霊樹の森 2
オォォン…
微かに、遠鳴りのようなものが響いたような。
パチリとそれに呼応するかのように目を開けた少女がいた。艶やかな暗褐色の肌、銀色の髪は月明りと森の燐光を反射している。スラリとした長身のシルエットの中、長く横に伸びた耳の形だけが人のそれとの相違点だった。ダークエルフ、それが彼女の種族だ。
「ん?エレーンさん、どうかした?」
そんな彼女の様子を察したのか、少し離れた場所から声がかけられる。こちらは小柄な少女。栗色の髪と同色の瞳、綺麗というよりは可愛いといった顔立ちの少女は、細枝のような手足に身の幅の3倍はあろうかという巨大な背負い袋を背負っている。文字通り身の丈に合わない荷物にも関わらず、危な気な様子はない。
そんな少女の問いかけを目線だけで制すると、エレーンと呼ばれた少女は周囲を見渡す。何かを探すかのように虚空を見つめるその姿は真剣そのものだ。
やがて、満足がいったのか一つ頷くと張りつめていた空気を霧散させた。
「少し、過敏に反応してしまった様だ。周囲に危険はない。只、少し森が騒めいている。此処からはそれなりに離れているようだが大事をとって今日はもう引き上げた方が良いと進言するよボニーさん」
「わかった、引き際を間違えないのも一流の商人の条件だからね。ヒカゲちゃん!撤収するよ!!」
エレーンの提案を即座に了承するとボニーは少し離れた樹の上方に向かって声を投げかけた。
もぞりと、樹の枝でなにかが蠢いた。
闇夜に溶け込むような黒ローブを羽織ったそれは、ずりずりと枝の上を芋虫のように移動している。髪も黒色なので完全に黒い塊である。闇の中でルビーのような二つの赤い双眸だけが爛々と輝いていた。
「これだけ、あと一本だけだから…や、闇がそう囁くのよ。フ、フフ…」
そう言いながらモゾモゾとローブの袂からなにやら小指ほどの大きさの金槌を取り出す。そのまま取り付いていた枝から伸びる小ぶりな枝へとその金槌を振り下ろした。
リィーン、リィーン…
金槌の打撃音とは思えない澄んだ音があたりに波紋を広げる。5度ほど叩くと、ポロリと剥がれる様に叩かれていた小枝は枝から離れ落下する。すぐさまボニーが駆け寄って背負い袋に収納した。ヒカゲはといえば枝が剥離した断面になにやらドロリとした液体を塗り付けていた。「ク、ククク」などと含み笑いを漏らしているあたり非常に楽し気である。
「いい腕だな、エルフ族でもないのにここまで滑らかに霊樹の剪定を行えるとは。助言が必要かと思っていたが要らぬ世話だったようだ」
ヒカゲが取り付いている樹の下までやってきたエレーンは感心したように言った。長年森に生きてきたエルフ達は、種族特性としても知識としても他の人族とは比べものもならないくらいの差があるのだから彼女としては当然の感慨だった。
「森の知識となればエルフに劣るのは仕方ないけど、霊樹は錬金術師にとっても重要な素材。希代の天才錬金術師であるこの私が扱えないハズがない」
そう言って黒色のローブがのたうつ。胸を張っているようだがサイズの大きいローブを身に着けているのか黒い塊が反ったようにしか見えない。
「希代でも擬態でもなんでもいいよ!エレーンさんが戻った方が良いって言ってるんだからさっさと降りて来て!」
ヒカゲの様子に焦れたのかボニーは樹の幹をペチペチと叩く。霊樹と言われるだけあってその胴回りは大人三人でようやく抱えられるような太さなのでその程度のことでは小揺るぎもしないのだが。
「や、止め。振動が、あうぅ…」
枝の上でヒカゲが狼狽える。
彼女が跨っている枝は地上から5メートル程、人によるではあろうが確かに恐怖を感じる高さと言えなくもない。だが、登ったのもヒカゲ自身の筈なのだが…
「お、降ろして…」
絞り出したように小声でヒカゲは助けを求めた。目の端にはちょっと涙まで浮かんでいる。
「ヒカゲちゃんったら、ホント素材のことになったら周りが見えなくなるんだから…エレーンさん、お願いして良い?」
「承知した」
苦笑の気配をその場に残し、エレーンはスルスルとヒカゲが取り付いている枝まで危なげなく登っていく。プルプルと震えているこれまた小柄なヒカゲを易々と抱え込むとそのまま迷うことなく飛び降りた。
ヒッ
引き攣ったような声が上がったが、エレーンは難なく着地。ふわりとした、鳥の羽根が舞い降りたような柔らかな着地だった。抱えていたヒカゲを下ろしてやる。ヒカゲは、ベルトに手挟んでいた杖に縋りつきながらではあるもののなんとか立った。腰が抜けているということも無さそうだ。
