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線と線の間

作者: mkttsn
掲載日:2026/08/27

挿絵(By みてみん)

プロローグ


西日本の、ある県。


山は海に近い。脊梁山脈から流れ出した水は、急な谷を下り、わずか五十キロほどで太平洋に注ぐ。その短い流路の途中に、平野がある。川が山地を抜けた場所で扇状地を広げ、そこに人が住み、田を拓き、町をつくった。人口はおよそ二万五千人。稲作と柑橘と、小さな商店街。どこにでもある地方の町だった。


川の名を、ここでは黒瀬川とする。


黒瀬川は二級水系の本流であり、県が管理している。流域面積は百八十平方キロメートル。全国に二千七百余りある二級水系の一つにすぎず、この県の外でその名を知る者はほとんどいない。


だが、この川には一つ、際立った特徴があった。


上流域の年間降水量が、三千ミリを超える。


太平洋から吹き込む湿った風が山脈にぶつかり、膨大な雨を落とす。梅雨には一日で二百ミリを超えることも珍しくない。水の恵みは下流の農業を潤す一方で、ひとたび大雨が降れば、急勾配の谷が水を一気に集め、平野部を襲う。


黒瀬川の洪水の歴史は、そのまま流域の歴史だった。


昭和の中頃、たび重なる水害を受けて、県は上流の最も狭まった谷に多目的ダムの建設を決めた。目的は五つ。洪水調節、水道用水の供給、農業用水の確保、発電、そして河川の正常な流量の維持。一つのダムに、流域のあらゆる水の需要が託された。


ダムの型式には、ロックフィルダムが選ばれた。


建設予定地の地質が、巨大なコンクリート構造物の重量を支えるには十分でなかったためだ。代わりに、周辺の山から切り出した岩石を積み上げ、中心部に粘土の遮水壁を据えた。岩と土と粘土で造られた、巨大な台形の山。遠くから見ると、それは自然の丘陵のようにも見えた。


ロックフィルダムは、コンクリートダムとは違う。


コンクリートの一枚板ではない。水が堤体の上を越えれば、下流面の岩が洗われ、内部のフィルター材が抜け、コア材が露出し、最後には堤体そのものが崩れていく。一度崩れ始めれば、止める手立てはない。


ダム関係者はそれを「越水決壊」と呼んだ。


完成から四十年。ダムは流域の暮らしを支え続けてきた。


農家は水の心配をせずに田植えができるようになった。町には安定した水道水が届くようになった。発電所は年間を通じて電力を生み出した。そして何より、あれほど頻繁だった洪水が、ダムの完成以降、大きな被害を出すことはなくなった。


人々はやがて、洪水のことを忘れた。


ダムがあるのだから大丈夫だ、と。


ダムの堤体の上からは、上流側に深い緑色の湖面が広がり、下流側には谷が開けて遠く平野部が霞んで見える。晴れた日には、その先に海の光が見えることもある。


管理事務所は堤体の右岸に建っている。コンクリート造りの三階建て。二階が操作室で、そこには水位計、流量計、雨量計のデータがリアルタイムで表示されるモニターが並ぶ。テレメータが上流の各観測所から数値を集め、十分おきに画面を更新する。下流の警報局につながるサイレンの制御盤。県庁と結ぶ専用回線の電話。気象庁のデータを受信する端末。


この部屋に、三百六十五日、二十四時間、必ず誰かがいる。


操作室の壁には、一枚の縦長の図が貼ってあった。


ダムの堤体を横から見た断面図。そこに水位の線が、何本も水平に引かれていた。


一番上が、堤頂。岩を積み上げた台形の山の、頂上の線。


その少し下に、設計最高水位。ダムが構造的に耐えられる、設計上の最高の水位だった。


さらに下に、洪水時最高水位。これ以上は貯められない、という限界の線。専門用語では「サーチャージ水位」と呼ばれる。


その下に、洪水期の制限水位。梅雨と台風の季節、ここまでしか水を貯めてはいけない、という上限。洪水を受け止める空き容量を確保するために、わざと下げてある。


平常時最高水位は、それより少し高い位置にあった。洪水期以外の時期の上限。


一番下に、最低水位。これより下の水は、取水口に届かない。


所長の名を、戸川としておく。


五十七歳。県の土木部に三十年以上勤め、河川課の管理係長、ダム建設課の課長補佐を経て、三年前にこの管理事務所の所長に着任した。あと三年で定年を迎える。


戸川は新人にダムの説明をするとき、いつもこの図を指して言った。


「ダムというのは、水を貯める箱じゃない。水位を、線と線の間に保つ仕事だ。下げすぎれば渇水で人が困る。上げすぎれば洪水で人が死ぬ。我々の仕事は、その線の間で、毎日、毎時間、判断し続けることだ」


