6.過恋
「あらがいたいなら、上を向け!」
そうして、投げられた鞄は花火のようにきれいだった。
「なにボサっとしてんの!」
ふと気づくと、先輩は僕の手を握っていた。
「逃げるよ」
先輩はそのまま2階へと階段を駆け上がる。あいつらは鞄と投げたせいで出てきた教科書を拾っているせいで、「待てー」と声は聞こえるものの追いかけては来ない。
2階にたどり着くとすぐ身を隠した。
「ちょっ、先輩……」
「静かに!」
先輩は手のひらで僕の口を抑えるが、これは静かにできる状況ではない。僕らが身を隠しているのは女子トイレだ!
こんなことがバレたらとんでもないことになる。僕の学生生活は終わりも同然だ。
僕が今いる状況に怯えているのも知らず、とても冷静な顔で外を観察する先輩。階段から駆け上がってくる音と、怒鳴り声が聞こえる。
「箱部!どこだ!」
「出てこい!クソやろう!」
ここも恐ろしいが、外も恐ろしい……。
「俺とお前でここの階の教室を探すぞ、あとのやつは上の階だ」
誰か一人がそう言って全員がいなくなったのを確認して、先輩は静かにトイレを出た。
「今なら昇降口まで行けるよ。」
と、僕に耳打ちして、先輩は僕の腕を引っ張って階段を降り、そのまま下駄箱で靴を履き替え学校をあとにした。
「なんとかまいたね。」
「悪い事は主張するんじゃないんですか?なんで、逃げるんですか?」
「逃げるのも戦術のうちだよ。」
「とても足が痛いです。」
「あっ、ごめんね。て、やっぱり平気じゃないじゃない!」
さっきまでクールだった先輩が「嘘つきー」と無邪気に物を言う姿に思わず笑ってしまう。
「なんで笑うのよ」
笑うのなんていつぶりだろう。最近はずっと暗い顔をしていたように思う。でも、ふと我に返ると考えてしまうのだ。
「こんなことしても無駄ですよ……。」
つい暗い声が出てしまった。そのせいかさっきまで笑っていた先輩の表情はクールな顔に戻ってしまっていた。
「今日、逃げ切れたって、明日また学校にくればアイツらに会うんだ。そしたらまたいつものような扱いを受けるよ。今日、ひどいことしちゃったから、もっと重いものもたされるかも……。だからもう……」
「君がひどいこと?」
先輩はうつむく僕の顔を手で挟んで無理やり前を向かせる。ほっぺが痛いのと、先輩の顔が近すぎるから離れようと抵抗するが、うまく抜け出せない。
「君は何もひどいことしてないでしょ。いつも酷いことしてるのはあっちの方じゃない!」
「そうかもだけど……」
顔が近すぎてつい目をそらしてしまう。
「君はもっと文句よ言うべきだよ。もし自分じゃどうしようもできないときは逃げればいい、誰かに頼ったっていいんだ。」
「僕、友達いないから頼る人なんていませんよ。」
そう言うと先輩はあごに手を当てて考える素振りをする。
先輩がすると本当に頭がいい人のように錯覚してしまう。
実際、いいのかもしれないけど。
そこで先輩はひらめいたとでも言うように人差し指を一本突き上げた。
「先生とかどうかな。」
この先輩はどれだけ脳天気なのだろう。つい深いため息が出てしまう。
「え、なんかダメだった?」
「もし先生に言って何とかなるなら、とっくに解決していると思いませんか。先生から見ればみんなでふざけて遊んでるようにしか見えません。」
「そうか……」と先輩はまたも顎に手をあてる。「うーん」と声を出して考えているといくらクールな顔の先輩も少し幼く見えてしまう。
「先生が勘違いしないくらいすごいことを君がされるとかは?」
「すごいこととは?」
抽象的すぎて意味がわからない。
「まー頑張ってみてよ」と先輩は無責任に考えるのを僕に押し付ける。なんて人だ。
でも……今までみんな見てみぬふりだったのに、先輩は初めて僕を助けようとしてくれた。
「もし無理だったら私を頼ってくれればいいから。じゃー、またね、えーと、たしか、箱部くんだっけ?」
「はい、箱部紫音です。」
「へー、シオンかー。なんかドラマに出てきそうな名前だね。うん、これからシオンくんと呼ぼう。じゃー、またねシオンくん」
そう言って立ち去ろうとする先輩を僕は思わず呼び止めた。
「先輩!」
先輩は「なに?」と言いながら顔だけこちらに向ける。
「先輩の名前、まだ聞いてません。」
何かとても恥ずかしいことをしている気がして、顔が熱くなった。
「私は里内菖蒲、よろしくね。」
「はい、今日はありがとうございました。」
「バイバイ」
先輩は手を振って帰り道を走り去ってしまった。
家に帰るとべッドの上にダイブした。今日の疲れが体をおそっている。ハラハラしたし、ドキドキしたし、しかも明日のことを考えねばならない。明日、学校行きたくないな。
