1
澄村明輝は教壇で数学の問題の説明をしている教師の声を聴きながら、窓の外を見ていた。今日は快晴なので一番窓際の席は日差しがよく入ってくる。遂に冬に入ったのか最近の気温は低くなる一方である。
しかし、夏にはない柔らかな日差しは寒さを忘れる程に暖かくて心地が良い。目を瞑って机に伏せたならばすぐに意識を手放して夢を見れることだろう。
数学の授業はこの上なく退屈だった。
「澄村さん、この問2の問題解いてみてください」
教師に言われて、半ば眠りに入っている頭を急回転させて立ち上がる。そして黒板の前に立ってチョークで解答を書き込んでいく。別にこの程度の問題で苦戦するほど成績は悪くはない。
「これで大丈夫ですか?」
「正解です。席に戻っていいですが寝ないでくださいね?」
「はい……」
眠気のためか言葉の端々に棘が感じられるように聞こえる、と自分で思った。
そして席に着いた明輝は、日差しの手招きに逆らうこと無く夢に落ちた。
◆
数学の授業が終わってから10分後。つまり昼休みに突入して10分が経過したと同意の時間に、澄村は目を覚まして、教室中が昼食ムード一色になっているのを理解して焦った。まさか誰も起こしてくれないとは予想外だった。
すぐさまいつも一緒に昼食を食べているグループに弁当箱を持って合流すると、案の定笑い声が漏れてきた。
ぶつぶつと文句を垂れながらも明輝は近くにあった椅子に座って弁当箱を拡げる。
「……全く、起こしてくれてもいいのに」
「あまりにも気持ち良さそうに寝てからさ。ごめんごめん」
友人のうちの一人が微塵も申し訳なさを感じさせることなく両の手を合わせて微笑んでいる。
「それにしても……」
その友人がおもむろに携帯電話を取り出して画面を明輝に見せてきた。
「明輝の寝顔が可愛すぎてさー」
「ちょっ……何撮ってんの水美!消して消して消して!!」
水美と呼ばれた友人の携帯電話の画面目一杯に映っているのは紛れもなく自分であり、両腕を枕代わりにして眠っている自分の寝顔が液晶画面にある。
「瑰くんにこの写メ送ると喜んでくれるよ、きっと」
「な、なんでそこで瑰が出てくるの!あいつはただの幼馴染みよ」
「幼馴染みねぇ……」
明輝の寝顔を激写した水美が一緒に昼食を食べていた他の友人に話を振る。
「ねぇねぇ奥さん。ただの幼馴染みですって」
「あらやだわ。そんな幼馴染みなんて漫画だけでしょう?」
「そう思いたかったけど、この澄村さん、本当に幼馴染みがいらっしゃるのよー。しかも男の子。線の細い子だから男勝りの澄村さんが守ってあげると本人から聞いたわー」
友人同士のまるで近所の中年女性の間で繰り広げられる井戸端会議のような会話。からかわれているいるのは明らかだ。
「一体、何年前の話よ!!」
高校生になった今ではその話ももはや十年以上前の話。事故で一命をとりとめたものの、体が弱くなってしまった幼馴染みへの気持ちを宣言したのだ。
その後、小さい自分は自慢話のようにそのことを友人に話して以来、十年以上もからかわれ続けているネタである。飽くまで自分が一方的に守るのだ。大きくなったら結婚しよう、などという赤面するような約束をしたわけではない。
子供心に決心したからなのかその時まで全く運動というものが苦手だった明輝だが、近所の市民体育館で行われていた剣道教室に通うようになり、高校生となった今では剣道二段という腕前。
「んー、えっと、明輝が剣道を始めた頃だから……12年前?」
「とても正確な情報をありがとね」
縦一閃に降り下ろされた明輝の手刀が友人の脳天を直撃した。
「いっ……たぁ……」
涙ぐんで手刀を受けた頭を抑える水美は途端に立ち上がると、携帯電話をしっかりと握りしめて同じ教室で昼食を食べている男子のグループへと歩いていく。
