霊樹の森1
夜。
ダンジョン内に浮かぶ月は十六夜。中天を少し過ごした辺りに浮かぶそれは地上のものと寸分違いなく柔らかな光を森へと投げかけている。草木も眠るという言葉の通りに、辺りは静寂に満たされている。時折、仄かな燐光が木々の周りを揺らめいては消える。どこか幻想的な光景は森への敬意と畏怖を喚起させ、より一層の静粛を求めているかの様にも思える。森々と、時だけが緩やかに流れていく。
「あ、兄ぃ。引き返しやしょう?こんなデケエ部屋の情報は上での情報に無かったですぜ」
「そうですよ、ダンジョンは安全第一です。戻りましょうよデカントさん」
森に浮かび上がる人影がみっつ。森で活動しやすくするためだろうか、軽装の皮鎧を身に着け、足取りも確かだ。短剣をもった小柄な男を先頭に、中央が長剣を持った大男、最後尾に弓を背負った者が続いている。先ほどの声は短剣と弓の者が上げたようだ。ダンジョン内で不必要に大きな物音を立てることは危険に繋がるため忌避されているが、普通に話すくらいは問題ない。しかし、二人は辺りの雰囲気に呑まれてか、小声になっていた。
「あぁ?ったくこれだからお前達は小物のままなんだよ。情報に無ぇってことは俺達が一番乗りってことだろうが。お宝取り放題のチャンスだろうに。ほらっさっさと進めっ」
長剣を持った大男が行軍を促す。デカントと呼ばれた彼だけは声のトーンを落としておらず、夜の森に臆した様子もない。
「で、でも兄ぃ。情報じゃ此処の奥には恐ろしいドラゴンが出るって話だよぉ…お宝より命のほうが大事じゃねぇかなぁ…」
歩みは再開したものの先頭の小男はなおも言い募る。斥候役としての必要以上にあたりをキョロキョロと見回す姿は夜の森の雰囲気に流されているというだけでなく事前に仕入れた情報も理由だったようだ。
「ジョン、だからお前はいつまでたっても半人前なんだ。このダンジョンにドラゴンなんて居やしねぇよ」
「デカントさん、それは一体どういうことです?この『光の洞窟』、改め『光の試練』のダンジョンには紫の恐ろしいドラゴンが出るというのはアウルムの街で人の口に上らない日がないくらい有名な話ですが」
弓を背負った青年が二人の会話に割り込む。デカントが気にしていないので声を潜めるのは無駄だと判断して止めたようだ。
「ふん、噂に流されるだけのぼんくら共ならともかくこのデカント様は騙せねえ。コーディ、ドラゴンなんて領主の一家がでっちあげただけの嘘っぱちだ」
「と、いうと?」
「理由はいくつかあるが、まず第一にドラゴンが治めるダンジョンってのは必ずダンジョン名に『竜』が付く、種類によっては『龍』の時もあるみたいだがどちらにしても意味は一緒だ。それがこのダンジョンにはない」
「そうはいっても兄ぃ、ダンジョンでの例外ってのもあるじゃないですか。オイラ、ダンジョン講習でダンジョンに絶対は無いって教わりやしたぜ」
斥候の小男、ジョンが言い返す。基本に忠実にと言うべきか、彼は冒険者の互助組織である冒険者ギルドが定期的に主催しているダンジョン講習にきちんと通っていたようだ。
「もちろんダンジョンに絶対はねぇ。もしかしたらダンジョン名に『竜』が付いていなくてもドラゴンが出てくることだってあるかもしれんさ。だが、他にもおかしなことがあるんだよ」
「是非、聞きたいですね。デカントさんのいう根拠というやつを」
弓の男、コーディが興味深そうに先を促す。この場には似つかわしくない好奇の色が瞳に浮かんでいる。
「ドラゴンと戦ったわりには被害が少ねぇ。先月末の討伐隊は千名を超える規模だったらしいがその半分以上が帰って来てる。そしてなにより、最近アウルムで話題の『赤毛熊』ヤツがドラゴンを止めるだなんてこと出来るはずがねぇ」
「そいつは最近話題の英雄っすよね?巷じゃ『偉大なる赤』とか『紅の後継』とか言われてる…」
「あぁ、随分御大層な二つ名が付き始めてるって話だ。今回の件でBランク昇格も果たしたらしいな。その『赤毛熊』とだがな、俺ぁ一度闘りあったことがある」
その時のことを思い出したのかデカントは苦々しげな表情になりながら続ける。
「結果は俺の惨敗だった。確かにヤツはBランクになるだけの力はあるだろう。だがよ、Bランクなんてのはちょっと大きな街に行きゃ1、2組はいる程度なんだ。Bランク一人でドラゴンの足止めだって?馬鹿いっちゃいけねぇ、そこまでいっちまったらA、いやAAクラスの力量がいるだろうよ」
