02.ジュエルを召喚!……して逃げた
「ジュエル!」
その名を叫ぶように口にした瞬間、私の背には、大きな手が添えられていた。
両手をもたげれば、縋れる肩がそこにあり、ひざ裏に手が添えられて、ふわりと持ち上げられる。自分で立つより、よっぽど危うげなく安定するその腕の中、がっしりとした肩に頬を寄せた。
その肩の向こう、聖女の像の顔がいつもより近くて、その優しげな目元に懐かしさがこみあげて来る。
「ここに」
耳朶を食むほど近くから、今更ながらな返事。それは、先ほどの呼びかけに対するものだろうが、もう抱き上げた後では、どこにいるかなど明白にも過ぎる。
顔を上げれば、あまりにも間近でこちらを見る、心配そうな目。ちょっとばかり垂れ目で、右目の下にあるホクロがちょっとかわいらしい。
いつもなら布で隠されている口元も、私に会うべく首元までずらされ、高い鼻も薄い唇も見えている。だから、その吐息が頬にかかるのも、ちょっとくすぐったい。
どうやら、床に伏せたまま呆然としていた私を、マティアスの側から引きはがし、抱き上げてくれたらしい。
背後からの気配を無視してぎゅっとしがみつけば、彼は、天井を見上げた後、助走も初動もなしに床を蹴り、飛び上がった。
ぐんっと一気に、天井のステンドグラスが近くなる。妙な浮遊感があった後、彼の手と足とが縁飾りをとらえ、ありえない位置で安定する。
そして、ステンドグラスの模様の一部に隠された天窓が開かれ、ひらりその向こう側に身を躍らせる。錠の指かけ部分に紐を絡ませ、窓を閉じ、その鍵すら外部からかけてしまう。
さすが諜報や暗殺を執り行う部隊の中でも、トップクラスの実力を誇るだけのことはある。というか、本当に人間なのか、疑問を覚えてしまうレベルだ。
聖殿の屋根の上、おそらく私が不用意に足を踏み入れれば、あっさり砕け割れてしまうだろうに、どこにどう立っているのか。
そんな位置で私を抱えなおし、ぽんぽんと背中をあやしてくる余裕は、いったい何なのだろう。
ちろっと下を見れば、目もくらむ高さ。吹きすさぶ風もすさまじく、でも、この腕に守られていれば平気だと、安心できる。それは、ただ慣れたからか、それともその腕のたくましさからか。
ジュエルは、ここから見える私の部屋の近くの屋根に飛び移り、外へと向けられたテラスに降り立つと、しっかり施錠されているはずの、私の部屋の窓を開けた。
窓を外から施錠できるのもおかしいが、内鍵しかないものを、外から容易く開けてしまう彼には、入れぬ場所などないのだろう。
部屋はメイドたちが維持してくれている。だから、いつ戻れども清潔に、暖かく保たれている。
今とて、予定外の時間だというのに、暖炉には火が入っていた。
ジュエルは私をベッド脇の寝椅子に下ろすと、部屋の脇のワゴンから、ワインと蜂蜜を湯で割ったものを用意し、差し出してくる。お湯すらもきちんと用意されている驚きを、今更ながらに思うも、とりあえず今は、その暖かさがありがたい。
なんで私室の居間ではなく、寝室に連れてきたのかと思ったが、今はきちっと座る気力もなく、だらしがなく寝椅子に転がれるありがたさに安堵した。
「失礼いたします」
言うが早いか髪がほどかれ、ピンク色の髪が視界にかかる。締め付けられていたコメカミが緩み、ピンが外されただけで、ずいぶんと軽くなった気がした。ぐしゃぐしゃの頭の中はそのままに、少しだけ安堵がにじむ。
どうして、どうなって、どう……何がいけなかったのか、あったのか、考えるも追いつかず、半ば放棄したままの頭の中は、まだぐちゃぐちゃのまま。自分がなににどう思ったかすら、うまく整理できていない。
うなじの金具が外され襟元も緩められ、靴も脱がされてしまう。あまつさえ、スカートが膝までたくし上げられて、靴下もするりと引き抜いてしまう。
当然、普段は着替えなどメイドにさせている。だけど、こうして授業や公務を逃げ出して、ベッドに寝かしつけてもらう時などは、そのまま彼に支度してもらうことが多々あるせい、私もついつい気にならなくなっていた。
でも、改めて、彼が攻略相手……結構な美貌の男子にそうされているのだと思えば、ちょっと恥ずかしくもなってくる。
「授業は中断されたのですから、昼食までのひと時、このまま休まれてはいかがでしょうか」
いつもなら、このままぐずぐず彼に寝る支度を整えさせ、そのままもそもそとベッドに入る。