「ねぇねぇ瑰くん!この明輝の寝顔どう思うかな!?」
弁当の攻略を進めながら男友達と談笑している線の細い男子へと駆け寄ったのだ。そして被写体本人から削除命令が下された画像を、時代劇の中で印籠を見せつけるかのように瑰と呼ばれた男子に見せたのだ。
「なぁにをやってんのこの馬鹿!」
間髪入れずに寝顔を激写された少女の追撃が水美を襲った。
その場で痛みに悶える彼女だったが、肝心の画像が表示されている携帯電話は既に瑰と呼ばれた男子生徒の手の中にあった。
「木崎さん、この写メ後で僕に送ってくれないかな?」
「オッケーオッケー! 任せときなさい!」
水美が親指を立てて元気よく了承の意を伝えた所まではよかった。
不意に後ろから首が締めつけられる。それは女子生徒の細い腕だがどこにそんな力があるのかと問いたくなるほどにギリギリと強さを増していく。タップを十回しても緩まることはなく、今の思いを述懐しても緩まることはない。
明輝の地雷を踏んだようなものなのだからこれはこれで仕方がない事なのかもしれないが。
「ギ、ギブ……」
実際の時間にして十秒未満。短い時間だが水美当人からすれば冗談にならない程度にはギリギリだったのだろう。
ひとまず寝顔の流出という事態を防いだと確信した明輝はしかし、失策を理解する。
「この明輝、可愛いよね? ね?」
幼馴染のその一言。明輝の寝顔が映っている水美の携帯電話が、瑰が昼食を一緒に食べていた男子グループを中心にして回っているのだ。さらに周りは周りで悪ノリして盛り上がってる。
元凶を懲らしめても既に出回った情報を止めることはできない。
瑰は座席に座って弁当を食べながら自分の寝顔を話題にして友人たちと話してる。この位置ならば大した苦労もなく可能だった。
小さく踏み込んでリズムをつけ、身を回す。その動作で瑰が気づいたのかこちらを気づいたがもう遅い。身を回した遠心力によってスカートがふわりと上がる。今日に限ってスカートの丈を短くしていたのが災いしたのか。
「あ、白」
「死さらせ!!」
寝顔をクラスの男子にばら撒かれ、下着を幼馴染に見られたことを代償として足をそのまま振り上げ、回し蹴りとして幼馴染の首を刈り取った。
◆
「首が痛い……」
瑰が首を抑えて嘆く放課後の帰り道。隣には明輝がいる。彼らが通っている学校がある隣街から電車に乗り、二駅ほど先の駅で電車から降りて改札を定期券でスルーし、小さい頃から親しんだ土地を二人で歩く。
冬が起床してウォーミングアップをしているからなのか、最近は陽が落ちるのも早くなってきた。
「私の下着、見たことを誰かに言ったらささくれた竹刀で滅多打ちね?」
「あれは順番が違うじゃないか……明輝が回し蹴りをしようとしなかったら見えなかったわけだし」
「そもそもあんたが調子に乗って私の寝顔を男子に見せて回るからでしょ」
「明輝が可愛いんだから仕方ない」
「あんたねぇ……」
この幼馴染みは明輝のことが好きなのだと言う。中学生に上がった頃に初めて告白された。もちろんそんな経験は無かったし気の知れた友人が自分にそんな感情を抱いていると知って酷く困惑した。
以来、そのままだ。
彼は聞こえていなかったのかも、と不安になってまた告白してきた。それがとても怖かった。外れてはいけない枷が外れたように頭の中がぐるぐると回り続けてやっと絞り出せた言葉が。
───少し考えさせてくれるかな。
逃避だった。
彼は言った。
───いつでも、いつまでも待つかラ。
聞いているこちらが恥ずかしくて赤面してしまいそうな台詞を、いつもは頼りなくて守ってあげないと消えてしまいそうな彼が臆面もなく言ったのだ。
