医6.変革の1日の終結に
「クロエ様が!」
目の前がいきなり暗くなった、それを認識する間もなく、その場に押し倒された。
肩と足首に走る痛みがあったとは、後から気付いたこと。おそらく、肩を押され足を浚われしたのだろうが、痛みが来るよりも前に混乱に陥っていた。
のしかかるように押し倒され、だが、背が床に着く前に、襟をねじり上げるようにして引きあげられた不安定な姿勢で、
「自殺をほのめかされました」
との報告を受けねばならぬのはなんでなのか。
尻の落ち着かぬ姿勢が、こんなにも不安だなんて初めて知った。
足が立つこと叶わず、必死に蹴りもがくが、水の中にいるかのごとくにうまく体が動かない。冷静になればしゃがむ姿勢も取れる高さだろうが、慌てたその足裏を床につけることすら適わない。
襟をつかむその手に縋り、間近から覗き込む顔がジュエルのものであると認識した途端、一瞬、死を覚悟した。
「待ちたまえ、待ちたまえジュエル」
恐慌状態に陥りかけた自分を冷静にさせたのは、むしろジュエルの必死の形相だった。
メティたちとの会話で気が抜けていたのかもしれないが、そこでこの突発事態。頭が追いついていかない混乱の中、自分以上に感情に囚われている者がいると、かえって冷静になるものだ。
「ほのめかされただけなのだろう? ならばまだまだ猶予はある」
よほど、そのほのめかす言葉に衝撃を受けたのだろう、ジュエルは泣きそうに顔を歪めている。
縋っているのか、助けを求めているのか、僕の手際の悪さをののしっているのか、それとも僕の策かと勘違いして怒っているのか……おそらく何をしたらいいのか、どう動けばいいのか、彼自身、分からなくて僕のところへ来たのだろう。
ふと見れば、老爺4人はもちろんのこと、その補佐官たちまでも剣を構え、こちらを注視している。メティが持っているのが逆さにしたイスであるあたりがなんとも間抜けだが、とりあえず彼らに大丈夫だと手を振り収め、全ての剣が鞘に収まったところで、ジュエルの肩をぽんと叩いた。
「彼女に首を突く度量はないし、舌を噛むなんて到底無理だ。高所で足を竦ます彼女が飛び降りれるはずもない。胸や腹はためらい含んだ一刺し程度じゃ死ねない。手足を切ったところで致死量の出血には早々至らない。もしすぐに実行していたとて、死は簡単に訪れるものではないのだよ」
半ば自分に言い聞かすようにして思いつく可能性を頭の中で打ち消し、冷静になるように口にすると、ジュエルが泣きそうな顔を向けてきた。
「……助けて」
白くなるほど握りこまれた拳と、その小刻みな震えには、いったいどれほどの思いが込められているのか。それを一本づつ解いていき、体を起したところで、事態が切迫していることを示すべく、追いかけ僕に従う暗殺者・アンバーが現れ報告した。
「クロエ様が聖遺物の間を訪れました」
彼女が、聖女の遺物をまとめた部屋に行くのは、珍しい事ではない。
どれだけ禁止されようと、泣きたいときは聖女の像かあの部屋に逃げ込むのが常だ。それはこの五年間、呆れるほど見てきた。
だが、自殺をほのめかした上でとなれば、目的は……。
「クロエ様が物書き机を探っておられます」
更にと暗殺者・シトリンより寄せられた報告に、想定が確証に変わる。
全くもって困ったお方だが、ビビリな自分をご存知ではいるらしい。自殺をと考えたところで、服毒が一番容易かろう。もちろん、その毒が手に入ればという注釈付きだが。
物書き机に聖女の薬が一本だけ残されているのは周知のこと。あれは、彼女のためにそこにあるのだから。
いや、元々は聖女自身が自殺を謀って隠したものだが……。
彼女の薬は毒にもなり得る。どうしようもない事態で、死に逃げる時のためにと、彼女自身が隠したものだ。だからこそ、他の薬が処分ないしは没収された上でも、それだけはそこに隠され続けた。
だが、それは、打つ手がいくらでもある今、使うべき物ではない。
「ジュエル、行こうか、クロエ様をお止めするのだろう?」
乱れた衣服を正し、部屋を出て行こうとするが、ジュエルは凍りついたように動かず、呆然とこちらを見ている。
おそらくだが、彼女が亡き聖女に縋り、自分に助けを求めないのが不満なのだろう。それは、僕とて同じこと。
「……お止めして、いいのでしょうか?」
「ん? 愚問だな。止めたいのだ、それ以上の理由など必要ないだろう」
「私は……」
一瞬、僕の目の前で拳を握り締めるジュエルの姿に、彼女の首を絞める想像が重なる。先ほどの突然の来訪も、殺意があれば襟ではなく首を絞めて容易く殺害できたのだろう。
ジュエルには毒や刃物を使わせてはいるものの、冗談ではなくリンゴを片手で握りつぶすその手は、容易く人を縊り殺すことができるだろう。