新人たちはたいてい、頷くだけで何も言わなかった。


その意味は、ここに何年か座ってからでないと、本当にはわからない。


戸川自身が、そうだった。


戸川が毎朝最初にすることは、操作室に入り、水位計の数字を見ることだった。


それは天気予報を見るのとも、カレンダーを見るのとも違う。水位の数字は、流域全体の「今」を映している。昨夜どれだけ降ったか。上流の森がどれだけ水を蓄えたか。下流でどれだけの水が使われているか。すべてが、この一つの数字に集約される。


そしてこの数字の先に、二万五千人の暮らしがある。


戸川はそれを知っている。



第一章 水位管理


四月。


その年の貯水率は、例年より低いところから始まった。


冬から春にかけての降水が少なく、湖面は岸の輪郭に痩せた線を引いている。露出した法面の岩肌が、湖の縁に灰色の帯を作っていた。


戸川は朝の点検報告に目を通したあと、机に積まれた書類のうち、河川課からの一枚を手に取った。利水者からの問い合わせを集計したものだった。


農協、水道局、電力会社。


「今年の貯水率では、田植えの水が心配だ」

「夏の需要期に水道用水が確保できるのか」

「発電量の見通しが立たない」


どれも切実な声だった。そして、どれも所長一人の判断ではどうにもならない声でもあった。


午後、河川課長から電話が来た。


「戸川さん、利水者の声、ご覧になりましたか」


声は丁寧だった。県庁本庁舎の四階、河川課長室。電話の向こうにあるはずの景色を、戸川は知っている。


「拝見しました」


「何か対策は」


「梅雨に入れば回復します」


短い沈黙。


「……そうですか」


課長は四十歳前後だった。県の技術職、上級採用。大学院で河川工学を修め、本庁の計画畑を歩んできた。三年前にこの課長職に就いた。戸川はこの男の顔を、年に数回しか見ない。電話の声で性格を測るしかない。


慎重で、賢く、そして自分の経歴に敏感な男だった。


「梅雨が空梅雨だったら」


「そのときは、別の対応を考えます」


「わかりました」


電話が切れた。


戸川は窓の外を見た。湖面は静かだった。


* * *


五月の終わり。


気象庁が、防災気象情報の運用を刷新した。


新聞でもテレビでも報じられた。警報の名称に警戒レベルの数字を付ける。線状降水帯に関する情報を三段階に整理する。半日前予測。直前予測。発生情報。すべての情報体系が、避難行動と直接結びつくよう設計し直された。


運用開始の翌日、戸川は職員を操作室に集めた。


七人。所長を含めて八人。これがこの管理事務所の全員だった。


「新しい情報の出方を、もう一度確認する」


戸川は気象庁の端末を操作した。画面に新しいフォーマットが映る。


「気象解説情報、線状降水帯半日前予測。府県単位で出る。これが、約十二時間前の合図だ」


職員たちが頷いた。


「気象防災速報、線状降水帯直前予測。一次細分区域で出る。発生の二、三時間前を目標としている」


「発生情報は」


操作主任が訊いた。


「すでに発生している、ということだ」


戸川は画面を切り替えた。線状降水帯予測マップ。日本地図の上に、メッシュが並ぶ。


「これが新しく追加された。今後三時間以内に線状降水帯が発生する可能性のあるメッシュが、ここに表示される。府県より細かい。我々のダム流域がメッシュに入ったら、それは、来るということだ」