夕暮れの帰り道は静かだった。都会、というよりは都市化が進んでいる隣街とは違いこの片田舎では道路を行き交う車も歩道を早足で歩く人も、隣街より確実に少ない寂しい片田舎。少し道を逸れれば獣道があるし野生の猪が畑を荒らすのなんて茶飯事。
故に違和感が生じるのだ。何故、たかが数キロ離れただけの土地がまるで異世界のように感じるのかと。
「あれ、明輝、どうかしたの?」
「んー、何でもない。少し考え事してただけだから」
「そっか、なら良かった」
まるで大人のように、彼は笑う。どこかでブレーキをかけて全部を表に出さないようにと仮面を被っているかのように。体裁を繕うための笑顔のようだと明輝は感じた。
前方にある木々から鳥がバサバサと羽ばたいていく。夕暮れに映えるシルエットは影絵を連想させる。
瑰はその笑顔から一転して真面目な面持ちでその光景を見ていた。夕焼けの空に羽ばたいていく黒い翼は確かに綺麗だった。
「あれ、明輝、今日何日だっけ?」
ふと、何かを思い出したように瑰はそう質問してきた。
「24。11月24日」
「やば……欲しいCDの発売日だよ。少し駅の方に戻るよ。先に帰ってくれて大丈夫だから」
「分かった。じゃあね」
「うん、また明日」
瑰は踵を返して今歩いてきた道を戻っていく。夕焼けの片田舎の景色に幼馴染みの影が溶け込んでいく。その狭い肩幅から連想する頼りないという第一印象はシルエットだからこそはっきりとしていた。
電線の上に留まっている六匹の小鳥が北東の空へ向けて一斉に飛んで行った。
それから約十分程度歩き続けた明輝は家の近くにまで来ていたが帰路の途中にある公園の前で足を止めた。公園のブランコは遊ぶ人もおらず風もないのにひとりでに小さく揺れていた。
公園は無人。人が消えた場所は夕焼けに照らされてまるで赤く燃えているようだ。いつまでそのいつも見ているはずの光景に釘付けになって棒立ちになっていたのか分からない。ただ分かるのは、いつの間にかブランコで遊んでいる子供たちがいることを見逃すほどに茫然自失としていたということだけだ。
公園で遊んでいる四人の子供たちは声を出して笑っている。決して大きな公園ではないが様々な遊具を使って全力で遊んでいる。
その中の一人がブランコに乗ったまま目の前にいたもう一人の子供を思い切り蹴飛ばした。
ブランコの勢いをそのままに繰り出されたそれは蹴られた少年を吹き飛ばし、宙を低く舞った後に地を滑るその子供に他の二人が群がる。
その二人が、倒れた子供を助けるのではなく、あろうことかそのまま腕を引きちぎり、食した。
夕焼けの逆光によってこの光景が全て赤と黒という奇妙なコントラストで繰り広げられていたのが救いなのか、否か。過程はどうあれ明輝の視界はそこで暗転した。
明輝が次に気がついたのはやはり公園の前だった。あの子供たちはどこにもおらず白昼夢のような感覚が鮮烈に残留している。もちろん公園には誰もいないしブランコは揺れていない。子供たちがいたと思われるブランコ付近には何の痕跡もないようだ。気色の悪い白昼夢だったと心の底から思う。
つい先日が部活の試合だったこともあり疲れているのだろう。試合があったので今日は練習も休み。早足で帰路に着いた。帰宅すると誰もおらずリビングにあるテーブルには置き手紙が一通。
「あー、お父さんとお母さん、出張か」
手紙には仕事で三日ほど家を空けることと、自分達がいない間は瑰の家で世話になるようにと書いてあった。
いつも通りの一部だ。仕事柄、両親が家を空けるのは昔からだしその時は決まって瑰の家の世話になっていた。年頃の女の子一人では不安だという両親の気持ちがよくわかる。
瑰の家は真向かいだ。行こうと思えばいつでも行ける。それにいきなり押し掛けても迷惑だろう。厄介になるのは明日からと決めて明輝は制服から部屋着へ着替えるために自室へと向かった。