「お前が彼女を殺せば、全てがうまく行く……などということは一切ない。クーデターは彼女の死に関係なく、起すことも起さぬことも可能だ。彼女がもうこれ以上、苦しまぬようにというのなら、その苦しみをこそ排除すべきであって、彼女が排除される必要はない。本末転倒もはなはだしい。君は、彼女を守りたいのだろう?」
問えば、ジュエルは茫洋とした視線がこちらへと揺らめき、真っ直ぐに僕を射抜いた。
どうやら彼の中の迷いは晴れたらしい。どういう思考をしていたかは知らないが、少なくとも、殺すべきかどうかという悩みは捨てたのだろう。
「何より、僕は、彼女に笑って欲しい」
「……それは、私もです」
「ならば、僕を彼女の元につれていけ、丸め込んでやる」
言った途端、ジュエルは僕をお姫様抱っこして部屋を飛び出した。
「それで、何をするつもりかな?」
せめて普通に抱えろ、もしくはおぶえと言うと、おんぶに変更してくれたのは、まぁよしとしよう。
ぐいっと肩の上に押し上げられて、どうしておんぶにいたったのかはわからないが、とりあえず彼女が毒を煽る前にたどり着けたのは行幸。
まぁ、煽った後だとて、相手が聖女様ご本人ならば、そのご意向を尊重しもしようが、彼女のそんな望みをかなえるつもりはさらさらない。
とりあえずジュエルの背中から下りて、彼女の前へと歩み出れば、頬を染めて顔を反らす可愛らしさ。いや、まさか、僕がおんぶされてたことを笑っているわけではあるまいが。
「マティアス……なんで」
シンプルな白い服で立ちすくむクロエの手には、聖女が作りたもう薬が握られている。
頼りなく庇護欲をそそるその姿は、その胸に僕への、死を恐れぬほどの気持ちを湛えていると思えば愛しくもなる。
白い服は、先ほどまで着ていた生成りの病人服が、どれほど野暮ったい代物だったかを思い知らすように、彼女の華奢な体を彩る。その柔らかそうな胸元、折れてしまいそうな細い腰、ふんわり広がった裾から覗く細い足。とりあえず、その裾をまくる想像はしないでおこう。
「なぜここにいるのかという問いに対しての答えは、君を止めるために……以上だよ」
多少の気恥ずかしさから早口になる自分を勇めつつ、さて、彼女をどう説得しようかと頭を巡らせる。
こちらへと向けられる、反抗的な彼女の目、むしろ妙にそそられるのだが……それに挑発されるわけにはいかない。
冷静に、冷静に彼女を説得しなくてはなるまい。
「私……私がいなければ、クーデターを、起こす理由が、なくなる」
言葉の端々に『あなたのために』と聞こえてくるような、切々とした言葉。
彼女が僕に惚れているのは、そして、彼女がそれほどに僕を思っているのは重々承知。だが、それなら可愛らしくおねだりでもしてくれた方がよほどいい。
お願いとか言いながらしなだれかかってきたら、大抵のことは聞かざるおえまい。
「正当な理由なく、父も、兵を動かせません。誰も、動きません」
震えるその声は、もういいのだとなだめてやれば歓喜するだろうか? いや、現実はそんなに簡単にいかないだろうことがもどかしくてしょうがない。
言ったところで嘘を疑われ、何の策かと余計な考えを巡らせるだけだろう。問題は、彼女自身が僕の気持ちなどさらさら気付いておらぬということ。
「誰が、今に反感を持とうと……私という象徴をなくしては、誰もが、動けない」
真っ直ぐに見つめてくる彼女の視線は、何を言おうとも僕の言葉など耳を素通りするだろう。
そうじゃないと言ったところで……彼女のことだ、自分の想定内の言葉しか聞き入れないだろう。
「私を、今、止めたところで……私の周囲から、ナイフや毒薬、とりあげようと、そうせしと思う私を、閉じ込める、わけには、いかぬでしょう? いくらでも、いくらでもチャンスはある」
いやまぁ本気でそうしようと思うのなら、いかようにもやりようはある。いっそ外道な方法を取るのなら、思考能力を奪う薬というものもあるし、必要ないときは寝かせてしまってもいい。
媚薬付けとか頭の端を掠めたところで、思わず邪な妄想を打ち消すべく、その表情引き締めた。
気持ちは痛いほど分かるし、こちらもそれに応えたいと思うのだが、彼女自身が障害ですなんて、どうすればいいのだろうね。
「マティアス、私、あなたの指図はもう受けない」
そう微笑む彼女はなんとも愛しいのだが、そう思う僕の気持ちの欠片ほども伝わっていなさそうだ。
正直、どう言えばいいかわからない間抜けさは僕こそだが、少しぐらい心の機微とか感じてくれてもいいのではないだろうか。彼女は鈍すぎると思うのは、気のせいだろうか。
「ジュエル、ちょっと目を瞑っていなさい」
もうたまらなくなって、そう一言ジュエルに命じると、彼女の側へと歩み寄り、その柔らかそうな身を抱きしめた。