今とて現実逃避に楽しい夢にでもまみれたく思うし、暖かなワインがいい具合に体を温め、そのまま寝入れば気持ちよかろう。
何もかも放り出し、ベッドの中へ連れて行ってもらおうかとも思うが……。
「……でも……ダメ」
この世界がルチェロワの世界だとわかった以上、そのまま放置しておけば、大事が起きてしまう。
私が何かしたところで、何もできはしないだろう。
今とて、告白一つうまくゆかず、そこから逃げ出すことすらジュエル頼り。
一応のこと公務もこなしてはいるが、マティアス言うところのお粗末なお飾りでしかない。その公務とて、聖句を唱えるとか人前で祈りを行うとか時期の挨拶を告げるとか……はっきり言えばおきまりのことを人前でする程度のことだが、毎回なにかしらミスしている。前回は、大切な錫杖を転がしてしまい、辺りがシーンと静まり返ってしまった。おそろしいことに、数百人はいるその場所で、物音一つしなくなったのだ……もう、あんなことは二度としたくない。
いや、今はそんなことを考えている時ではなくて……何よりも考えなくてはならないのは、明日の公務やマティアスのことじゃなく、物語が、どこまで進んでいるのか……だ。
ゲームは、当然ながら主人公・クリステルの視点から語られる。片田舎に住むクリステルについて、私は欠片ほども知らない。
ゲームでの私は、オープニングの終わりごろに彼女の存在に気付き、ジュエルを使い神殿まで呼びつける。つまるところ、少なくともゲーム本編はまだ始まっていないということになる。
さすがに設定そのままの状況、そして登場人物たちが揃い踏みで、クリステル本人がいないということはありえまい。いや、名前は可変だったはずだから、”クリステル”ではない可能性はあるが、ゲーム本編のヒロインはどこかにいるはずだ。
ヒロインがいなければ、暗殺やクーデターが起きないとは限らない。そもそも総集編紛いの神様エンドの時には、クリステルは全く関わっていないのだから。だから、それを回避したいだけの私には関係ないこと……とはいえ、全く無視できるものではない。
どこかの片田舎に……にしても、片田舎ってどこなのだろうか?
とりあえず、覚えているのはパパがナイスバディのバディであったことと、母がマリーであったこと……子どもはヒロイン1人で、村の側には森があって、その脇の河原でのんびりとしているところを……そうだ、おまる余る……違う……アマルナ……神官のアマルナが現れ「聖女さまっ!」とかほざきだすんだ。
神官アマルナ……聖女や女主教を中心に据え置きながら、神殿内に女性は少ない。私の世話役やじじばば軍団の老婆はともかくとして、女性神官となれば少なかったはずだから、調べればわかるかもしれない。
私が、”この世界がゲームに類似している”と気づいたのが、オープニングが始まったタイミングという可能性もある。ならば、偽聖女の計画を止めるのは難しいかもしれないが……せめて、王に保護されるのは阻止できるかもしれない。
「何がダメなものでしょう、お一人が寂しいのでしたら、二つ時までならば私が添いましょう」
両手に抱き込んだワインが冷えてしまうぐらい考え込んでいれば、添い寝などという、あまりに突飛な提案が向けられた。
いや、たしかにこうして部屋に連れてきてもらうのも、着替えを手伝ってもらうこともままあることだけど、さすがに添い寝はしたことない。
何を言っているんだと顔を上げれば、思った以上近くにいて……本当に常々思うのだが、ジュエルは対人距離が近すぎる。
「夕時に仕事が入って下りますが、それまでならば……」
添い寝を申し入れたにしては、涼しげなその顔。改めて彼の言った言葉を思い起こしてみれば、添うとは言ったが、寝るとは言ってなかったかもしれない。
自分の想い違いに、ついと頬が火照りあがる。
「あぁ……そばな、そば……添い寝、ちがっ」
「お望みでしたら、添い寝でも伽でも、私で無聊がお慰めできるのなら、なんなりと」
「ムリ!」
言いながら、ふと、気がついた。
主教という立場上、私は自由に動き回ることなどできない。しかも、僻地であれば数日かかる。でも、ジュエルならその半分もいらぬのではないだろうか。
でも、彼は、大抵私のすぐ側にいるが、私の手駒ではない。さっき言っていた通り、彼にも彼の、別の仕事があり……おそらく暗殺か偵察だろう、その仕事の間は、私が呼んでも来てはくれない。
まずは、頼むよりも先に、彼を手に入れることが必要なようだ。