奇妙な白昼夢の事など微塵も覚えていなかった。
◆
───ほぅら、いい獲物を見つけタ。
◆
翌日。明輝は寝起きで仕事をサボる脳に喝を入れてリビングへと向かう。案の定、両親はいない。机の上に置かれている市販の食パンをオーブンにセットし、同時にコップに牛乳を入れて電子レンジにセットし、両方のタイマーを設定して起動させた。
五分も経たない内に両方が完成の合図を送ってくれたので早速朝食とする。時間は午前6時30分。部活の朝練もない日はとてもゆっくりとした朝を過ごせる。
そして諸々の準備を終わらせると時間は朝食を食べてから一時間程度は経過していた。急いで家を出て向かいの家に向かう。もちろん家の鍵を閉めることは忘れない。
そして、向かいの家の呼び鈴を鳴らした。
「今出るからもうちょっと待ってて」
呼び鈴からは瑰の声。
言われた通りに数分待っていると玄関のドアが開いた。
「待たせてごめん、行こうか」
「うん。……あれ、おばさんは?」
「ああ、母さんは親戚の家に行くらしいよ。朝早くから出ていった」
「えと、あのさ、うちの両親が出張だから……」
「うん分かった。うちも親いないし好きに使ってくれていいから。じゃ、行こうか」
そう言って瑰はスタスタと先に進んでいってしまう。
───えと、その、若い男女が一つ屋根の下で一夜を過ごすことにツッコミは無いの?
いつもだったら「本当に!? 嬉しいよ!」という風に何かしら食いついてくるはずの瑰が何の反応も無いなんて雪でも降るのかと思うほどだった。
高校の授業は簡単ではないが大した苦労をするほどでもない。それが明輝の個人的な感想である。予習復習さえ心がければどうとでもなる。
だから今日は四限目の英語の授業を睡眠に費やした。
微睡みに身を委ねながら散り散りになった意識の欠片たちが無造作かつ煩雑に思考を始める。
───今の和訳はもう少しひねってらないと意味が噛み合わない。
───教科書46ページ3行目。admirerは崇拝者。
───…………。
───瑰の好物は野菜全般。
───草食系男子を体現しちゃったよこの幼馴染み。
───瑰が好きなことは音楽を聞くことと本を読むこと。
───おとなしい趣味ばかり。
───あと、運動全般。
魚の小骨が喉ではなく、思考に引っかかった。瑰は小さい頃に交通事故で体が弱くなってそれ以来運動が苦手だったのだ。
───ああ、そうか。
瑰は事故に巻き込まれる前は誰よりも外で遊ぶことが好きなやんちゃ坊主だった。
今思えばその時から比べると趣味が逆転している。昔、明輝はままごとの類いが好きだった。瑰は外で友達と遊ぶことが好きだった。
今、瑰はインドアの趣味が主だ。明輝は剣道を初めとしてスポーツが好きなアウトドアの趣味が主なのだ。
◆
放課後。終礼が終わると水美が一目散に明輝のところへやってきた。
「ねえねえ明輝、今日は部活休み?」
「うん。試合が終わったところだからしばらく休みよ」
「じゃあ駅前のファミレス行かない?」
「水美から誘ってくるなんて珍しい事もあるもんね」
「そんなこと無いよ、アハハ」
乾いた笑いが痛々しかったのは言わないのが身のためなのだろうか。
「そだ、何なら瑰くんも誘う?」
「だから何でそこで瑰が出てくんの……それなら古藤でも誘う?」
「うっそ、理貴っち!? マジお願いします理貴くんと一緒にファミレスとかヤバいヤバいヤバい!」
「ん? 俺がどうかしたの?」
水美が騒ぎ立てていると、古籐と呼ばれたクラスの男子が二人に話しかけてきた。自分が話題に上がっていれば気になるのは至極当然だろう。
「え、ええと、えっとね、ここれから駅前のファミレスに一緒にいかない?」