「デカントさんから見て『偉大なる赤』にはそこまでの力量はないと?」
「ランク一つ、二つ上がるだけだがよ。AやAAなんてのは人間を逸脱したような奴らばかりだ。そこまで隔絶した強さを『赤毛熊』が持っているとは思えん。だからよ、ドラゴンが出ただのそれを一人で止めただのってのは嘘っぱちなんだ」
「ある程度筋は通っているようですが、しかしだとすれば何故そんな嘘を…?いえ、待ってください。確かこの間の討伐では領主の長子が亡くなっていましたね?つまり…」
コーディは何かに気付いたのか顎に手を当てて考え込み始める。もちろん最低限度の警戒は怠ってはいない。
「兄ぃ達だけで納得してないでオイラにも教えてくだせえよぉ!」
「ジョン、貴方はこのパーティの斥候役なのですから情報の整理などもそろそろ出来た方がいいのでは?ブレインたる私がこの可能性に気付かなかったのも忸怩たる思いはありますが…」
「向き不向きがあるからな、今の話だって昔俺が『赤毛熊』と闘り合ったことがなければ噂のほうを信じていただろうさ。ジョン、今回の噂はな、意気揚々とダンジョン攻略に向かった領主のドラ息子がポックリ死にやがったから話を盛ってるんだよ」
「アウルムの街では長子のランディ殿は勇敢にドラゴンに立ち向かい奮戦空しく…という話になっていますからね。無論、それを信じるものなど気の良い善人か余程の阿呆だけでしょうけど」
コーディがデカントの話を補足する。領主の長子であるランディの普段の行状はアウルムの街に知れ渡っていたので華々しい散り様なんていう話は誰もが眉に唾をつけたといったところだろうか。
「なるほどなぁ!兄ぃ達は相変わらず頭が良いや。てことはドラゴンの巣だって噂でビビってる奴らの鼻を明かしてオイラ達でお宝を頂いちまおうってことですね?」
不安が払拭されたのか先ほどまでの恐怖からジョンは逃れられたようだ。まだ見ぬお宝に対しする期待だろうかウキウキとした気配すら出始めている。
「そういうこった、わかったら斥候に集中しやがれ。ここまで来てつまらねえトラップに引っかかるとか嫌だぜ俺ぁ」
先ほどまでとはうってかわって軽い足取りとなった3人組は夜の森を進んでいく。全くの無音という訳にはいかないが、足場の悪い森の中をスルスルと進んでいく様は並みの冒険者とは一線を画している。自信を持って未踏破域を進むだけの経験は積んでいるのだろう。
しばらくして、一行の前に大きな泉が現れた。
森の中にできたそれは宙を舞う燐光と、天から降り注ぐ柔らかな月光を反射している。森の中でも屈指といっても良い幻想的な風景が広がっていた。
「兄ぃ、ちょっとあそこを見てみてくだせぇ」
再び小声になりながらジョンが左手で泉の一点を指さす。同時に繁みに身を隠すよう右手で指示も出しているあたり、斥候としてきちんとした仕事が出来ているようだ。
「ありゃ…鹿か…?」
指示通りに繁みに屈み、そっと指し示された方角を見たデカントは呟いた。追いついてきたコーディも同じように屈むと泉の一点を凝視する。
「角は有りますが魔力の質からして牝鹿ですね。それもかなり大きい。魔力持ちであること、ダンジョンにいるということからしてモンスターなのでしょうが、ちょっと私の知識には無いです。しかし、大きさもですが随分と美しい…」
弓兵らしく三人の中では一番目が良く、そして魔法にも長けたコーディが断言する。
「レア物か…ジョン、辺りの様子はどうだ?」
「泉の周りに他のモンスターは居ないでさ。『探知』にも『鷹の目』にも引っかかりません」
「よし、好都合だ。コーディ、この距離ならいけるな?」
「ギリギリですがなんとかしましょう。まずは足止めでいいですね?」
背負った弓を外し、立膝のまま射撃の姿勢を取る。瞳に、青白い光が灯った。
「あぁ、いつも通りだ。相手はレア物だ、どんなスキルをもってるかわからねぇ。油断するんじゃねぇぞ」
デカントが長剣を、ジョンが短剣を抜き、すぐに飛び出せるように体を撓める。コーディはそれを確認した後、弓に矢をつがえ引き絞る。
キリキリ、キリキリと。微かに弓が鳴る。
身体強化系スキル『遠視』によって強化されたコーディの目には美しくも巨大な牝鹿がはっきりと映っている。居心地の良い水辺でリラックスしているのか瞳は閉じられている。森の景色と相まって一枚の絵画のようなその様子でただ一つ、僅かに上下する体がその光景が現実だと知らしめてくれる。
(今だっ!)