「大地の、息吹を感じる…フフ、私は還ってきた…!」
「馬鹿やってないで帰るよっ。行きと同じく先頭はエレーンさん、次にヒカゲちゃん、殿が私ね」
「委細承知」
三人は手早く荷物を整えるとすぐにダンジョンの入口に向かって歩き始める。未だ月は明るく地上を照らしており、一度通った道を戻る程度のことであれば特別苦労もしない様だった。
「しっかし本当に妙なダンジョンね。話半分に聞いていたのに本当にモンスターが襲ってこないし」
「このダンジョンは宝の、山。月光種がそこかしこに生えてる。木々も質の違いはあるけど、全部霊樹。素晴らしい、此処はきっと約束の地…」
「エルフとしてもこの森は興味深い。可視化されるほどの精霊力、精霊光が漂うほどの森など純血主義のエルフ達の集落にでも行かねばもう残っていないとばかり思っていたよ」
今夜初めてこのダンジョンに挑んだ三人は口々にそうダンジョンを評した。ひと月半ほど前に突如現れたこのダンジョンについてはアウルムの街でも様々な噂が飛び交っていた。
曰く―
ダンジョンマスターと目されるリビングアーマーの呪いによって領主の息子が呪い殺された。いや、ダンジョンマスターは紫色の恐ろしいドラゴンだ。ダンジョン攻略に乗り出した部隊はドラゴンの一息によって全滅させられたらしい。違う、一人の勇敢な冒険者によってドラゴンは食い止められた。いやいや、ダンジョンマスターは類稀なる幻術の使い手で皆煙に巻かれて逃げ帰ったのさ…
アウルムの街に様々に飛び交う噂。
帰還した者も居るのだからそちらから正確な話が聞ければ良かったのだが、その多くが思い出すことを拒否するように証言を避けた。多少なりとも話せる者もその内容はまとまりに欠けた。その結果、噂が噂を呼ぶように実態のない話だけが一人歩きしていた。
そんな自体が収束したのはほんの一週間程前の事。
冒険者ギルドの調査部隊派遣の準備が整いさっそく出発した第一陣から簡単ではあるものの情報がもたらされたこと、そしてなにより当初ダンジョンの帰還者に居らず生存が絶望視されていたC級冒険者『赤毛熊』が帰還したことが大きかった。
『赤毛熊』の証言によりダンジョンの名称が『光の試練』に変化していること、名称に『竜』は入っていないものの紫のドラゴンは実際に存在していることが判明した。
またこの時、ダンジョン攻略戦においてドラゴンの出現によって恐慌状態に陥ったものの辛うじて意識を保っていた幾人かの証言によって『赤毛熊』がドラゴンによる追い打ちを食い止めたことが認められる。
この功績によって元々時間の問題だとされていたBランク昇格を『赤毛熊』は果たす。
街はその英雄譚に大いに沸き、人々は敬意と期待から『偉大なる赤』や『紅の後継』といった新しい二つ名を英雄に贈った。
その空気は消沈していた街に、冒険者達に活気を取り戻させ新たにできたダンジョンへ挑む原動力となっていった。領主の私兵である領兵の損害は大きかったものの、冒険者側の被害は元々食い詰め物や曰くつきのものの参加が多かったためにさほど痛手を被っていなかったという事情もあった。
そんなこんなで、あらたなダンジョン『光の試練』の近場には臨時の冒険者ギルド出張所が開設された。そしてその周囲を冒険者たちが寝泊まりのために切り拓いてある種のキャンプ村のようなものが出来上がっていた。冒険者達は互いに情報交換をしながら、そして同時に互いに出し抜く機会を伺いながら日々を過ごしているのだった。
ボニーとヒカゲも噂を聞いてダンジョンに来た口で、そこで出会ったエレーンを森での活動ならエルフだと口説き落としこうしてダンジョンに潜っているわけである。
「冒険者間の単なる口伝えではなく、冒険者ギルドが有用とみて開示されていた情報だからある程度は信を置いてはいたがそれでもこうやって一度もモンスターに襲われないとなると妙な気分ではありますな」
先ほどのボニーの言葉に返すようにエレーンが言う。
現時点で冒険者ギルドがすべての冒険者に有用だとして公開している情報は3つ。
1つ、『光の試練』ダンジョンの第一階層はおそらくほぼすべてが霊樹フロアと呼ばれる特殊な森林系フィールドだということ。
これはギルドが派遣した少数精鋭の斥候部隊によってもたらされた情報と、ギルドが握るダンジョンの傾向といった情報を合わせた結果出された結論だった。
2つ、フロアのメインとなっている霊樹を筆頭に希少な植物が多く生息していること。
