1.プロローグ
〝事実は小説より奇なり″という言葉がある。
今ほどその通りだと思ったことはない。なぜなら僕は突如としてこの世のものとは思えない、白い毛を全身にまとった大きな猿に追われていたからだ。
大猿の一歩一歩の振動が体の芯にまで響いてくる。怖すぎて吐き気がする、全身に力が入らない、さっきから常にフル稼働中の足はもう感覚がないみたいだ。浮いているような気さえしてくる。しかし、そんな悠長なことを言っている場合ではない。少しでも気を抜いたら、絶対に死ぬ。
大猿が大声をあげる。その声は木の枝を揺らし、鳥たちを驚かす。そのあまりの声量に僕の体はよろめき、態勢を戻すことができず倒れる。もうダメだ立てない。心の中で死を覚悟する。
その時、人の声がした。
「大猿がいたぞ。」
大猿は声がしたほうに体を向ける。音がしないように息を止める。1秒、2秒と時間を心臓の鼓動で感じる。5秒、6秒と時間が過ぎる。
大猿はゆっくりと僕のもとから離れていった。溜め込んだ空気を一気に外に出す。ひとまず助かった。やはり大猿は人がいたほうに行ったようだ。
もしかしたらあの人たちも今頃襲われているかもしれない。僕は様子を見に十分に距離を取りながら近づいた。そこには剣や盾を武装している人が大猿を囲んでいた。助かった。きっとあの化物を倒すためにいるのだろう。あの人たちについて行けばなんとかなるかも。
その時、目の前で驚くべきものを見た。人が手から火を出している。一人だけではない、あの集団の数人が火を出している。大猿はその火に苦しむ。目の前の真実が信じられず、恐怖が体の奥から湧き上がってくる。あいつらも全員化物じゃないか。
僕はその恐ろしさに耐えられず、途端に走り出した。走っても走っても景色は変わらない。それでも走り続ける。ここはどこなんだ。僕は何でこんなところにいるんだ。どうして僕がこんな目に…。
木と木の間をくぐりぬける。枝が頬をかすめ、根っこに何度もつまずいた。それでも走った。僕は走った。その時、目の前が開けた。そこには…太い腕と赤い瞳を持った化物がそこに…その瞬間目の前が真っ暗になった。
……………
「おい、紫音。紫音。箱部 紫音君。」
「んー、何。」
重たい目蓋に力いっぱい開けると目の前に、僕の数少ない友人の一人 桐島 拓馬がいた。相変わらず目が隠れるくらい髪の毛が長い。
「どうしたの?」
「もう授業終わったよ。爆睡なんて余裕だな紫音。」
「余裕なんて…そんなつもりはないんだけど。ただ哲学にはあまり興味がなくて…でも、必修だから仕方なく出てるだけだよ。」
「その発言が余裕の人の言葉だよな〜。」
「そうかな。」
僕はそう言いながら荷物をリュックにしまう。そして僕らは教室をあとにした。
僕と拓馬は同じ大学、同じ理工学部。大学ではだいたい一緒に過ごしている。
「本当に紫音は典型的な理系男子だよな。化学や物理は真面目に授業受けているのに、英語なんかは爆睡だもんな。」
悔しいがその通りだから何も言えない。二人で他愛もない会話をしながら緑の多いキャンパス内を歩く。
太陽の光が眩しい。もう六月、梅雨に入ってから初めての晴天。昨日までの雨の湿気と微妙に高い気温で湿度が高い。
「熱いな。」
「太陽もきついしね。」
頭熱いと拓馬がぼやくが、その髪型は熱いに決まっているだろうと思う。
「あっ、里内先輩だ。」
拓馬が不意にそんなことを言った。拓馬が指さしたほうを見ると日陰のベンチで女子が群がっている。
その中にショートカットの黒い髪、長身の女子、里内 菖蒲がいた。
そのクールな女子に、その女子を超える身長の男子が近づいて彼女と親しく話している。
「あの男の人、菊田翔真先輩だっけ。噂だけど里内先輩とできてるらしいよ。」
当分、話した後、菊田先輩は里内先輩を連れて行ってしまう。手を繋いで…。
「おい、紫音。紫音!聞いてる。」
そう言いながら拓馬は僕の肩を揺らした。
「えっ、あー、ごめん。付き合ってるらしいね…さすが拓馬、耳が早い。」
「あれっ、知ってた?」
拓馬の質問に一瞬、なんて答えればいいか迷う。
「いや…知らなかったよ。」
「そう。まー、菊田先輩ほどカッコ良かったら俺も彼女出来るかな。」
「そうだね。僕も菊田先輩みたいになりたかった。」
「えっ?なんだって」
「いや、拓馬は画面の中に恋人たくさんいるじゃん」
「まーね、二次元の女は皆オレの嫁だ」
言い忘れていたが拓馬はいわゆるアニメオタクだ。
「紫音も一緒に見ようぜー。アニメとかギャルゲーとか」
「はいはい」とてきとうにあしらいながら、その場を立ち去ろうとする。ふと見ると、里内先輩も菊田先輩の姿はもう見られなかった。
「紫音はこの後、授業は…」
「ない。」
「マジで!羨ましい。」
「その代わり拓馬は週に二日休みがあるだろ。」
じゃー、帰る。と言って、僕は拓馬とわかれ、帰路に着く。
真昼間の道、一日で一番暑い時間帯だ。体から汗が止まらない。
この暑さは悩ましい。帰り道にある歩道橋の階段は途方もなく長く感じる。上を見上げると太陽が眩しい。
菊田先輩も眩しかったな。
「僕じゃ届かないよな。」
あの二人には…
『寂しい顔。』
突然、女の人の声が聞こえた気がした。
今までいなかったはずなのに目の前に黒いパーカーを来た人が、そして僕の胸を押す。
僕は力を加えられるままに歩道橋から落ちた。
『寂しい顔。』
……………
目が覚めると僕は知らない天井を見上げていた。
えーと、確か僕は化物に襲われて…
「あっ、目が覚めましたか?」
視線を左にずらすと茶色の長髪に赤い帽子をかぶった、可愛らしい女の子がいた。