職員の一人が訊いた。


「警報名にレベルが付くようになりましたが、操作判断との関係は」


「これまでと変わらない。我々が見るのは水位と流入量だ。警報は、避難情報と歩調を合わせる仕組みだ。我々の操作判断の基準ではない。ただし——」


戸川は言葉を切った。


「ただし、レベル五が出るような状況なら、我々はとっくに動いていなければならない」


操作室が静かになった。


戸川は思っていた。制度は新しくなった。しかし水位計の前に座る人間は変わらない。


決めるのは、いつも一人だ。


* * *


六月。


梅雨入りが発表された。だが雨は少なかった。


貯水率は回復しないまま、六月十五日を迎えた。


洪水期。


この日から、ダムの貯水位の上限は、平常時最高水位から洪水期の制限水位へと切り替わる。利水容量の一部を、洪水調節容量に振り替える。空き容量を増やし、来るべき豪雨に備える。


つまり、水を捨てる。


すでに貯水率が低いのに、さらに水位を下げる。それが規則だった。


操作員がゲートを開いた。湖面が、ゆっくりと下がっていく。


午後、河川課長から電話が来た。


「戸川さん」


声は前回より硬かった。


「農協から強い要望が来ています。制限水位への移行、遅らせられませんか。今年の貯水率なら、洪水期に入っても余裕があるはずです」


「六月十五日です」


「規則は知っています。しかし、運用の幅というのは」


「ありません」


戸川は短く答えた。


「操作規則に定められた水位です。遅らせる理由がない」


「降らなかったら、どうするんですか。秋に渇水になったら、誰が責任を取るんですか」


「秋に渇水になったら、責められるのは私です」


電話の向こうで、課長が息を呑むのがわかった。


「今、水位を下げない方がいい理由は、何もありません。降らなかった場合のリスクは、私が引き受けます」


しばらく沈黙があった。


「……わかりました」


電話が切れた。


戸川は受話器を置き、窓の外を見た。


湖面は下がり続けていた。


降らなければ、秋に渇水になる。


しかし降れば、この空き容量が、流域を守る。


どちらに転んでも、責められるのは自分だ。それはわかっている。それでも、捨てなければならない水があるのだ。



第二章 豪雨前


七月中旬。


ある日の朝、戸川は気象庁の数値予報を見て、操作室の椅子に深く座り直した。


GSM。全球数値予報モデル。気象庁が八十四時間先までの予測に用いるシステム。


三日後を中心に、ダム流域を含む地域に大雨の予測が出ていた。予測雨量は、累加で百五十ミリを超える可能性。


これはダムの基準降雨量を超える数字だった。


事前放流ガイドラインに基づけば、判断のリードタイムは三日前から。今がそのタイミングだった。


戸川は受話器を取った。


「河川課長をお願いします」


少し待たされた。


「もしもし、戸川さん」


「事前放流の判断を上申します」


電話の向こうで、課長が息を整える音がした。


「……三日前のGSMで、ですか」


「ガイドラインに沿った判断です。予測雨量が基準を超えています」


「予測です。三日先の」


「予測です。だから今、判断する必要があります」


「外れたら」


「外れたら、私が利水者に説明します」


「いや、戸川さん、それは——」


「課長」


戸川は声を落とした。


「治水協定があります。利水者には事前に同意を得ています。空振り時の補填も、制度として用意されています。手続き上、止める理由はありません」


「手続き上は、そうです。しかし」


「しかし、何ですか」


沈黙。


戸川は待った。


電話の向こうで、課長が紙をめくる音がした。資料を確認しているのだろう。あるいは、確認しているふりをしているのかもしれなかった。


「……部長に確認します」


電話が切れた。


戸川は受話器を置き、操作室を見渡した。職員たちが黙って自分を見ていた。


「待つ」


それだけ言った。


四十分後、電話が鳴った。


「承認します。ただし放流量は最低限で。利水者への影響を最小化してください」


「承知しました」


戸川は受話器を置き、操作主任に頷いた。


「事前放流、開始」


ゲートが動いた。


* * *


二日経った。


事前放流は続いていた。


しかし下流の河川は、すでに梅雨前線の影響で水位が上がっていた。県の河川事務所から連絡が入る。


「これ以上放流量を増やすと、下流の警戒水位に達します」


戸川は放流量を絞った。


入ってくる水と、出していく水。その差し引きで、ダムの空き容量が確保される。だが下流の制約があれば、出せる量に限界がある。


雨はまだ本格的には降っていない。流入はわずかだった。それでも戸川は、終日、気象庁の端末から目を離さなかった。