特に『月光種』と呼ばれる夜間にしか採集できず、また月齢によって性質をかえる希少植物の群生地があちこちに見つかったことは冒険者たちを狂喜させた。
3つ、第一階層の攻略には定められたルールが存在する。
これは、ダンジョンへ入ってすぐのところに立てられていた看板に端を発している。それにはこう書かれていた。
―これより試されるは勇気、そして人の器たる徳。正しき者に扉は開かれん―
ダンジョンによって様々な制限がかけられることはそれなりに一般的ではあったので言葉の内容を吟味しながら冒険者達は探索を始めた。そして、手探りながらもいくつかの法則を見出すことに成功した。
あまり大勢で行軍してはならない、パーティは3人程度が望ましい。森の和を乱してはならない。こちらからモンスターに手を出してはならない。
ダンジョン攻略としてはあまりにあまりな制約だったが、驚いたことにその制約を守っている間はダンジョンのモンスターは冒険者達の存在を捕らえても襲ってくることが無いのだった。
血の気の多い者達が制約など知ったことかとばかりに強引に突破を仕掛けもしたがそいうった者達は悉くダンジョンから戻ってくることは無かった。今ではモンスターへの警戒はきちんと行いつつも判明している法則の通りに探索していくのが冒険者達の間で主流になりつつある。やりすぎなければ植物系の希少な素材が取れるのだから腰を据えてじっくり攻略しても問題はないのだ。
「モンスターに襲われないといってもトラップはあるし、なにより噂を聞きつけて同業者はどんどん増えてるからね。豊富な森の知識をもってるエレーンさんの協力が得られて良かったよ。今日も月光種の群生地をパパッと見つけて貰えたし」
「今宵は十六夜だから今日獲れたのは『十六夜草』、明日も来れば明日は『立待月草』、明後日は『寝待月草』…フ、フフフ」
背負った荷物の重さが金の重さとばかりに満足げに笑うボニーと、希少な月光種を毎日摘みに行ける喜びに打ち震えているヒカゲ。コンビを組んでいただけあって似た者同士のようだ。
「ヒカゲ殿、流石に毎日は勘弁して欲しいのだが…ずっと昼夜逆転の生活をするわけにもいかぬだろう?」
「大丈夫、月齢とともに月の出入りの時間もずれるから。それにちゃんと起きて居られるように特性の魔力栄養剤も処方してアゲルッ。フ、フフ、魔力のね、魔力まりょ…く?」
不気味に震えていたヒカゲがカクンと、左肩の方へ頭を傾げたまま固まった。右目を顰め、左目を目一杯見開いてあらぬ方向を凝視している。
「ど、どうしたのだヒカゲ殿?」
ただならぬ様子についエレーンが振り返る。エルフの特性として森の中のことは手に取るようにわかる。例え背を向けていたとしても不覚を取ることもあり得ないが故だったが…
「あそこ、何かあるわ」
スッと左腕を上げると、前方の繁みの一角をヒカゲは指し示す。戸惑っているエレーンを尻目に、こういったことには慣れているのかボニーがスタスタと繁みの方へ分け入っていく。慌てて追いかける二人。片方はカクカクと妙な動きを繰り返していたが。
「これは、一体…」
繁みの奥に合ったのは人間の子供ほどの大きさもある繭。ダークエルフのエレーンも見たことのない代物だった。
パラパラと音がしたと思えば、隣で鬼気迫ったような表情でヒカゲが特殊素材図鑑と書かれた本を取り出し物凄い速さでページを捲っていた。
「あった!これは、『クロウラーの霊糸繭』ッ」
「ヒカゲちゃんそれ本当っ!?」
ボニーは横合いからヒカゲの本を覗き込み目の前の繭と視線を行ったり来たりさせている。
「間違いない。クロウラー種は環境によって性質が変わるモンスターだけどどれもあまり強くはならないから繭を作れるほど成長するのは稀。繭自体も自営能力がないから繭になっても羽化までたどり着けない個体ばかり。その中でも霊糸と呼ばれる種類の繭を作るのはさらに少ない。危険度の高くない魔物だから過去に養殖も試みられたが全て失敗した」
「霊糸から紡がれた布は貴族でも競って買う品。お宝だわ!!これ一つでいくらになるかしら…」
「二人とも落ち着かないか!!」
熱に浮かされたようにフラフラと繭へ歩み寄る二人。その様子に慌てたエレーンが強引に引き戻した。
「貴重な品だということはお二人の様子で解りましたがその繭が『クロウラー』のものなら手を付けるのは危険ではないですか?」