限界まで引き絞られた弓を放つその瞬間―
不意に、牝鹿と目が合った。
びょおぅ!と、
放たれた矢は一直線に牝鹿へと向かう。直前に気付いた様だが、避けられるタイミングはすでに逸している。一拍遅れてジョン、デカントが飛び出す。斥候だけあって最初からトップスピードだ。矢に追いつかんばかりの勢いで牝鹿までの距離を半分程詰めている。
この間、時にして半瞬。
ストンと、矢が突き刺さった。
「き、消えた…?」
デカントが思わず呟いた。
矢が刺さっているのは先ほどまで牝鹿がいたあたりの地面。直撃するかに見えた瞬間、幻か何かだったようにふわりと牝鹿は掻き消えてしまっていた。
アオォーーン……
遠くで、獣の遠吠えが聞こえる。
無音だった世界に初めて、三人以外が発する音が鳴る。それは、夜このダンジョンに挑むもの達が最も気を付けるべきと言われている音。
「兄ぃ…やべぇよ。遠吠えが…!」
ジョンが縋る様な目をデカントに向ける。カチカチと、すでに歯の根が合わないのか全身を震わせている。
「チッ、撤退だ。形振り構わず逃げるぞ!アレを聞いても生き残った奴らもいるんだ、怯むな!!」
号令と共に一斉にやってきた道を物凄い速さで戻っていく三人。行きの段階で罠の位置などは把握してきているのでその足取りに迷いは無い。
「クソ、無駄に堅ぇ木だな!」
進行に邪魔な枝を手に持った長剣で払っているデカントが悪態をつく。実際、この霊樹の森の木々はそこらの鉄製の剣などでは太刀打ち出来ないほど堅い。デカントの得物は鋼で出来た物だがそれでも『剛力』のスキルを使わないと厳しい。正直、切り払うというより無理矢理折り払っていると言ったほうが正確だ。
アオォーーン…アオォーーン……
「近づいてる!近づいて来てますよ兄ぃ!!」
「うるせえ!喋ってる暇があったら足を動かせ!!」
段々と近づいてくる遠吠えに怯えるジョンを叱咤しながら走る。立ち止まれば待っているのは身の破滅だけだということをこの場の誰もが解っていた。
「もうすぐ、もうすぐフロアを隔てる扉に着くはずです。潜り抜けたらすぐに転移石を使って脱出しましょう!!」
後方を警戒しながら走るコーディがそう提案する。ダンジョン内から一気にダンジョン外へと転移できる転移石はダンジョン攻略をする冒険者にとって必須といっていいアイテムだがその使用にはいくつかの制限がある。その内の一つが使用者が他者と交戦状態だった場合は使えないという制限だった。ダンジョン内はフロアごとにそれを仕切る扉が必ずあり、その扉をモンスターが自主的に開けて出てくることはあまり無いのでフロアを越えてしまえば一区切りつけることになる。無論、扉を開け放したままにしていればその限りではないのだが。
「わかってる、もうすぐだ!!二人とも今の内に転移石を取り出して置けよ。扉を抜けたらすぐに使用する!!転移しくじりやがったら後がねぇぞ!!」
三人共、走りながらそれぞれ転移石を取り出して握りしめる。遠吠えはさらに迫ってきているが、目的ははもう目の前だ。森が途切れ、視界が開ける。
そして目の前にはフロアを分ける簡素な扉が――――無かった。
「なん…だよ、コレ…」
三人の目の前に広がるのは泉。
先ほどと全く変わらず、神秘的なまでの美しさと静謐を湛えた光景がそこにはあった。
「馬鹿な、確かに私たちは往路と同じ道を辿っていたはず。なぜまた此処へ…」
コーディが呆然としながら呟く。完成された美の中で、三人の冒険者だけが酷く浮いていた。
「あ、兄ぃ…アイツ!」
ジョンが指さす先には消えたはずの牝鹿。何事も無かったかのように水辺に横たわっている。そのすぐ傍には、一本の矢が突き刺さったままになっていた。