太平洋高気圧の縁。前線の位置。海面水温。湿舌の張り出し。


すべての条件が、揃っていた。


* * *


翌朝、五時過ぎ。


気象庁から、新しい情報が発表された。


「気象解説情報 線状降水帯半日前予測」


府県単位。


「○○県で、今後半日程度のうちに線状降水帯が発生する可能性があります」


ダムのある県が、対象になっていた。


戸川は職員全員を招集した。


「今夜から明日にかけて、ヤマが来る」


職員たちが頷いた。


「全員、待機。交代要員も呼び戻せ」


操作主任が動き出した。


戸川は受話器を取った。


「課長、半日前予測が出ました」


「拝見しています」


「事前放流の枠を広げたい」


「……半日前予測は、県全域が対象です。当ダム流域に当たるとは限らない」


「だから備えます」


「外れたら——」


「課長。聞いてください」


戸川は声を変えた。


「当たってから動いたのでは、間に合いません。線状降水帯の発生情報が出るのは、すでに降り始めてからです。そこから事前放流をしても、ダムは満杯になります。今、動かなければならない」


しばらく沈黙があった。


「……部長に確認します」


また待った。


今度は二十分で折り返しが来た。


「限定的な拡大を承認します」


戸川は操作主任に指示した。放流量を増やす。下流の水位を見ながら、ぎりぎりまで。


午後になって、雨が降り始めた。


最初は普通の雨だった。


しかし上流の雨量計の数字が、徐々に上がっていく。


気象庁からレベル3大雨警報が発表された。


夕方、レベル4大雨危険警報に切り替わった。


流入量が増加した。事前放流で確保した空き容量が、ゆっくりと埋まり始める。


戸川は操作室で水位計を見続けていた。


数字は、動いていた。


* * *


夜、十九時過ぎ。


モニターに、新しい速報が流れた。


「気象防災速報 線状降水帯直前予測」


「○○県北部に、今後二、三時間のうちに、線状降水帯が発生する可能性が高まっています」


ダムのある一次細分区域が、名指しされていた。


戸川は別の画面を開いた。


線状降水帯予測マップ。


メッシュがいくつも色を変えていた。


黒瀬川の上流域が、赤い升目で塗りつぶされていた。


操作室が、静まり返った。


「来るぞ」


戸川は静かに言った。



第三章 豪雨到来


二十一時。


雨が、変わった。


これまでの雨とは、降り方が違っていた。


上流の雨量計が跳ね上がる。時間雨量五十ミリ。八十ミリ。


気象庁から、新しい速報が流れた。


「気象防災速報 線状降水帯発生」


ダム上流域で線状降水帯が発生した、と告げる電文だった。


そのすぐあとに、レベル5大雨特別警報。


操作室のモニターが、いくつも更新を続けた。雨量、水位、流入量、テレメータ各局の観測値。数字がすべて、同じ方向に動いていた。


時間雨量八十ミリを超える観測点が、次々に増えた。


流入量が爆発的に増加した。


事前放流で確保した空き容量が、目に見えて埋まっていく。


戸川は計算を始めた。


流域面積。流出係数。ピーク流入量の推定。洪水調節容量の残り。


気象庁が予測雨量を更新した。


二十四時間雨量、二百ミリ。


再計算。


三百ミリ。


再計算。


四百ミリ。


戸川の鉛筆が止まった。


計算するまでもなかった。この雨量では、現在の放流量を続けても、洪水調節容量を使い切る。洪水時最高水位を超える。


「間に合わない」


声に出したのは、自分に現実を認めさせるためだった。


操作室の職員五人が、全員、戸川を見た。


戸川は時計を見た。二十二時三十分。


水位計を見た。


洪水時最高水位まで、あと三メートル。


このままなら、約三時間後に洪水時最高水位に到達する。


戸川は受話器を取った。


* * *


「河川課長を」


「お待ちください」


待たされた。


「もしもし、戸川さん」


課長の声は、すでに張りつめていた。


「異常洪水時防災操作を上申します」


電話の向こうで、息を呑む音がした。


「それは……下流に、浸水被害が出るということですか」


「出ます」


「どれくらいの」


「下流の低地は、ほぼ全域。床上浸水が数百戸規模で発生します」


「……」


「課長」


戸川は声を整えた。


「もう少し、雨が弱まる可能性は」


「課長、聞いてください」


戸川は受話器を握り直した。


「このダムは、ロックフィルダムです。岩と土と粘土を積み上げた堤体です。水が堤体の上を越えれば、下流面の岩が洗われ、フィルター材が抜け、コア材が露出します。一度崩れ始めれば、止める手立てはありません」