こんなに行きたくないと思うことが今まであっただろうか。
でも、里内先輩にまた会えるかもと思うと学校に行きたいとちょっとだけ思ってしまう自分がいることがおかしくてならなかった。もう今日は寝よう。明日のことは明日考えることにしよう。
※ ※ ※
次の日、僕はいつものように学校に行きいつもの席につき平静を装う。
体から変な汗が出ていて気持ち悪い、胃はグチャグチャした不快感があって今にも吐きそうだ。
時間の一秒一秒がとても重く感じる。昨日までならこんな思いをすることなかったのに。
でも、今の僕ならできる気がする。いや、やらなければならない。
扉の開く音が甲高く響き、僕の心臓はより速さを増す。
「おい!箱部!昨日はよくもやってくれたな。」
アイツラのひとりが教室のドアからのしのしと僕の席の前まで歩いてくる。僕はその剣幕に無意識に視線をそらしてしまった。
「あー、しかとか」
他もその一人について行き僕を囲むように立つ。体の震えをなんとか抑え、歯を食いしばった。
あれ?僕は震えているのか……。そうか僕は、しょうがないとか誰かのために耐えてるんだとか、そんな言葉で自分の臆病さを隠していたんだ。
「おい!聞いてんのかよ!」
「ぼ、僕は」
今までの生活がそれほど悪いとは思わない、少なくとも今の状況よりは、それでも僕はあの人の隣に立ちたいから、立つ資格がほしいから、今戦うんだ。
「僕は、もうこんな扱いを受けたくありません。もう僕に関わらないでください。」
「はー、何勝手なこと言ってんの?」
「勝手なのはそっちだろ。」
あくまで冷静に僕は言う。あまり怒鳴り声を上げるのは教室の皆様方に迷惑だ。しかし、そんなことおかまいなしにアイツラの中の一人が教室で僕に怒鳴り散らす。それだけでなく、僕の胸ぐらをつかむ。これが意外と痛くて気圧されてしまう。
「お前!調子乗ってんじゃねーよ!」
「あんたたちはそうやって自分より弱いものを作らないと、自分の弱さを隠せない。おろかでとても頭が悪い。」
予想通りアイツラは頭に血が登ったようで「なめてんじゃねーぞ」とか「ぶっ殺してやる」とか怖いことを言う。まー、時間もちょうどいいし、あと、ひと押しかな。
「ホントは僕が君らより優秀だから、今までこんなことしたんだろ。とくに」
僕は今、自分の胸ぐらを掴んでいるやつを指さし、ニヤリとまるで相手をバカにするような笑みを浮かべて言う。
「君はこの中でも一番頭が悪いんだよね。全くなんでこんな奴らに今までペコペコしてたか、自分の行動に笑っちゃうね。」
その瞬間、アイツラは僕に殴り掛かってきた。こんなに思いっきり殴られたのは初めてかもしれない。しかも、複数人から。腹を殴られれば口から何かを出してしまいそうだ。顔を殴られれば目の前が真っ白になる。痛くて痛くてたまんない。けど、もう少しもう少しで。
そしてチャイムがなり、先生が入ってくるが、僕は殴られ続け先生が止めに入る。これが昨日、寝るまでと朝に考えた策だ。
僕の思惑通り彼らは停学処分になった。しかし、僕も午前中、やつらと同じ部屋でその場の状況説明と説教を受けることになったのは予想外だった。しかし、何はともあれこれで終わったんだ。
「先輩の言うとおりちゃんと逃げたよ。」
少し痛かったけど。そうだ、先輩に報告しにいこうきっと褒めてくれるに違いない。僕は何かを達成した喜びと先輩に褒めてもらえるという期待に胸が一杯で、その喜びと嬉しさから一学年上の教室まで階段を駆け上がっていた。
はやく、伝えたい!
階段を登り終えると、三年生の廊下に先輩がいた。
「先輩……」
その言葉は空気へと溶けていった。さっきまで教室の影に隠れて見えなかった。里内先輩は男の人と話していた。
とても楽しそうに、嬉しそうに、今まで階段を駆け上がっていた僕のように……。
人を初めて好きになった。人を好きになったせいで見えてしまった世界がある。里内先輩はあの男、僕が後に名前を知ることになる菊田翔真という人が好きなのだと不幸にも気づいてしまったのだ。
「あれ?シオンくんじゃない。どうしたのその怪我またアイツラにやられた?」
先輩がいつの間にかこんな近くにいる。
「いえ、大丈夫です。」
「そう?ならいいんだけど」
先輩の表情はさっきとは全然違う。笑顔さえ別の表情に見える。
そのことが僕の心をひどく苦しめる。さっき、教室でアイツラを待ってたときよりも殴られたときよりも痛く痛く僕を苦しめる。
それが僕の初めての恋で初めての失恋だった。
※ ※ ※
そして今、右も左もわからない世界でその初恋の相手、里内先輩と再開していた。
「なんで?」