エレーンは第一階層の攻略としてタブーとされているモンスターへの手出しに入るのではないかとの疑問を提示する。ボニーは答えを求める様に図鑑を所持しているヒカゲへと目線を移す。
「繭の内側に魔力の胎動を感じる。この繭はまだ羽化前。となるとモンスターに手を出したと見なされるかもしれない。でも、羽化前の中身は体を作り替えるために魔力を多く含んだ特殊な液体になってて極上の錬金素材なんだけど…すごく、欲しい」
「霊糸で紡がれた礼服は物凄い値段が付くのよ、あれ一つで金貨500枚は下らないわ」
食い入るように繭を見つめる二人。エレーンが捕まえていなければまたフラフラと繭へ向かって行ってしまうだろう。
「森の案内役としてパーティに加わった者としてはアレを持っていくことに賛成は出来ない。ダンジョンの入口まではまだしばらくある。タブーを犯してなお逃げ帰れるとは思えない」
「それは、でも…」
パーティの安全が優先だと主張するエレーンに、ボニーが反論しようとするが上手く後が続かない。
「二人とも、ダンジョン入り口の文言を思い出して下さい。『これより試されるは勇気、そして人の器たる徳。正しき者に扉は開かれん』目先の利益に捕らわれるような事は徳とは言えないのでは?危険を冒さず戻ることも勇気ではないでしょうか。冒険者が冒険する時はそれに見合った理由があるべきです」
二人に、そして自分自身にも言い聞かせるようにエレーンは語りかける。その言葉には、エレーンのこれまでの歩みが見える様な確かな重みがあった。
「確かに、欲に目が眩んだ商人など醜いだけでした…私もまだまだ未熟です」
「し、死んだら実験が出来ない。どれだけいい素材を手に入れても、無駄」
ボニーは恥ずかしそうにしながら、ヒカゲは先ほどの興奮の反動か妙に平坦に、エレーンの意見を受け入れた。それを見て案内役としての意見がきちんと理解されたからかエレーンも笑顔で頷いた。
『それは重畳、此方も嬉しいぞ。無益な殺生は好まぬ故―』
「「「えっ?」」」
突如響いた声に弾かれるように背後を振り向く三人。
そこには、いつの間にか美しく巨大な牝鹿が立っていた。神々しささえ感じさせるその鹿は透徹した眼差しで値踏みするかのように三人を見つめている。
「げ、幻獣様!?」
裏返った声を出しながらエレーンが大地へと身を投げ出す。その背は瘧のようにブルブルと震え、とても普通の状態ではない。突然のことに残された二人もまた、突如現れた牝鹿のただならぬ雰囲気に呑まれて立ち尽くす。
『おや、其処に居るのは森の娘かえ。其方らに祭られることも久しく無くなっておったが…息災なようでなによりじゃ。先ほどの言も心地よいものであった、嬉しく思うぞえ』
「きょ、恐悦至極!」
地面にめり込んでしまうのではないかと心配するくらいさらにエレーナは地面へ深く、深く頭を下げる。
『では、あの仔は引き取らせてもらうでの』
そう、牝鹿が告げると急に辺りに霧がたちこめ始めた。たちまち互いすら視認できないような濃い乳白色の霧に包まれ今まで以上に身動きが取れなくなる。
トン、トン、トン。と
軽やかな足音が近づいては、すぐ傍を通り過ぎていくのを三人は肌で感じた。段々と遠ざかっていく気配。動けないまま固まる三人が我に返った頃にはすっかり霧は晴れ、月はもう少し傾いていた。
「い、今のは一体…」
いち早く立ち直ったボニーが辺りを見回す。エレーンは地面に突っ伏したまま動かないし、ヒカゲは立ったまま気絶している様だ。他にはなにも変わりなく、幻だったと思ったほうが頷けそうなくらいだ。
「あれ、繭が残ってる?」
回収されたはずの繭が残っているのが見え、ボニーはそちらへと足を向ける。近づいてみれば似て非なるものだということが良くわかった。繭には一筋の、大きな割れ目が出来ていたのだ。
「抜け殻、ってことかな…」
覗き込んでみればわずかにではあるものの繭の内側には極彩色の液体が残ってるのが確認できた。これが、ヒカゲが言っていた錬金素材だろうかと首を傾げていると、もっと奇妙なものがボニーの視界に飛び込んで来る。
繭が寄りかかっている樹の幹が不自然に発光しておりそこに文字が浮かんでいるのだ。そしてその文言は、ボニー達に宛てたものだった。
―正しき道を示した者に賞賛と報奨を―
どうやら、この繭はあの牝鹿が置いて行ってくれたものらしい。己の内から妙な笑いが込み上げてくるのを感じながら、ボニーはそれだけは理解した。
ぼちぼちと読んで下さる人が増えてきて嬉しく思っております。いつもありがとうございます。