「……」


「崩れた場合、数千万トンの水が一気に流れ下ります。下流の街は、浸水ではない。消滅します」


「……」


「浸水と消滅。どちらを選びますか」


長い沈黙があった。


「……部長に確認します」


電話が切れた。


戸川は受話器を置いたまま、水位計を見続けた。


一分。


二分。


数字は上がり続けていた。


電話が鳴った。


「承認します」


戸川は短く答えた。


「ありがとうございます」


電話を切った。


操作室の全員に向かって、戸川は言った。


「異常洪水時防災操作の三時間前通知。一斉発信」


* * *


二十三時。


操作室から、同時に電話と緊急メールが飛んだ。


県。市。消防。警察。報道機関。


「ダムでは、本日翌二時を目処に、異常洪水時防災操作に移行します。下流域への放流量が大幅に増加し、河川水位が急激に上昇する見込みです」


市の防災無線が鳴った。


深夜の街に、サイレンが響いた。


エリアメール。緊急速報メール。スマートフォンが一斉に音を立てる。


「警戒レベル4避難指示」


市が発令した。


消防団と自主防災組織が動き出した。住民を避難所へ誘導する。高齢者の搬送が始まる。


戸川は操作室で、報告を待っていた。


二十三時半。市の災害対策本部から、最初の報告。


「避難所開設完了。誘導開始」


水位計を見る。


洪水時最高水位まで、あと二メートル。


* * *


時刻が進んだ。


雨は、止まなかった。


むしろ強さを増していた。線状降水帯は停滞していた。同じ場所に積乱雲が次々に発生し、降り続ける。


上流の雨量計が新しい数字を出すたびに、流入量が更新された。


予測を超えていた。


操作主任が戸川に告げた。


「所長。流入量がさらに増えています。当初予測より、洪水時最高水位への到達が早まる見込みです」


戸川は計算した。


「予定の翌二時より、早く操作開始が必要になる可能性がある。一時、いや、零時半か」


「市に伝えますか」


「いや。まだだ。避難の状況を見る」


戸川は市の災害対策本部に電話を入れた。


「避難の進捗は」


「進めています。しかし——」


担当者の声が緊張していた。


「一部地区で道路が冠水しています。迂回が必要な世帯があります。高齢者の搬送に時間がかかっています」


「完了までどれくらい」


「あと、三十分、いえ、四十分は必要です」


戸川は時計を見た。


零時十分。


水位計を見た。


洪水時最高水位まで、あと一メートル。


* * *


零時半。


水位が洪水時最高水位を超えた。


操作規則上は、ここから異常洪水時防災操作に移行することができる。


しかし戸川は、放流量を本則操作のまま保った。


洪水時最高水位の先には、設計最高水位がある。そのさらに先に、堤頂がある。


その間のわずかな余裕で、時間を稼ぐ。


操作室の全員が、水位計を見ていた。誰も口を開かなかった。


市から、断続的な報告が入った。


「○○地区、避難完了」


水位、設計最高水位まであと八十センチ。


「△△地区、避難完了」


七十センチ。


「□□地区、あと十二世帯」


六十センチ。


戸川の額に、汗が滲んだ。


操作員の一人が、低く呟いた。


「所長」


「待て」


「しかし——」


「待て」


戸川は水位計から目を離さなかった。


設計最高水位の先には、堤頂がある。


堤頂を越えれば、ロックフィルダムは崩壊を始める。崩壊が始まれば、止められない。


その距離は、わずかしかない。


「あと、五世帯」


五十センチ。


「あと、二世帯」


四十センチ。


戸川は唇を噛んだ。


電話が鳴った。


市の災害対策本部。


「全地区、避難完了しました」


戸川は一瞬、目を閉じた。


それから、操作主任に向かって言った。


「異常洪水時防災操作に移行する」


「移行します」


操作主任が復唱した。


ゲートが動いた。


放流量が、段階的に増加していく。やがて流入量と等しくなる。ダムは、ないのと同じ状態に近づいていく。


