婚約と破棄を繰り返した者の末路
「おい! ちょっと待てレイン! こんなの聞いてないぞ!」
家中に響き渡るかのような怒号が、私に向けて浴びせられる。
夜分遅くのことだった。
急にファクリス家の屋敷に押しかけて来たかと思えば、面会早々に何かを吠え始め、まるで野犬と同等の存在がそこにいた。
フィル・ベルルト——数ヶ月前までの私の婚約者だった男だ。
やれやれと、私は重いため息を吐く。
その様子を見て、使用人たちは申し訳なさそうに謝罪していた。
彼の対応した使用人は、日を改めるように促してくれていたようだが、フィルは全く聞く耳を持たなかったようで。
レインに会わせろ——その一点張りで、やむなく客間に通すことになっていた。
結果的に主人の意にそぐわない形になってしまったとはいえ、いずれフィルがこうして異議を唱えに来るのは、私の予想の範囲内ではあった。
だから使用人たちが気に病む必要はない。
だが、夜分遅くに相手の事情も考慮せず、お構いなしにやってきたフィルには少々苛立ちを覚える。
成り上がりの貴族ゆえの傲慢さが、しっかりと自らの振る舞いに現れていた。
「それで? 何の御用でしょうか? すでにファクリス家とベルルト家は、遺恨なく婚約を解消されていると存じますが?」
「はぁ? あんなのは無効だ! 婚約破棄の取り消しを求める!」
はぁ? はこちらのセリフです。
あなたの望み通りに、婚約を破棄して差し上げたにも関わらず、唐突にどういう風の吹き回しでしょうね?
それにしても婚約破棄の取り消しとは、何度ひっくり返せば気が済むのか。
「今更、何をおっしゃいますのやら。互いに円満で婚約は破棄されたはずですが……?」
「円満だと……? ふざけるなッ! こんなやり口、認められるか!」
「さて? それは一体、どういう意味でしょう?」
皆目検討がつかない、とばかりに両手を空に掲げて、大袈裟にお手上げな格好で場を和ませようとしたのだが、それはそれで彼の怒りを買ってしまったようで。
束になった書類をパラパラと捲り、ある部分を私に見せつけるようにして声を荒げた。
「婚約破棄条項だよ。あんな見えにくくて、分かりにくい箇所に記載して、悪質とは思わんのか!」
バンバン、と書類を叩いて、怒りを露わにするフィル。
彼の言い分によれば、私たちの婚約成立した際に、双方の合意のもとで交わした契約書の内容に不服があるようだった。
中でも片方が正当な理由なく、一方的に婚約破棄した際の補填措置について、怒りを露わにして。
「それのどこが分かりにくいと言うのですか? しっかりと太字で色づけまでしているではありませんか。 “一方的な婚約の破棄によって、相手に不利益が生じた場合、婚約を破棄した当事者は相手方に金貨一万枚を支払う”と」
それはもう十分に目立つくらい。
見えにくいなんて言わせない、一読していれば絶対に目につくようにしっかりと記載されていた。
「俺はこんなの知らないぞ! 無効だ、無効! 俺は一切払わない!」
「そう言われましてもね〜。その書類はただの紙ではなく、魔法陣が刻印された特別製ですので、もしも支払われないようですと——」
「ど、どうなると言うのだ。支払わなかった場合は…………?」
「何も変わりませんわ。ただ今以上の地獄を見るだけです。魔法契約を無視したツケとして、やがては玉座の間で陛下の元に駆り出され、その結果貴族の地位は剥奪となり、今以上に多額の負債を抱えることになる————たったそれだけのことです」
「あははは〜! 全く冗談キツいよレインは、そんなことあるわけ——」
「そんなことあるわけないと、思われるのでしたらどうぞご自由に。後々どうなるのか楽しみに待っていますわ」
さらっと、これからフィルの身に起こるであろう展開について解説して差し上げる。
凡庸な彼のことだから、これまで通りあっけらかんと気にも留めないと思っていたが、今回はしっかりと顔を青ざめさせていた。
流石に今の生活が脅かされるとあっては、フィルも想像の末に戦慄しているようだった。
それだけ貴族間の契約は重いものなのだ。
横の繋がりが太ければ太いほど、互いに共有される情報、様々な物資の調達において、大きな利点を得られる。
しかし、フィルにはそれらが欠落していた。
両親のおかげで、あれよあれよと成り上がっていったボンボンの彼は、その重要性を彼は全く分かっていない。
「元はと言えば、あなたが他に意中の女性が見つかったから、私との婚約を破棄しろ——そう一方的に通告して来ましたのに。婚約の破棄は成立している以上、もう不可能ですわ」
私の言葉に苦虫を噛み潰したような表情で、フィルは苛立ちを募らせる。
だがそれは私も同じです。
こんな意味のないことに時間を使わされ、手間を取らされて腹立たしく感じていた。
