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うたた寝に愛しきを見る

 クロエが夢かクロが夢か、猫と少女とどちらが本当か。

 どちらにしろ、クロエという少女がいて、マティアスやジュエル、ジェラルドやセドリックやガエルがいて、ジェネラルとドン・デジレまでもがいて……ただいま神殿は千客万来の大繁盛……いや、だから何ということもないのだけれど。

 今の私は猫のまま、中庭まで戻ってきたところ。目的などありもせぬまま、先に寝ていたベンチを素通りし、のんびりと歩みを進める。

 まだ続くかこの夢は、なればと思い胸に描くのは、夢でしか会うことの出来ぬあの人で……そう思った背中に、懐かしい、懐かしい懐かしい声が響いた。


「どぉこ、いくんか」

もごもごと、何か食みながらのような少々聞きづらいその声は、だけども暖かくもはっきりと耳へと届く。

 振り返れば、見慣れた大きなサンダル。茶色のそれに収まっているのは、しわしわの足。そこに、棒切れに皮がへばりついたような足が続き、たっぷりの布に覆われる。聖女としての装飾多寡なそれを、しょっちゅう面倒だと愚痴っていた……それを懐かしく思う。

 見上げてゆけば、しゃがんでいるのだろう小さな老婆の姿。杖が間近に立てられ、それに縋るようにしながら、こちらへ手を伸ばしてくる。

 その手は、絶対に私を傷つけようとしない手だと知っている。その手は、絶対に私を拒否しないものだと知っている。その手は、暖かいと知っている……その手に、誰が縋らずにいられようか。

 甘い気持ちがこみ上げてきて、胸がきゅうっとしぼられて苦しくなるほど。

「あーちゃ」

『聖女』とうまく発音することができず、『ばぁちゃん』と呼べといわれて、『ばぁちゃん』すらもうまく発音できなかった私の、彼女への呼びかけ。

 その『あーちゃ』が彼女のあだ名として定着したほど、繰り返し繰り返しそう呼んだ。

「あーちゃ、あーちゃ、あーちゃ、あー」

「おやおや、どうしたい? こんな甘えっ子になって」


 伸ばしたその手は、いつの間にか人のものになっていて、抱きつくその身は幼子のものに変わっていた。

 優しく髪をなでてくれるその手に、初めて自分が、猫ではなく5歳児の姿になっていることに気がついた。

 今の姿ではなく、幼くして不器用で、彼女に守られることしかできぬ自分の姿。

 それは、心をチクンと刺す痛みと同時に、ふんわりと甘く包み込んでくれるような懐かしさにまみれてしまう。

 しょうがない、彼女はもういない。

 私が彼女と触れ合うことができたのは、5歳から10歳までの5年間。その間に私の背も伸びて、最後には彼女を支えることもできた。でも、そのころには彼女はもうベッドから起き上がれずにいた。

 一番嬉しい、彼女の元気な姿は、やはり5歳のころなのだからしょうがない。


「あーちゃ、だい、すき、だいだいだいだいだい、すき」

もしも今、彼女に会うことができたなら、言いたことなど山ほどある。

 失敗してしまった計画のこと。大事にしまわれていた薬を使おうとしたこと。マティアスのこと、ジュエルのこと、兄たちのこと……ただ、ただ彼女がいなくなって寂しくてしょうがないことも含めて、全部ぶちまけてしまいたいのに、口から出た言葉は、そんな他愛もない言葉だけだった。

 どんな話よりも、どんな問いかけよりも、どんなものよりただそれだけが口から出てきた。

 しがみつくみたいに彼女に抱きつき、幼い頃の高い高い自分の声で、ただただ、彼女を好きだと告げる。

 にっこりと目を皺の中に隠すぐらいに細めて、彼女はなんとも幸せそうにその表情を笑み崩せば、私の言葉に報いようというように、ぎゅうっと強く抱きしめてくれる。

 もう失ったこの時間が、どれほど幸せなものだったのか、どれほど心地のいいものだったのか、今更ながらに思い知らされる。

「あーちゃ、あーちゃ、あのっあのね」

「そなせかさんと、ゆぅっくり、おしゃべりしんさい」

「あーちゃ、だい、すき、よ」

これからどうしていいか教えて、どうしたらうまくゆくの? 彼女にそう問いかけたかったのだけれども、それに対して彼女がどう応えるかを私は知らない。そして、多分、今現実のクロエと彼女の会合を思い描けない時点で、私の想像力で補えるものではないのだろう。

 だから聞けない、つまりはそういうことなのだろう。でも、聞いたとて、私の想像を越える物が出ないのだから、元々意味などない。

「あーちゃは?」

「とうに、だいすきよ、クロエ」

だから、きっと、話すのは、こんなことだけでいいんだ。

 幸せな、幸せな夢なのだと実感して、意識がふわっと浮上した。


「君は、幸せかい?」


 すっと景色から色が抜け落ち、まるでぼやけてまるで白焼けした古い写真のように、陰影と微か淡く色だけがわかる程度のものになりゆき、とけるように白に変わり行く。

 のぼりゆくような浮遊感というか、夢から覚めゆくような感覚を覚えたものだから、現実に戻るのかと思いきや、私の体はまたチビな黒猫にもどっており、やっぱりこれが現実なのかと期待してしまう。

 猫の生活が楽なものではなかろうが、なんだか山積みの問題から逃げられるのなら、それでもいいのではないかという現実逃避。

 むしろ、本当の現実は、まだ病室の中、ガンに侵されている最中なのかもしれない。そのつかの間の夢がこんなにリアルに感じているだけならば、むしろもど戻るべき場所は、死神の元かもしれない。


「いやいや、そんなに悲観したものでもないよ……要望は君のラブラブハッピー……なのだからねぇ」


 誰かのぼやきのような言葉が、頭の中に響いてくる。

 どこかで聞いたことがある声……いい声なんだけど、私の好みとは少し違う、透明感のある少年っぽい声。かわいらしくはあるその声、最近どこで聞いたものか思い出せない。

 どこか、君のせいだよと責められているような気がするが、私はそんな要求を出した覚えはない。

 そして、『君との』ではないのだから、マティアスや他の誰かのというわけでもないようだ。

 ならば、なんで、『君』……私のとしているのかがわからない。私が誰かとラブラブハッピーを演じることで、その要望を出した誰かに利があるのだろうか。


「利なんてないよ、一切ない……ただの、純然たる好意だ」


 そんなものは更におかしい、ただの好意で他人の幸せを願うとは……と思ったところで、あーちゃの姿を思い出した。

 だが、なぜだろう、その面影が消しゴムで消されたように打ち消され、代わりに思い浮かんだ母の姿もまた消され、もうぼんやとも思い出せない前世の母の姿も同じくしてみれば、おそらく無償の愛を濯ぐ面々ではないらしい。

 ということは、父や養父やお兄ちゃんたちも違うのだろう。


「所詮、君の気持ちはその程度……だっていうのに」


 酷く、酷く不満そうなその声、どうやらこの声の主は、私のために無償で働く誰かに思いを向けられたくてしょうがないのだろう。

 その誰かは誰なのか、そしてそもそもこの声の主が誰なのか、まったくもってわからないんがら、そもそも私はこの黒猫の姿のまま、クロエに戻れるのかどうかもわからなければ、そのラブラブハッピーもどうなのかわかりはしない。そしてこれが夢なのなら、覚えていられるかどうかもわからない。

 とりあえず、誰かが私のことを、それほどまで思ってくれているらしい。それはちょっと、嬉しいのかもしれない……。

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