警報サイレンが下流に響き渡った。すでに人はいない。


操作室の窓の外、闇の中で、水の轟音だけが響いていた。


戸川は椅子に深く座った。


すべての判断は終わった。


あとは水が、自然が、答えを出す。



終章


夜が明けた。


雨が弱まった。流入量が逓減を始めた。


操作室の窓から見える谷の下、ダムの直下の渓流は、まだ濁った水が荒れ狂っていた。だがその轟音は、夜半よりわずかに小さくなっていた。


午前八時過ぎ、市の災害対策本部から報告が入った。


下流の低地一帯が、浸水していた。


住宅、商店、田畑、道路。泥に覆われた町。避難所の体育館に、毛布にくるまった人々の列。


床上浸水、約八百戸。


しかし、死者はいなかった。


行方不明者も、いなかった。


全員が、避難を完了していた。


戸川は報告書を読み終え、操作室の椅子から立ち上がった。


窓の外、湖面は静かに揺れていた。洪水時最高水位を超えた水位は、すでに平常時最高水位の付近まで下がっていた。何事もなかったかのように、湖は再び鏡になろうとしていた。


もしダムが決壊していたら——


数千万トンの水が、一気に流れ下っていた。


街そのものが、消えていた。


そう思った。


しかし口には出さなかった。


* * *


数か月後。


県庁の会議室で、検証委員会が開かれた。


長いテーブルに、有識者、住民代表、市と県の職員、報道関係者が並んだ。戸川は末席にいた。河川課長は、戸川から離れた席に座っていた。


議事は、ダムの操作の妥当性に関するものだった。


事前放流の判断時期。異常洪水時防災操作の決断時期。下流への通知のタイミング。避難の実効性。


住民代表の一人が言った。


「もっと早く放流すべきだった。事前放流の判断が遅かったから、当日の雨に間に合わなかったのではないか」


別の住民代表が言った。


「そもそも放流しなければ、浸水しなかった。ダムが水を止めるのが仕事ではないのか。あの放流のせいで、私の家は床上一メートルだ」


両方の声は、同じ怒りを持っていた。


家を泥に浸された人間の怒り。


戸川はそれを否定する気はなかった。どちらの声も、半分は当たっていた。事前放流をもっと早く、もっと大量にしていれば、結果は違ったかもしれない。放流量を抑えていれば、家屋への被害は減ったかもしれない。しかし——


しかし、それを言えば、何かが救われるのか。


戸川は黙っていた。


議論は四時間に及んだ。


最後に、委員長が眼鏡を外し、報告書の最終ページを読み上げた。


「異常洪水時防災操作への移行判断、ならびに事前放流の実施時期について、当時得られていた気象情報、流入予測、下流河川の状況、避難所要時間等を総合的に勘案すると、所長の判断は、当時の情報水準において適切であったと認められる」


会議室が、静かになった。


戸川は何も答えなかった。


「適切」という言葉が、何かを救ってくれるわけではなかった。


八百戸の床上浸水が「適切」の結果だと、泥を掻き出した人にどう説明すればいいのか。


しかし、説明する立場ではなかった。所長は、説明する立場ではない。判断する立場だ。


判断は、終わっている。


戸川は礼をして、会議室を出た。


廊下で、河川課長とすれ違った。


課長は何か言いかけたが、口を閉じた。


戸川は会釈をして、通り過ぎた。


* * *


翌年の、六月。


梅雨入りが発表された日。


戸川は朝五時に操作室に入った。


窓の外、湖面は灰色だった。一年前と、同じ灰色だった。


水位計の数字を見る。


貯水率、八十七パーセント。


天気図を開く。南の海上に、湿った空気の流れがあった。前線の予感。


戸川は椅子に座り、画面を見つめた。


誰も、代わってはくれない。


答えの出ない問いを抱えたまま、それでも判断を下す。それがこの椅子に座る人間の仕事だった。


水位計の数字が、静かに揺れていた。


(了)

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