非常識にも突然夜中に押しかけて、何事かと思えば契約書に難癖をつけに来ただけ。
就寝準備万全の状態で、わざわざ部屋着から着替えさせられた私の感情を考慮することは、この男にはできないのでしょうね。
「それで? 私にどうしろと? すでに婚約は破棄され、条項通りに金貨一万枚を支払っていただくことも、通知されるはずですが?」
もう何を言ったとしても、今更覆すことはできない。
フィル自身が婚約破棄する際に、しっかりとサインなされているのだから。
どうせ彼自身が一度も目を通すこともなく、独断で判断したため、フィル側のご両親の確認も入らずに、この有様なのでしょうけど。
同じ過ちを繰り返し続けるとは、本当に懲りない人です。
いずれ減額の相談もあるかなと、予想してはいた——けれど。
フィル一人がやって来ている辺り、彼のご両親も今の惨状の話を知らないのではなかろうか。
もしもそうなら、ご両親に対しては不憫でならない。
成り上がりと揶揄されても、一代で貴族の地位を得たその手腕は高く評価されていましたのに。
「そうだ。もう一度俺と婚約すればいいんだ」
「——はぁ……?」
唐突にわけの分からないことを口走り始めたフィルに、私はもうお手上げだった。
「だってそうだろ? お前と再び婚約すれば、金貨一万枚の支払いはチャラ。何事もなく解決、親にも無用な心配をかけずに済む」
「やっぱり、言ってないんですね……」
ほとほと呆れていた。
悪い話ほど口にしづらい、というところか。
早々に報告せず後に回してしまう、その気持ちは私としても分からなくはない。
だが爆発寸前の状態で、これから手渡されるであろうその爆弾は、きっと彼のご両親の沸点も爆発することだろう。
だけどその前に。
彼の発言によって、もう一つの導火線にも火がつけられていた。
「さっきから聞いてれば、ゴタゴタと自分の都合ばかりをぬかしやがって!」
「——へっ……?」
唐突に客間の扉が開かれて、怒鳴り声とともに一人の屈強な体格をした男が入室する。
どうやら見覚えがあるようで、その男を直視したフィルは、次第に身体を震わせ始め慄いていた。
「久しいのぉ、フィル殿。相変わらずといったところか?」
「な、なぜ? お義兄さんがここに!」
キサマにお義兄さんと呼ばれる筋合いはない、とフィルの発言を男は即座に一喝した。
両腕を組み、鋭い眼光でフィルを睨めつける青年。
年齢不相応に鍛え抜かれた強靭な肉体が身体を覆い隠し、軍服を華麗に着こなしている。
その場にいるだけのはずなのに、その存在感たるや凄まじい。
現状、そんな彼の威圧を目の当たりにしたフィルは、もうそれはそれは縮み上がっていた。
「前に俺の妹との婚約を勝手に破棄したかと思えば、今度はレイン——そしてまた次の女性に手を出す、ほんと底知れない欲望の権化だな」
「て、帝国陸軍最年少で昇進を重ね、鬼才と呼ばれるアンタがッ! なぜファクリス家に平然といすわっているんだ!」
ぺたんと。尻餅をついて、上擦った震え声をフィルは披露する。
腰砕けのまま立ち上がることが叶わず、小さく後退るがその彼の背後には私が回った。
逃がさないとばかりに。
「あなたもご存知の通り、クルス・フィード様。フィルが以前に婚約破棄をしたリオンの兄上であり————今は私の婚約者様です!」
「は、はい? マジで…………?」
満面の笑みで今の二人の関係性を明かすも、すでにフィルの反応は驚きを通り越してしまわれたようで、その場で狼狽するだけだった。
まるで産まれたての子鹿のよう。
思うように身動きが取れずに縮こまるフィルに、クルスの方から歩み寄って子鹿の首根っこをひょいと掴むと。
「リオンの時で、相当堪えていたと思ってたが、存外に期待しているのだな? あの地獄の鍛錬を——」
「ひぃ…………! もしかして、初めからこうなることを知った上で……レインが仕組んで、いたのか…………?」
いえいえ。仕組んでいたなどととんでもない。
全て偶然です。たまたまクルスが家に泊まりに来た日と重なっただけです。
最もフィルの運の無さには、同情致しますけど。
クルスの発言から、何か嫌な記憶が掘り起こされたようで、これまでの尊大な態度が嘘のように消えてしまっていた。
その虚な瞳からは恋しさのあまり、昔体験した地獄の鍛錬の日々に思いを馳せているのだろう。
「よし! じゃあその根性、叩き直してやる! ほら行くぞ!」
「え、えっ……イヤだ! イヤだぁぁあああ!!! 行きたくない! 行きたくないッ!!!」
不意にフィルは正気に戻ってしまったようで、最後の僅かな抵抗を見せていた。
クルスの手から逃れようと、もがいていたものの彼の腕力に適うはずもなく、引きずられるようにして部屋を後にする。
客間から退出する、その去り際。
