しい瞳で私を恐怖の対象として見ている。
そういえば彼女は私から吐かれる罵倒に心底怯えていた。
「煙草、吸っていいよな」
「ええ」
と、妻が目からとめどなく涙を流しながら何度も頷いていた。
何かの許しを請うように、何度も何度も。
彼女が外へと救いの目を向けるのも、気に食わない。だから何度だって殴った。髪をひっつかみ引きずり回し、彼女の叫びをものともせず、私は暴力をふるった。
どこにも行かせてなるものか、妻は私の物だ。
「今日のご飯は俺が作るからな」
「ええ」
と、肩を震わせながら妻が答えてくれた。
それがより一層私の満足感をあおった。
だが……
「煙草は体に悪いですよ」
と一言告げられた時、湧き上がる怒りを抑えられなかった。
キッチンにあった包丁を知らず知らずのうちに手に握らせて、私から目を逸らし向こうを向いた妻の背中に、包丁を振り下ろした。
あふれんばかりの血のしぶきを上げて倒れる妻。彼女を抱き起し、冷たくなるその時まで私はじっと彼女を見つめた。
彼女は凍っていく。
彼女の瞳は生気を失っていく。
冷たくなった固い肌を撫でると、私がこれをやったんだという実感を得られたような気がした。そうして初めて、私は自身が妻にやってきたことを客観的にとらえることが出来た。
汗まみれの手から包丁を落とす。煙の臭いがまとわりついた口からほっと息を零し、臭い息を部屋にまき散らした。すると、どこかから湧いてくる涙。愛おしい気持ちが抑えきれなくなった。血に浸される彼女は目が開いたままで、こちらを覗き込んでくる。
「あなたがやった」と主張してくる。
その冷たさにひどく困惑したが、一方で愛情があふれ出して仕方なかった。冷たい彼女を強く抱きしめると、私のやに臭いにおいがこびりついていた。
彼女の全てが私の色で染め上がり彼女は完成してしまった。私は未完成な彼女のままが良かったのに。
彼女に生きていてほしかった、と改めて感じるには時間はかからなかった。
大声をあげて泣いた。彼女に啼いた。
号哭をあげて、三日三晩泣いた後、私の腹に何か重いものがのしかかるのを感じた。腹の中で何かが這いずり回っていたのだ。蛇のような、小さい一寸法師のような、何かがちくりと針を腹の中からさしてくる。
ちくちく、と。
どんどん、と。
ぐわんぐわん、と。
定期的にくる痛みに耐えかねた私は煙草を手にしようとするも、やに臭さと対面すれば妻が過ってしまう。そこで鼻についたのはチョコレートだった。妻のポケットにあった一片のチョコ。それが鼻についた。これだけは私の部屋の中にはない唯一のものだった。
私はそれを大量に買い込み、カリッと齧った。するとどうだろう。腹の何かは満足したのか、何もしてこなかった。
その上、齧るたびに妻との幸せな日々が過る。
一つ齧れば妻が煙草を取り上げ、チョコを渡してくれる姿を。
一つ齧れば、私が家事を分担することに妻が喜ぶ姿を。
一つ齧れば、妻と笑いあう私の姿を。
過るたびに溺れていった。
私のことを恐怖ではなく幸福の対象として見てくれる彼女が私は心底気にいって、包装紙を部屋に埋め尽くすほどに幸福な家庭へと埋没していった。
外からどんどん、とドアを殴る音が聞こえる。
腹の中から何かが同時に殴る。
どちらも私が妻にしたように何度も何度も殴る。
先ほど躓いた何かを見ると、妻の足だったものが包装紙の隙間から伸びていた。淡く白かったそれはもう変色して黄ばんでいる。ぶくぶくに膨れ上がり、見る影もなくなって床に横たわっている。
こんなもの、嘘だ。
嘘だと言ってくれ。
もしくは、何かしらの悪夢なんだ。
それならば、早く夢から覚めてくれ。
誰か私の頬をつねってくれ。
夢だと言ってくれ。
チョコだ。
チョコが足りない。
私にはあれが必要だ。
足に力が入らない。そして足を滑らせ包装用紙をまき散らす。
巻き上がった包装用紙は様々な思い出を映しだした。私が妻を蹴る場面。私が妻の髪を掴み引きずる場面。私が妻を罵倒する場面。
包装用紙の裏が返され、そこには妻が頬を腫らしている場面や、うずくまり泣いている場面が映し出される。
口からこぼれる嘆息に謝罪の念が混じる。
見たくない。
こんなものは全て虚構だ。
俯くとそこにあるのは妻の見開かれた瞳だった。透き通るほどの美しくも残酷な黒い穴がこちらを向いている。溢れんばかりの涙のような、白い何かがくぼんだ瞳からあふれている。
「おまえがやった」
彼女の口から赤が散ってゆく。
ひらひら、と。
くらくら、と。
ふらふら、と
消灯していく私の世界に、彼女の瞳は私に訴え続ける。
「俺じゃない。俺じゃないんだ。信じてくれ」
美しいお前をやったのは、私ではない。
否定し続け、チョコを探し続け、やはり見つからず、ねり歩く。ずるずるとナメクジのように跡を残して。
腹がじくじくと痛みだす。はちきれんばかりに膨らみ、大きな腹が押し出される。とんとん、と触診され、何かが針を刺す。ちくちく、と数度刺すと、今度は思いっきり大きな針が貫いてくる。私の腹は風船のようにはち切れ、中から黄ばんだ煙と甘いチョコレートが流れ出した。
外からはガチャガチャと、鍵をこじ開ける音。
今、扉が開かれ、光が差し込む。
床はチョコレートの海。
空気は煙に巻かれる。
眩しい光を目に刺され、私は息を止めた。