「水美、噛みすぎ」
「う、うるさいなぁもう!!」
顔を真っ赤にして明輝をポカポカと殴りつける水美はロクに呂律が回らず更に顔を赤くさせる。
理貴はそれを苦笑いでその光景を見ているが、ものの数秒で話が進まなさそうと理解したのか明輝に質問した。
「っと、澄村も一緒か?」
「うん、私いないと水美が爆発しそうだし」
「ハハッ、そうかも。でも澄村がいるなら瑰も誘わなきゃな」
「ちょっ……何よそれ!?」
理貴は威圧を放ってくる明輝を尻目にして、教室で帰宅の用意をしている瑰に話しかけた。
「おーい、瑰。一緒に駅前のファミレス行かねぇ? 明輝ちゃんもいるぜ」
「よしそれなら僕も行くよ」
即答だった。
瑰や明輝が通学路として使っている駅の周辺は色んな施設が集中しており、学校が終わって帰宅部組が下校するこの時間帯は一種の学生のたまり場となっている。
瑰たち四人が入ったファミリーレストランもその例から漏れることはない。元より学生という年齢層をターゲットにしているからなのか値段もリーズナブル。学生たちの格好のたまり場となっている。
そしてこういう場所の飲食店の宿命か、このレストランのアルバイトのほとんどが瑰たちの通っている学校の学生である。
「んじゃ、何を頼みますかね」
席に通されると理貴は早速メニューを開いた。それらを女子組が覗き込み、瑰が一歩譲ったように頬杖をついて三人を見ている。
「私はドリンクバーでいいや」
明輝はひとまず、といった感じでそう言った。
「わ、私もドリンクバーかな」
「……ドリンクバーだけだと何かアレだな。適当にポテトでも頼んどくか。瑰はどうする?」
「僕は……」
瑰はそこで言葉を置いてメニューをパラパラと捲りざっと目を通す。
「うん、決まった。大丈夫」
「オーケー、んじゃ注文しますか」
理貴が注文をするための呼び鈴を鳴らした。ウェイトレスが来ると理貴がまとめて注文を行う。
「あー……えーと、ドリンクバー3つとフライドポテト……あとは、やば、瑰の注文聞いて
ねえ」
「大丈夫だよ。ドリンクバーをもう一つと、チーズハンバーグセット、ビッグサイズ二人前で」
「ブッッッッッッ!」
お冷を飲んでいた明輝と理貴が吹き出したのは同じタイミングであり、それに驚いた水美が肩を震わせたのはその直後だった。
値段がリーズナブルなだけでは他店との競争に勝ち残れないのは当たり前だ。安くて量も多く美味い。だからこそ人気があるのだ。大の大人でもビッグサイズを食べれば腹一杯になると言われているのだ。瑰の注文に驚かない方がおかしい。
「以上でお願いします」
それらを気にすることなく注文を終えた瑰が、明輝と理貴を見て首を傾げる。
「どうしたの?」
「どうしたの、ってあんたねぇ……そんな大量の肉を食べれるほど胃袋大きくないでしょう」
呆れたように明輝が言った。
「だよなぁ……瑰の弁当箱っていつも俺らより一回り小さいぐらいだし。そこまで食べるなんて予想外すぎた」
「うんうん。瑰くんっていっつも野菜食べてる印象あるし」
理貴と水美の言葉が、瑰にダイレクトに突き刺さる。
「ぼ、僕だって一応は年頃の男子だから、食べるときは食べるさ……」
そう弁解して瑰は水を一気に飲み干そうとグラスを口へ持っていき、傾けた。
「ちなみに明輝を食べる予定は?」
瑰の口から噴水のように水が噴き出すと同時、明輝の鉄拳制裁が水美に下された。
◆
「お邪魔しまーす」
瑰と明輝がファミレスから帰宅した時間は午後六時を回っていた。予定通りに明輝は瑰の家に上がらせてもらう。
「僕は先にお風呂沸かしてくるからリビングでゆっくりしといて」
普段からこの家に住んでいる幼馴染みは特に気兼ねをするでもなく明輝にそう言った。もう気の知れた仲なのだ。今さら変に心配する方がおかしい。
