episode_01_04
お久しぶりです(土下座
午後六時。
雨が降り始めてから二時間が経過している。
礼儀は、部下の太田が運転する車内にて事件の資料を眺めていた。
通常なら資料の内容などすぐに頭に入ってくるのだが、今日に限ってどうにも集中力が切れているようだった。そのせいか、先ほどから何度も同じ場所を読み返している。
(今日はどうしたことだ。こんなことを考えている場合ではないというのに、どうしても忘れられん)
反省しながらも思考はどうしても事件とは別のことへ向けられてしまう。それもこれも、昨晩悪夢を見たせいだった。
内容はいたって簡単。ここ二年ほどまともに言葉を交わしていない娘と、再び大喧嘩するというものだった。
息子が行方不明になって一週間、精神的に弱っていたこともあるだろう。だから思い出してしまったのだ。娘と大喧嘩してしまった、あの日のことを。
自分の子どもには強くたくましく育ってほしかった。だからこそ礼儀は、拓馬には自由に冒険をさせ、優羽には剣道を習わせていた。もちろん勉学も怠けることは許さず、二人とも同年代の子どもと比べると優秀な部類に入るだろう。
その時まで文句もほとんど言わず育ってくれた二人のことは、礼儀にとって誇りといっても過言ではない。
教育方針としては決して間違っていなかった。──ずっと、そう思っていたのである。
間違いだったと気付いたのは、優羽に頬を殴られた時だった。
優羽はずっとため込んでいたのだ。親の言いなりになって育つ人生は、いったい誰の人生なのか、と。
それまで一度も不平不満を言われず、気づくことはおろか逆に正しいのだと思い込んでいた礼儀にとって、この時は頬よりも胸が痛かったことを記憶している。
それでも礼儀は、優羽に拓馬のような生活を送らせることはできなかった。拓馬のような自由を容認するということは、一人で遠出や外泊など、それこそ冒険するということだ。
昨今の頻発する事件、特に女性が被害者になる事件を見ていれば、許可することなどできるわけがない。
まして、礼儀は警察官という立場だ。身内から問題を起こすことも、起こさせることもできはしないのだ。
心の痛みを感じてなお、それを押し込めたのは決して間違いではないだろう。そう思ったからこそ、礼儀は優羽を許さなかったのだ。
間違っていたとすれば、妻から聞く話を、娘との会話を、妄信的に信じ過ぎていたこと。
爆発するほどのストレスを感じていたのなら、その前兆は必ずあったはずだ。それに気付けなかったのは礼儀の至らない部分だったと反省している。
(過ぎてしまったことは仕方ない。許すつもりもない。だが、あいつが抱えていた物に気付けなかったのは私に責任がある。それは解っているんだが……)
気付いてすらやれなかったことに対して頭を下げることもまた、できないことだった。
父親として、大人として、警察官として築き上げてきたプライドがそれを許してくれないのである。
(これ以上は堂々巡りだな)
今日何度目になるか解らない静止の言葉を心の中で呟き、礼儀は頭を横に振った。
「どうかされました?」
悩んでいるように見えたのだろう、ハンドルを握る太田が訪ねてきた。
「なに、考えることが多くてな。だが、心配はいらん。お前は安全運転に気を付けていれば良い」
「でも、八代さん」
と、礼儀の携帯電話が鳴ったのは、太田の言葉の途中だった。
礼儀は懐から携帯電話を取り出し、画面に表示された名前を確認する。見知ったその名を見て、そのまま通話ボタンを押した。
「永井か。何か解ったか?」
電話の相手は、先に現場に向かっていた同僚からだった。
『八代、月並みの台詞で悪いが、良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?』
開口一番、重苦しい声の永井が問いかけてきた。
その声を聞き、ようやくといったところだろうか、頭からプライベートな悩みが消えていくのを感じた。礼儀はそのまま仕事へ集中するべく、永井の言葉を反芻する。
(良いニュースと悪いニュースだと?)