アオォーーン
遠吠えがすぐそこまで迫ってくる。猶予は無い。
しかし、だがしかしどこに逃げれば良いというのか。一体自分達の身には何が起こっているのか。
ふと、三人と牝鹿の目が合った。
動けない。すべてを見透かすような、深い知性を湛えた瞳が三人を見つめていた。
『森を、荒らしましたなぁ。お客人方』
頭に響いてくる声。直観的にそれが牝鹿のものだと、三人共理解する。
「い、いや。荒らしてなんかいない!本当だ!!」
反射的にデカントが言い返す。顔にはびっしりと、脂汗が浮かんでいる。
『ウソは、あきまへんなぁ?』
ぞふりと。
音が鳴った気がした。腹部に灼熱感。足に力が入らない、思わず倒れ伏すデカント。いつの間に現れたのか、夜闇の中でもなお暗い毛並みの、一際大きな狼が現れていた。闇を具現化したようなソレは、べちゃりと、咥えていたナニカをその場に吐き捨てる。
「あ、あぁ…」
デカントの口からうめき声が上がる。鉄錆くさい血臭が、あたりを瞬く間に包んだ。
「ま、待ってください!森を荒らしたことも、虚偽を申し上げたことも謝ります!!可能な限りの償いも致しますっ!!ですから何卒、何卒、怒りを鎮めて下さいっ!!」
余りのことに硬直していたコーディは我に返ると地に己が身を投げうつように伏して願う。一瞬遅れてジョンもそれに続いた。デカントのことは心配だが今この場を逃れえないことには、自分達も同じ運命を辿る。それを、はっきりと理解してしまった。
『ふぅむ。荒らしたといっても木々が少々傷ついただけ、此方に射かけたのは少々腹立たしくもあるが…』
「な、何でも致します!どうかお許しを!!」
「許してくだせぇ!!」
コーディが大地が抉れんばかりに頭を打ち付け、ジョンが涙声ながらに訴える。
雌鹿は答えない。
遠吠えも止み、再びの静寂が泉に訪れる。すすり泣く、ジョンの声だけが悲し気に響いた。
そっと、コーディが顔を上げると牝鹿はまだこちらを見つめていた。ふと、牝鹿の口の端が持ち上がる。これは笑みだろうか、獣故に判断は難しいものの優し気な雰囲気は伝わってくる。それを感じたか、ジョンもまた顔を上げ呆けたように牝鹿を見ている。
『やっぱり、駄ぁ目。許してはやれん』
キュッっと。今度こそはっきりと牝鹿の口が笑みの形を取る。それは、あまりにも無慈悲な宣告。用は済んだとばかりに、牝鹿は立ち上がる。
「待ってください!どうかお許しを!!」
起き上がろうとしたコーディの背に何者かが飛びかかり押さえつけた。首筋に獣臭い息がかかる。手足の自由は効かない。ジョンもまた、同様だろう。
アオォーーン
闇色の狼が一吠えする。
森全体が伸し掛かってくるような重圧。背に食い込む爪の感覚。首元を犯す熱い吐息は、残り少ない生と確実にやってくる死を想起させる。
『それでは、御機嫌よう―』
そう告げて、牝鹿は踵を返すと森の中へと消えていった。辺りにはむせかえるほどの血臭と、獣の臭い。いつの間にか、辺りは夥しいほどの狼に囲まれていた。
「た、頼む。助けてく」
ぐしゃり、ぐしゃりと。水っぽい音が二つ、響いた。
アオォーーン……アオォーーン…
獣たちの声が木霊する。
しばらくして、泉には静寂が戻った。何事も無かったかのように、森の夜は更けていく。
改築後のダンジョンお披露目回でした。もうちょっとだけ続きます。
表現方法としてあった方が良いかなとおもってルビ振りにチャレンジしてみました。厨二ネームはやっぱり定番ですよね。キャラクターに関してですが、方言っぽい口調はあくまでキャラ付けの一環のつもりなのであまり正確性に重きを置いてません。最も、あまり奇抜すぎる口調にはしないようにとは思っています。