「分かった。ありがとう」
素直に了承の意を伝えると、瑰は風呂場の方へ行き明輝はリビングのソファに身を沈める。
瑰の家の家族構成は父、母、瑰の三人だ。しかしテーブルには四人分の椅子が配置されている。食器も四人分ある。箪笥は一人一段のスペースで服を収納するとしてやはり四人目が使われている痕跡がある。
これら全てが明輝のためのものだ。幼い頃から両親の仕事柄、親同士仲の良いこの家によく預けられていた。
他人の家に生活の香りを残すほどにこの家族に浸っていた。自分も瑰と同じ家族なら良かったのにと何度考えたことか。それでもそれは許されなかった。
そして、中学生のときに瑰の気持ちを知ってしまい逃げた。
瑰はいつも引っ込み思案でどちらかと言えばリーダーシップを取るのは明輝だった。だから彼女としては瑰は弟のようなものだった。辛い過去があるけど一生懸命に頑張っている健気な弟。なのに。
───僕は、明輝のことが好きです。
その一言で歯車が狂ったのかもしれない。
「明輝、晩御飯どうする?」
「…………」
「明輝?」
「え、あ、ごめん……考え事してた」
「大丈夫? それと明輝は晩御飯どうするの?」
「あー、どうしよっかな。瑰は?」
「あれだけの量のハンバーグを食べたのにまだ食べろって言うの?」
冗談混じりに瑰はそう言った。楽しそうな笑顔だ。
「そういうことね……私もしっかり食べてこれば良かった。冷蔵庫の中身使わせてもらっていい?」
「明輝なら母さんも文句言わないよ。じゃあ僕は先にシャワー浴びてくるから」
そう言って瑰は脱衣場の方へ消えていった。言葉に甘えさせてもらって明輝は早速冷蔵庫を開けて最低限の夕食を取れる程度のものだけを取っていく。幾ら気が知れているといっても他人の家で我が物顔で振る舞うのは筋違いだろう。
明輝が夕食を簡単に作って、食べ終えたころに瑰は風呂から上がってきた。
「それじゃ、私もお風呂入るよ」
「ごゆっくりどうぞ」
瑰のその言葉が何故か耳にこびりついた。
◆
───雑魚ばっかってのハ、怪しいナァ。腹が減って仕方がないかラ、質より量ってのは良い傾向だけどナ。
◆
明輝が風呂から上がると、瑰の姿はリビングには無かった。
二階にある自室に行ったのだろうか。
まだ乾ききっていない肩甲骨あたりまで伸びている黒髪をタオルで水分を拭き取りながら明輝は階段を上がる。
瑰の自室の前で足を止めるとそのドアを二度ノックする。
「……瑰?」
いつもならあるはずの返事が無かった。
もう一度ノックしても同じ。部屋の主はいるべきはずのところにいない。
心が、ざわつく。
ドアを開けろと心が訴えている。でもそれをしてしまえばまた後悔するのかもしれないという一抹の不安がある。
葛藤が激しくなるほどに鼓動は早まる。そしてそれらに耐えきれなくなって半ば無自覚にドアを開けた。
「明輝? どうしたの、そんな、切羽詰まった顔をして」
いつも通りの優しい笑顔をした幼馴染みがベッドに腰掛けていた。拍子抜けをしたのか安堵したのかはともかく深い息が漏れる。
しかし彼の様子が少しおかしかった。
「どうしたのって、ノックしても返事ないから……」
「ごめんごめん。少し、とりこんでて、さ」
「何で部屋にいるだけで息を切らしてるのよ」
「ちょっと、筋トレしてたからさ。やっぱり……少し頑張るとキツい、かな」
「医者から激しい運動を止めるようにってあれだけ……」
「そうだけど、やっぱりヒョロヒョロのもやしみたいな男って嫌われるじゃん。僕としては少しは昔みたいになりたいかな」
「そう、なの」
昔。彼が言うそれは間違いなく事故にあう前の時のことだ。もう十数年前のことなのに。
「やっぱり奪われたものを取り返すのは、簡単じゃないや」