永井の口調を考えるに、悪いニュースの方にウェイトを置いているらしい。仕事柄、悪いニュースと言えば本当に悪いに決まっている。おそらく、聞いてしまえば熟考しなければならないだろう。ならば、考える必要のない良いニュースから聞くべきだった。
礼儀はその旨を伝える。
『娘さんのことだ』
間髪入れず帰って来た言葉に、礼儀は一瞬息を飲む。忘れかけた思考が戻ってきそうだったが、それを抑え込むように沈黙を守った。
『場所が場所だからな、調べておいた』
県立宝成高等学校付近の国道沿い。その事件発生の場所を聞いた時から礼儀も気になっていたのは間違いではない。
何故もないだろう。そこは娘が普段通学路に使っているのだ。
特に、事件発生時間は部活動を行っていない生徒の下校時間と一致している。優羽は毎日まっすぐ帰ってくると妻から聞いていた礼儀は、口には出さないものの気が気ではないと言ってよかった。
『安心しろ。娘さんも現場に居合わせたらしいが、怪我はないそうだ。血まみれだったようだが、それはおそらく一緒に歩いていた誰かが、目の前で食い殺されてしまった際に付着したものだと予想している。今、鑑識で血液を調べてもらってる所だ』
永井はそこでいったん呼吸を置く。
『気を失っていたのは、そのせいだろう。目の前で人が死んだとしたら無理もないが……。念のために赤十字に運ばれたが、医者の話によるとしばらくすれば目を覚ますらしい。今は俺の部下が詳しい話を聞くために目を覚ますのを待っている』
「……そうか」
ため息が零れ出た。良いニュースだと聞いていた手前、安心感は大きい。
娘が無事だと聞いて、礼儀は気持ちを切り替える。
「悪いニュースというのはなんだ」
『おいおい、もっと喜んだらどうだ。お前の娘だぞ?』
この永井とは長い付き合いのせいで、色々と事情を知っている。心配してくれるのは嬉しいが、余計なお世話だった。
「時間が惜しい。早く言え」
『相変わらずだな……。まぁいい、俺もどうしようか悩んでいたところだ。聞いてくれ』
いつもはもう少し粘られる所だが、今日に限っては永井も長話をしている場合ではなかったようである。
息を吐く音が聞こえ、
『ついさっき、犠牲者の数が十人を超えた。しかも、犠牲者が増えているにもかかわらず化け物の行方は今もって解らん』
化け物、その単語が嫌に耳に残る。
手元にある資料には、一般人が携帯電話のカメラで撮影したという写真が添付されていた。手振れの影響もあるのだろうが、走る速度が速すぎるためか、被写体は霞んでいた。
そんな霞んだ写真であっても、異常さは充分に伝わってくる。
トラックほどもある巨大な狼に署内は一時騒然となり、すぐに捜査本部が立ち上げられた。
口元だけでなく頭部全体が赤く写っており、また踏み砕いたアスファルトに点々と血痕が残っていた。警察ではその化け物が深手を追っていると予想しているが、現在も追跡から逃れているところをみると、致命傷ではないのだろう。
「約二時間半で十人か。まだ増えるかもしれんな」
礼儀は重々しく呟く。
「どこから現れたのかも解らんのか?」
『今それを調査してるんだが……』
「どうした?」
歯切れの悪い永井に、礼儀は言葉を促すべく問いかける。
『いや、どう調べても解らないんだ』
「解らん? 何故だ。現に巨大狼はアスファルトを踏み砕いて逃走しているんだろう? ならば──」
その足取りを逆に追って行けば出現地点が解るはずだ。
礼儀はそう言おうとしたのだが、永井の言葉に遮られた。
『ないんだよ。お前の娘が居合わせ、最初の犠牲者が出た場所より前には、化け物が通った痕跡も目撃者もないんだ』
「馬鹿な!」
礼儀は声を荒げた。
「あれほどの巨体だぞ? どこから現れたのかも解らんなどありえん! ひとりでに現れたにせよ、何者かがトラックなどで搬送したにせよ、仮に足跡がなかったとしても必ず目撃者がいるはずだ!」
『俺もそう思ったさ。だがな、現場付近の目撃者は口を揃えて「突然現れた」としか言わないんだ。正直、お手上げだぜ』
「むぅ……」
永井は信用に足る警察官だ。永井がそう言ったからには現状で可能な限りの調査、聞き込みを行った上での回答だろう。理解は出来ないが、納得するしかない。疑問は自分の目と耳で払拭するしかなかった。
『なぁ八代、あとどれくらいで着く』
「少し待て。太田、あとどのくらいだ?」
礼儀は自分の感覚で答えることはせず、実際にハンドルを握っている太田に時間をたずねた。
「えっと、混雑具合からすると六時半頃になりそうですね」
太田はカーステレオのモニターに用事されている時計を確認し、そう返答する。
「あと三十分はかかる」
『三十分か……、了解。こっちもお前が来るまでにもう少し調べを付けておく』
「ああ、頼んだぞ」
通話を終え、礼儀は携帯電話を懐にしまった。自然とため息が零れ出る。
(一体なにがどうなっている)
事件発生から同じような疑問が礼儀の脳裏を巡っていた。事件の犯人は巨大な狼などという突拍子もない存在だが、実際に十人もの犠牲者が出ている上に写真まで存在している以上、信じないわけにはいかない。
(目撃情報が少なすぎることを踏まえると、人為的なものも絡んでいるか……? だが、狼の巨大さは説明がつかん。どう解釈すれば良い)
礼儀は腕を組み、フロントガラスの向こうを見据える。
(拓馬のこともあるというのに、まったく休まる暇がないな……)
仕事とプライベート、礼儀の抱える問題は増える一方だった。
女の子出てきませんですみません(土下座Ⅱ