「レイン! ボクと婚約しておきながら、他の者とも婚約するなんてヒドイじゃないか! だから後生だ! 助けてくれぇぇえええ!!!」
どの口が言うんだと、指摘する間もなく客間の扉は閉ざされる。
最後の最後まで、廊下でも駄々をこね続けたのであろうフィルの残響は、この客間の中にも届き続けていた。
※ ※ ※ ※ ※
「まあ! それは大変でしたわねお義姉様!」
全てを話し終えて、ポンと一つ手を叩いて私に労いの言葉をかける女性。
私の自室に招いて、優雅にお茶を楽しみながら、これまでの経緯について彼女に説明し、どうやら楽しんでいただけたようだ。
「でも、これも全てあなたのおかげよ。リオンがフィルについての情報を教えてくれたから、上手く行ったわ」
貴族同士の横の繋がりに強く感謝。
フィルの婚約破棄癖が表沙汰になる前、一番最初の被害者がこのクルスの妹、リオンだった。
彼女が懸念を伝えてくれたおかげで、被害を被った代償として、フィルから多額のお釣りを得られていた。
彼のやり方は至ってシンプル。
容姿の美しい者に対して婚約を迫り、また別の女性に目移りすれば、今までの婚約はさっさと破棄して、次の女性に求婚を迫る。
次から次へと数珠繋ぎのように、婚約と破棄を繰り返していた。
こんなの最初から破綻してる、私はそう思ったけど彼は”結果的に“上手く回していた。
ベルルト家は成り上がりの一族。
不明瞭な部分も多いとはいえ、当時勢いのあったベルルト家との繋がりを得るため、興味を持たれた方々も多いと聞く。
そしてフィル自身、問題点は多いし特に性格はアレだが、見てくれだけは私から見ても及第点。
それらの要素が相まって、フィルにとっての追い風になり、傍若無人に婚約を繰り返せたのだろう。
回数を重ねるに連れて悪評も広がり、ベルルト家の勢いも減退していたため、そう上手くも行かなくなったようですがね。
そうして私の元にも、婚約の話がやってくる。
その際にフィルの性分をリオンから伝え聞くのだが、まあ普通ならさっさと破談にしてしまうのが妥当なのでしょうけど。
上手いこと利用できないかな? なーんて考えてしまうのが私のしたたかな部分。
リオンから伝え聞いた話と、独自の情報網によって、私は一つの見解へと至った。
——フィルの頭の中はピンク塗れで、一に女、二に女、三に女で、他のことは何もできない傲慢な坊っちゃん気質であると。
その結果、常人であれば絶対に見逃すはずのない、法外な要求にも簡単に同意し、本当に一切目を通すことなく、契約書にサインしてしまうという醜態を晒していたのだった。
知らぬ間に破産への道を歩み始めたベルルト家は、今現在金貨を工面するため奔走していると聞く。
突然の支払い勧告。こんな大事になっているとは思いもよらず。
フィルの婚約についても、破談にするのなら相手にも失礼にあたると、ご両親は止めていたのにも関わらず、水面下で親バレしないように勝手に動いていたという。
挙句には、このような始末を押しつけられて、本当に同情致しますわ————けど、しっかり金貨一万枚はいただきますけども、ええ。
「本当にリオンは何も要らないの? あなたのおかげで得られたような物ですし、貰って頂かないと心苦しいですわ」
いずれ懐に入ってくる金貨を二人で折半しようと、提案したのですが彼女は断っていた。
「フィル殿にお灸を据えられた、それだけで十分です。もうこれ以上被害が広がることはない。これもレインお義姉様のおかげです!」
ああ、もう。
金貨に執着していた自分が恥ずかしい。
彼女はずっと婚約破棄されたことを根に持って、復讐の炎を燃やしていたのに対して。
何だか自分がちっぽけに感じて、リオンが女神様にしか思えなくなっていた。
こうして一連のフィルの婚約騒動は、次第に沈静化していくことになっていく。
ジリ貧の状態で辛うじて、貴族の地位を保ったベルルト家。
これもご両親の努力の賜物であり、私自身も彼らの支払い期日に猶予を持たせたことで、大きな貸しを一つ作ることができた。
話し合いの場においても、彼らは終始平身低頭で子息のフィルとは全くの大違い。
こんなにも優秀なご両親から、どうしてあんな風に育ってしまわれたのか、全く不思議なものです。
今後は彼個人で身勝手な行動をさせないように、より厳格に監視していくと宣言されていました。
そして、好き放題に猛威を振るっていたフィルはというと。
一週間が経過した今になっても、未だ姿を見せることもなく、同様にクルスもあれから帰ってきていません。
恐らくは今もクルスとともに、地獄の鍛錬が続いているということでしょう。
今もどこかで、フィルの断末魔が轟いているのかもしれませんね。
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