「え……?」
何の脈絡もなく彼はそう言った。いきなりの飛躍に必死に話題についていこうと頭を働かせる。
「それって事故で奪われた瑰の元の運動神経……っていうことでいいの?」
「え、あ、うん、そういうこと。いきなり変なこと言ってごめん」
確かに今の瑰は変だった。そこにいるのに、まるでいないかのような奇妙な感覚。
この部屋に来訪者を告げるかのように風が吹く。
「寒っ……窓、開けっ放しじゃないの」
「あ、ごめん。暑かったからつい」
「網戸にしとけばいいのに、わざわざ全開なんて……」
「そこまで気がまわらなかったよ」
冗談めかして微笑しながら瑰は窓を閉めてカーテンも閉める。途端静かになる室内。この家にはこの二人しかおらず、その二人が無言なのだから当然だった。気まずい空気が流れる中、明輝は話題を探そうと必死に部屋の中をきょろきょろと観察する。
そして見つけたのは棚の上に丁寧に積まれた一つの紙束だった。紙束と言ってもトレーディングカードゲームで使うカードを塔のように積んだもの。
「これ懐かしいね……昔よく瑰が遊んでたカードゲーム」
「確か……どのくらい前だっけな。もう名前も忘れてるよ」
「瑰って外から帰るとこのカードでずっと遊んでたじゃん。私も無理矢理始めさせられて」
懐古の記憶が明輝の脳裏に蘇ってくる。夜になって外が暗くなれば瑰は決まってこのカードゲームで遊んでいた。
「もう覚えてないよ。えっと、名前はなんだっけ」
「カードの裏面にロゴが書いてあるじゃない。それにずっと自分の部屋にあったものなのに。……変な瑰ね」
「うん、今の僕は少し変だな。まあたまにはいいじゃないか」
そう言って苦笑混じりに瑰は積まれたカードの塔の一番上から一枚だけ取る。
「シュヴァリエプライド……?」
「そのカードゲームの名前でしょ?」
またしても様子がおかしい瑰。カードを見た途端に今度は糸が切れた操り人形のように、動くことを忘れたかのように一切が静止した。一分が経っても瑰は動かない。
「ねぇ瑰? 瑰ってば!!」
呼んでも返事が無い。無かったから明輝は怒鳴った。目の前に確かにいるはずの瑰が瑰じゃないような気がする。だって明らかにおかしいではないか。
「あ、ごめん……って今日僕は謝ってばかりだね」
自嘲の笑み。それすら無理をしていることぐらい一目見ただけで分かる。
「瑰、何を無理をしているの? 何かあったら私に……」
「何でもない!!」
幼馴染が発したのも怒号だった。
「何でもないから……僕は大丈夫だから」
「今日の瑰、おかしいよ」
先ほどよりも気まずい空気が流れる。もう後戻りも出来なければ進むことすら出来ない。
そのまま明輝は瑰の部屋から出て二階の廊下の突き当たりにあるドアを開けた。昔からこの家に世話になる時に使う部屋だ。他人の家に自分の部屋が用意されていてそれを当たり前のように使っているのだ。ふと携帯電話がメール着信を主張するために必死に点滅していた。
「メール?」
現在の時間は午後9時過ぎ。そこまで遅い時間でもない。
「水美からだ……」
携帯電話を開いて受信ボックスを表示。内容を確認する。
『ごめん!何かチェーンメールが回ってきたから怖くなって回しちゃった><
“今宵はカーニバル。祭りだ祭、騒げよ騒げ。人も異形も無礼講。餌も来客も無礼講。肉を裂いて真紅の美酒を飲み交わそう。騒げよ騒げ今宵はカーニバル”』
笑いがこみ上げてくる。幾らなんでもこんな稚拙なもので怖くなる高校生がいるのかが疑問に思える程度だ。水美はそうらしいが。返信はせずにそのままベッドに寝転んで布団をかぶった。
今思い返せば、瑰にあそこまで冷たく当たったのは初めてかもと思いながらすぐに眠りに落ちた。




