医2.密約を裏で覗いてた
冷静になれども、彼女への無体が妙に心を疼かせ、枯渇だか飢餓感だかを覚える。
柔らかな唇、震えてこちらを見上げるその顔、しどけなくも放り出された足。あの場で全てを暴いてしまう様を考えそうになって、何を考えているのかと自分を叱咤する。
渇望、喪失、不安……まぁ、つまるとおろ、これが恋というものなのだろう。まるっきり性欲に踊らされているような気もするが、どうしようもない心の揺れに自分で驚く。
思い切り愛でて、思い切り泣かせて、思い切り甘やかして……すれば満足するだろうか? むしろ欲がいや増すばかりであろう。
保護欲や支配欲や性欲、そんなものの塊りでしかない思い。
そんなものに溺れる愚は知れたもので、それによる破滅の過去はいくらでも知っている。女への欲はどれだけ罪深いことかというわけではなく、それだけ魅力的なものなのだろうこともわかっている。
むしろそれにこの年まで手を出さずにいたからこそ、下手に手を出してはのめりこんでしまうだろうこともまた……ならば、もう少し、せめてもう少し悪あがきせねばなるまい。
己のために、罪を犯すことを、可能性を確かめることを、既に決めてしまったのだから。
馬を駆りながら頭の中を整理し、城へとたどり着いた。
城につけば、珍しいことに彼女の馬車が先についていたと知り、わざわざ確認しに行ってしまった。本人は既に城内に入っており、馬車の中は吐瀉物にまみれているということで、洗浄消毒が行われていた。布の張替えも行うので、数日はかかるらしい。
いつもならば馬がなくとも走れば追い越せる程度の速度しか出さぬものを、今日はやけに急がせて、到着と同時に医務室に運び込まれたようだ。
医務室まで足を伸ばせば、慌ただし中、未だ嘔吐に悩まされた彼女が、看護師により裸にさせられているところだった。
さすがに、自分の管轄ではないところで、しゃしゃり出るわけにもいくまい。踵を返したところで、ジュエルが隠し部屋に案内してきた。
元からあったものなのか作られた場所なのか、数部屋向こうの隠し部屋から細い細い梯子を上り、連れてこられたのは彼女の病室の上だった。
天井の木目の隙間を模したのだろう覗き穴があり、そこから彼女の着替えがありありと覗ける様に、思わずジュエルを見返してしまった。
「一応、言っておきますが、クロエ様は、私でも平気で着替えの手伝いをさせますよ」
「……わかっている」
彼女にその手の羞恥心や警戒心が欠けているのはわかっている。
惚れている対象であるはずの僕にすら、平気で胸元を開いてみせる。それは、診察という必要があり大切なことなのだが、聖職とは思えども、全てにおいて聖人君子でいられるわけがない。
誰だとてそうだろうに、そういう仕事なのだから平気だろう、こういう人だから平気だろうと、無防備な様に、少し苛立ちがあった。
しばらく覗いていると、ここにいることを聞きつけてきたのか、ジュエルが連れてきたのか、僕個人が雇い入れた数人の男が顔を出した。
一言二言の報告を受け、新たな指示を一つ二つ向けているところで、また、げぇっと嘔吐の声が聞こえてくる。
「レモン水でも何でもいいから、持ってっとけ。彼女ははちみつが好きだから、ひとたらし……お腹も弱いから湯冷ましのほうがいい」
言うとすぐにジュエルが席を外し、すぐに帰ってくる。
だが、下から小さな声で、
「ありがとう、嬉しい」
とのクロエの声が聞こえてきたから、おそらく水の用意は指示してきたのだろう。
続けてきた報告者の対応をして、あらためて病室を覗けば、こざっぱりと整えられて、ベッドに沈む彼女の姿があった。
顔色は悪いが、その呼吸の仕方を見るに、そう悪くもなかろう。
「昼食はなにか食べていたか? 神殿では用意がまだだったと思うが」
「おそらく、まだなにも召し上がってらっしゃらないかと」
「朝から何もか?」
「おそらく、朝食もほぼお召し上がりになっておりません。紅茶とクラッカーのみでもういいとおっしゃっておいでで……」
「死にてぇのか?」
「昨日の晩餐が少し応えてらしたようです」
「だが、あれでデジレ紹介の……」
「理解はしておりますが、それで体調が改善するものではございません」
「……わかった……少しは減らすよう考慮しよう」
小さな声でのジュエルとのやりあいは、なぜだか神経をすり減らす。
むしろ、金で懐柔できるデジレ氏や、褒め言葉で容易く浮かれるグレゴワール氏の方がマシだ。嘘や虚飾に満ちていようとも、ジュエルのように思わぬところに逆鱗はない。
「とりあえず、サンドイッチかマフィンあたりを用意してもらっておいたほうがいいだろう」
声をかけると、ジュエルは再び席を外した。
しばらくすると先触れが訪れ、国王自らが彼女の病室にやってきたことに、少し驚いた。
ベッドの上での謁見とは、いったい何事か。おかしなその状況に、にこやかにやってきた国王陛下と宰相閣下、そして、騎士どもは、誰もが彼女に頬を緩めている。
型どおりの挨拶がなされ、献金のお願いが出るのだろうと思いきや
「お兄ちゃん」
との言葉に、下に来た面々が色めきたった。
隣で、いつの間に戻ってきたのか、ジュエルまでが「おぉ」と小さく声を上げている。
いったいこいつらは、何を考えているのか。
「……ジュエルを、買うお金……お小遣い……欲しいの」
その言葉に、思いのほか傷ついた自分がいるのは否定しておこう。くだらぬ会話に、思わず腹を立てる前に、か細い声が胸を打った。
「罪を、犯さぬため……クーデター……父が、なさぬよう、手を打ちたいの……です」
「グレゴワール氏が、クーデターを画策していると?」
クーデターなど、どこから耳にしたのか、驚きに目を見張る。
いったいいつ、そんな情報が漏れたのか、ジュエルを見るが当然ながら知らぬと首を振っていた。
本日の授業中は、昨晩の晩餐への文句と、明日キャンセル予定の公務についての愚痴しかなかった。
だが、クーデターのことを理解していて上手に口を噤んでいたというのなら、進言した可能性があるのは晩餐の時の周辺か。
「晩餐のときの彼女の隣は隣国の貴人だったな……」
「あのご夫人は、政治のことより彼女のお肌のことしか気にされてませんでしたよ」
晩餐の時の逆側はグレゴワール氏ではあるが、彼が彼女に何か言う可能性は薄い。そういう情報から隔離するために神殿に入れておいて、今更、自分で教えたりはしないだろう。
基本的に講義と祈りの毎日を送る彼女に接触する者は限られている。
全てを理解しているジュエルでもなし、国王陛下や宰相閣下でもないのなら……。
「では、いっそのこと、私に嫁ぐかい?」
思い悩んでいたところで聞こえた、冗談めかしたその言葉に、思わず下へと集中を向ける。
国王陛下は、いつのまにやら人払いをし、冗談だとしておきながら、やけに熱心に口説いている。隣に宰相閣下と騎士が1人居はするものの、この状況は何だろうか。
しかも、止めに入っているかと思った宰相閣下までもが、私ならばと自分を売り込みはじめる始末。
このカオスな事態に、ジュエルはむしろ興味深そうにしばらく眺めた後、ちろりとこちらを覗き見た。
何が言いたいのか、何を言わんとしているのか、何のつもりなのか……分かってしまうが考えたくはなくて、彼女が帰りに必要になるだろうと、今作った馬車の手配書類をジュエルに押し付け、退席願った。